オ ル レ ア ン (1)

                   2014/05/17

部分拡大図

邸の中庭に立つジャンヌ=ダルク像は、1841年にルイ・フイリップ一世の娘である「オルレアンのマリー」王女が寄贈した大理石像の青銅コピーである。1944年第二次大戦中、大聖堂で炸裂した爆弾の破片の傷跡が残っている。

 フランスではフランス革命のとき、教会制度が廃止され、それ以降結婚式は市役所で行われることになった。だから、教会制度が復活した今でも、市民は教会ではなくて、市役所で結婚式を挙げる。

 グロロ邸(Hôtel Groslot)はジャンヌ=ダルクとはなんの関係もない。この屋敷はオルレアン知事であったジャック・グロロ(Jacques Groslot)のために1545年に建設された。ルネサンス様式で、建築家はJacques Ier Androuet du Cerceau。フランス革命の後、オルレアン市の市役所となった。

3. グロロ邸

 ドゴール広場に面している。かつてはオルレアン公の財務官を務めたジャック・ブゥシュの邸にジャンヌ=ダルクは泊まった。この屋敷は当時のオルレアン市の西端で市壁に接していた。残念なことに19406月爆撃に会い炎上してしまったが、豪華な邸跡がのこされている。小さな公園となっていて、花が咲き乱れている。

2. ジャンヌ=ダルクの家

この拡大図から読み取れるように1550年頃、トゥーレル砦(少なくともその一部)は残っていた。

 現在はトゥーレル砦、稜堡、ブールヴァード、オーギュスティーヌ砦のいずれも残っていない。市電が通る幅広い橋があるのみである。昔を蘇らせる断片がひとつもなくなっていて、まことに残念だ。

画像:作者不明、フランス派
オルレアン市展望。通称「市参事官の絵」
油彩・キャンバス
16世紀第二・四半期
出自:前オルレアン市役所(グロロ邸)
1857年頃オルレアン市から寄贈
Inv.A.6924

説明:
オルレアンのパノラマ画には、トゥーレル橋の北岸から数えて二番目の橋脚上に、1502年以降に建てられたオルレアンの乙女像が見える。これは1502年以降に立てられたものだが、1562年にユグノーによって破壊された。十字架上のキリストと聖母の両側に跪くジャンヌ=ダルクとシャルル七世が彫刻されていた。

 このような構造物のいくばくかの断片が残っているだろうと大いに期待して出かけたのだが、期待外れでなにも残っていなかった。

 ちなみに後に訪れた考古学博物館には、16世紀第二・四半期に描かれた「オルレアン市展望」と題する油絵が展示されている。

1. ジョルジュ・サンク橋

(もともとの名前はトゥーレル橋)

 見て廻った順に簡単に説明すると、

画像:駅前の案内板を撮影。2014/05/17 縦の赤・太線が電車1号線、紫・太線が電車2号線。細い線はバス。

画像:Google Map 2014

写真:街の美化のためか市電には架線とパンダグラフがない。路面の第三軌条から集電しているようだ。(イノレール式APS

オルレアンへの汽車はオステルリッツ駅から出発する。オステルリッツ駅というと所在が分からないが、リヨン駅からセーヌ河にかかるシャルル・ドゴール橋を渡れば、すぐそこにある。私のホテルの前を通るバスに乗れば終点である。

駅でオルレアン行きの切符を20.80ユーロで買い、8時半の急行に乗れば1時間でオルレアンに到着する。オステルリッツ駅は改札口がないので、乗車前に切符に打刻(valider)しなければならない。

 オルレアンのジャンヌ=ダルク(4)でお読みいただけるとおり、トゥーレル砦を中心とする英国側の強固な砦があった場所で、ジャンヌ=ダルクの大胆不敵な敢闘精神により142955日からの三日間の戦闘でこれを陥落させた。ジャンヌ=ダルク伝説のなかでもっとも有名な場所。ジャンヌ=ダルクの戦ったときの砦の構造は左。

画像:(アメリカ、ヴァージニア州)聖ジャンヌ=ダルク・センター 一部修正

写真:ジャンヌ=ダルク通り。正面が大聖堂。街全体に輝くような美しさがある。

写真:素晴らしく美しい市街電車

 オルレアン駅に到着すると、駅前に市街電車が走っている。一日券が6ユーロだったと思うが、切符販売機は硬貨しか受付けないので、硬貨を持っている必要がある。本日見て廻る箇所(下図)はすべて電車で回れる。

画像:2014/05/17撮影。15683月ユグノー過激派による大聖堂破壊の際に損傷した彫刻と思われる。考古学博物館。