自伝を引き続き読み進もう。

聖 道 門 へ の 志

 十九歳になってたまたま『五家正宗賛』を読んだ。そこには巖頭和尚が盗賊に殺害されたとき、その叫び声は三里の外までとどいたとあった。自分は思った。透徹していることは立派だが、どうして盗賊の矛先(ほこさき)をかわすことができなかったのかと。ああ、巖頭和尚のような人は僧の中でも麒麟や鳳凰のように秀(ひい)で、仏海の蛟龍であってもなおこのような死にざまだ。死後どうして獄卒に杖うたれることから免れることができようか。もし果たしてそうなら参禅学道には何の利益があるのであろうか。仏法はこのように大嘘つきだ。何とも残念なことは、自らこの妖怪邪妄な地獄にとびこんだことだ。今になってはどうしようもない。そこで大いに悩みぬき、食わざること三日間であった。永らく仏法に希望をなくし、仏像経巻を見るのは泥土を見るようだった。ひたすら俗典を読み、詩文を作って少しは憂鬱さを忘れていた。

 巖頭和尚については、『正受老人とその周辺』(中村博二、信濃教育会)に説明されている。

 巖頭全?(828-87)は、徳山宣鑑の法を嗣いだが、唐の武宗皇帝の会昌(えしょう)の破仏(はぶつ)にあい、僧侶の姿を止めて洞庭湖で渡し守をしていた。のちに湖畔に庵を結ぶと、学人が雲集した。常に弟子たちに「老僧去る時大吼一声し了って去らん」と言っていたが、盗賊に襲われ首をはねられ、予言通りに大吼一声して終った。

要するに白隠は「死んでも地獄におちないこと」を大目標として仏道に入ったものと思われるが、彼の行状はいささか変っている。

 その当時は、大聖寺の息道和尚についていたらしいが、すっかり仏道に興味を失って、草紙の類を読み散らかし、文章や詩を書く練習をして暇つぶしをした。後年彼が饒舌になったのは、このときの作文練習のせいだと人は言う。

写真: 原宿、松蔭寺、
        
         沼津市原町商工会のホームページから
         借用しました。