やがてそれにも飽きて、行脚に出た。『正受老人とその周辺』によれば、越後の英巌寺にたどりつくまでの5年間に11か寺に掛錫(かしゃく)(行脚中に他の寺院に滞在すること)した。駿河三か寺、美濃四、福井小浜一、伊予一、備後福山一、河内一で、そのうち五か寺には衆寮があったという。おそらく白隠は無一文で旅をしたのであろうが、どこの馬の骨かわからぬ青臭い坊主を温かく受け入れる平和な時代であった。

二十二歳になって若州の常高寺へ往って、虚堂会(きどうえ)に参加し、たちまち省覚があった。その冬、予州にあって、仏祖三経を読んで大いに省悟した。昼夜無字の公案をねって片時も休まなかった。ただ純一無雑、打成一片になりきれないことを心配した。また寝ても覚(さ)めても同じであることができないのを慨(なげ)いた。
  (鎌田茂雄『白隠』のうち『遠羅天釜 巻の下』、講談社)

 何事でもそうだが、一人でやっていては、はかが行かぬ。が、仲間がいれば自然と要領も身につき、かつ競争心もでてくる。白隠は行脚に出て、黙想のコツを覚えたばかりか、四十二章経、遺教経、『?山警策』の三経(仏祖三経)を読んで理論をも勉強し、あとはひたすら純一無二の境地になりきるべく座禅に励んだ。テレサの語彙を使えば、「念祷の仕方を習得し、潜心した」ということになる。

 こうやって調べてみると、「理屈ぬきで信仰する」宗教ではなく、自ら立証する、つまり神(仏)は存在するかという命題を自分の体験を通して立証する宗教にあっては、アプローチの仕方は、洋の東西を問わず、正確に一致していると断言できそうな気がする。


 5年間の行脚ののち、黙想のコツを完全に取得して、公案の意味を四六時中考え続ける白隠は、西暦1708年、宝永五年の春、越後高田の英巌寺にたどりついた。ここで性徹和尚による『人天眼目(じんてんがんもく)』の講義がおこなわれていた。今風にいえば、大学の特別集中講義が新潟県高田市の英巌寺大学で開講され、講師は性徹先生で、演題は「人天眼目」であった、ということになるのだろうか。

 前年の11月に富士山が噴火して宝永山が出現し、武蔵、相模、駿河の三地域は降灰で甚大な損害を蒙ったが、修行に一所懸命の白隠はそれどころではなかったらしい。

 二十四歳の春、越後高田の英巌寺の禅堂で苦修練行し、昼夜も眠らず、寝食ともに忘れるにいたった。忽然として大疑団が現われて万里にわたって一すじにのびている鉄のように、厚い氷の下で凍え殺されるように胸の中が一杯で真っ直ぐに進むことができず、退くこともできず、癡呆のごとくすべてを忘じ、ただ無の字あるのみ。講義の席に列して師の提唱を聞いても、数十歩の外のことで、堂上の議論を着くようだ。あるいは空中に在って行くようだ。     (同上)

 寝食を忘れて座禅に打ち込んで、ひたすら「無」の字を追いかけてあれかこれかと考え尽くしていると、すべてが皆目わからなくなり、二進も三進もいかなくなってしまった。人天眼目の講義を聞いても上の空の状態で、すべてが空回りする状態となった。

諸 国 行 脚

画題:Egon Schiele,
         "Agony" 1912,
         Neue Pinakothek, Munich 
         http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/schiele/schiele.agony.jpg
         WebMuseum, Paris

         よくわからない絵だ。
         (心の)苦痛にあえぐ人に
         僧侶が念力を吹き込んでいる。
         どちらも必死の「土壇場」である。