ピ エ  ( Pyay )

            補遺

なお、ミャンマーの歴史についてはWikipedia History of Burmaが詳しい。

また、美術史についてはThe Pre-Pagan Period: The Urban Age of the Mon and the Pyuが詳しい。

 引用した画像のオリジナルがでてこない場合は、Googleで「pyay thayekhittaya」を検索し、「Pyay and Thayekhittaya - Mrmyanmartravel.com」をクリックすれば画像が出て来ます。


では、皆様ご機嫌よう。

 このほか、ピエの近辺にアカウク・タウンというイラワジ河畔の仏像彫刻がある。1852年第二次英緬戦争(the Second Anglo-Burmese war)末期、イラワジ河に設けられた関税所に船乗りが彫ったもので、美術上、歴史上の価値はほとんどありません。写真だけ載せておきますが。


Akauk Taung (located at Htone Bo Village)

画像Buddha Images above Ayeyarwaddy River at Akauk Taung

シュエサンドー・パゴダは岡の上に位置しており、ピエのランド・マークである。シュエサンドーとは、金の遺髪の意味である。アエヤールワディー河の東岸に位置し、ミャンマーで非常に崇敬されている建物である。
 パゴダは一続きの五層のテラスから成っており、頂上に円筒状のストゥーパが載っている。このストゥーパには宝石をちりばめた笠がついている。高さは127ft(39m)で、土台から測って総長290ft(88m)の台座に立っている。

画像Shwesandaw Pagoda's platform

銀貨

水野哲行氏のホームページから美しい写真の幾つかを取りだし、拝観させていただきましょう。画像は水野氏のHPより拝借してあります。

考古学博物館

ボーボージーパゴダとは形も特徴も異なっていますが、パヤジーは後期パゴダのもうひとつのプロトタイプであります。これはタヤキッタヤー・ピュ時代初期に建てられたもので、正式名をヤダナチリ・マハール・パゴダと言います。

場所はタヤキッタヤーの古代都市の北西城外です。ボーボージー・パゴダと同時期に属するのですが、建設時期はボーボージーよりも後です。これは元々のサイズ、形状、デザインをまだ留めているミャンマーのもっとも古いパゴダの一つです。

この地方の伝説によれば、パヤジーはピュ王朝の創始者であるドッタバウング王が彼の王国のなかに建てた9個のパゴダのうち残っているものの一つです。

ファヤマール・パゴダ

テリネマール・パゴダとして知られているファヤマール・パゴダはドゥッタバウン王が建設した七つのピュー・パゴダのうちの一つである。ここに収められているのは、発見者と仏陀の聖遺物である足指の爪と鎖骨である。これはミャンマーの西暦5世紀の最も初期のパゴダである。ファヤマール・パゴダはパヤジー・パゴダと同時期のもので、デザインが似ている。(説明

画像Phayamar Pagoda in Thayaykhittaya near Pyay

画像ボーボージーの中の通路

基部に開口部があり、反対側の壁の高いところに別の開口部がある。ストゥーパのなかには小さなセラミックの壺が発見された。そのなかには、パーリ語(仏教の典礼言語)仏典の抜粋が書かれた金と銀の板20枚があった。これらの文章の書体は紀元後5世紀中頃ないし6世紀中頃のものだった。これはピュ時代にぴったりおさまる構造となっている。また、粘土の奉納板で、パガンの初代王アナウラタ王の名前が刻まれたものがストゥーパのなかの特別に造られた部屋のなかで見つかった。これもまたこの塔がパガン時代よりも早い時期のものであるという明確な証拠であり、したがい、間違いなくピュ期である。アナウラタ王のボーボージーにたいするゆるぎない崇敬の念は、しかしながらほろにがい。というのも、奉納板が内部に置かれたとき、ストゥーパになかに安置されてあった遺骨は見返りにパガンへと持ち去られ、そこで再安置されたからである。

 他の資料によれば、


  ボーボージーはこれら三つのストゥーパのなかでもっとも丈が高く(153ft)、ずっしりした円柱状の円筒形でそれが五層の同心円の壇に乗っている。主塔の上部は時間の経過で崩れ落ちており、切り縮めた形状にビルマの王冠あるいは笠に似た塔が付けられている。だから、他の塔も同様なのだが、もともと何がこの遺物の上に載っていたのか分かっていない。ボーボージーは、はじめちょっと見ただけだはわからないのだが、完全な固体ではない。実際、この円筒はその高さの三分の二までが空洞なのである。この点で、典型的に固体で中に入ることのできない他のビルマのストゥーパとは異なっている。

円筒形をしているボーボージー・パゴダはミャンマーの古代建築物歴史のなかでもっとも初期のパゴダの一つである。タエキッタヤー・ピュー時代の初期、ほぼ西暦5世紀、に建てられ、この地域ではもっとも古いパゴダとして知られている。碑文を刻銘した石碑は発掘されていない。高さは153ftである。口頭の伝説と古い年代記によれば、このパゴダはドゥッタバウン王(King Duttabaung)によって建造された。このパゴダの建築学的形式はバガン時代のものよりもずっと早い。
説明

衛星写真は次。

画像Bawbawgyi

中央をはすかいに横断しているのは鉄道。

1 は、考古学博物館。
2 は、城跡。長方形である
3 は、城壁。円形をしている。

パゴダ(地図上の赤丸印)はいずれも城壁の外にある。現存するのは3塔。

南側のBawbawgyiボーボージー・パゴダ
北側のPyamaファヤマール・パゴダ
北西のPyagyiパヤジー・パゴダ

3塔についてはGoogle Map Aerial Viewからの衛星画像も示す。

画像タエキッタヤー。図面は一部修正済。

画像:Google Map 2014

ピエの位置はミャンマーの首都ヤンゴンの北北西290km.

ピエの商業都市は、エーヤワディー川低地に位置しており、近くにあるピュ族の都市タエキッタヤーが没落してから、12世紀バガン時代に作られた。この街は、有名なイラワジ艦隊会社の基地として英国植民地時代に栄えた。1877年にはミャンマーの最初の鉄道がピエとヤンゴンを結んだ。  (説明

タエキッタヤーはイラワジ河の東岸のピエの南東8kmのところにある。

ピュ族の古都 タエキッタヤー

画像:Google Map, 2014

 Wikipedia(History of Burma)が説明するように、このビルマの土地には13,000年前から人間が住んでいたのだが、「記録歴史上で最初の定住者はピュ族である。彼らは雲南から紀元前2世紀頃やってきてイラワジ渓谷に入った。紀元4世紀までに、ピュ族は数々の都市国家をつくったが、その南端はプロム(ピエ)であり、彼らは仏教を取り込んだ。」

 つまり、ピエはミャンマーでは最も古いピュ族の古都タエキッタヤーのあった土地で、日本にたとえるならば「奈良」ということになるのでしょう。

次に古いのはモン族で、「南方ではモン族が東方のハリプンチャイ王国(現在のタイのランブーン県)とドヴァーラヴァティー王国からやってきて、9世紀初めまでにビルマ南方海岸線に沿って彼ら自身の都市国家を設立した」。

その次はビルマ族で、「他のグループ、南詔(唐の時代の雲南の名称)王国のビルマ族が9世紀初めにイラワジ河上流に入った。彼らはイラワジ渓谷とその周辺部を統一してパガン帝国(1044–1287)を樹立した。この時期に、ビルマの言語と文化がピュとモンの文化規準を凌駕した。」

 ふたたび日本にたとえるならば、パガン(バガン)はさだめし京都ということになるのでしょう。

画像:インド・サルナートにあるダメーク・ストゥーパ(Dhamekh Stupa)。マウリヤ王朝のアショーカ王が西暦前249年に造ったパゴダの隣接地にある。(参照

画像:ミャンマーではもっとも古いボーボージー・パゴダ。西暦500年頃。お釈迦様がお悟りになったあと、初説法(初転法輪)をされた(紀元前500年頃)場所が、鹿野苑(ろくやおん)。つまり現在のインドのサルナートですが、このサルナートにあるダメーク・ストゥーパと形状が酷似しています。どちらも建造されたのが西暦500年頃ですから、アショーカ王の土饅頭形式のパゴダに次ぐ仏塔形式の第2番目といえるかも知れません。仏教遺跡としては極めて貴重な存在でしょう。

シュエサンドー・パゴダ (Shwesandaw Pagoda出典

さて、ピエの街にもどりましょう。

 今度のミャンマー旅行には含まれていないのだが、ピエの話をしておかなければならない。ミャンマーの記録歴史に残る最古の都タエキッタヤー・ピュ時代を説明しておかなければミャンマー美術の全貌を掴み損ねるからである。

画像:Google Map Aerial View, 2014

闇夜に浮かぶ仏像、Budda on Midnight

画像:フモーザ博物館(Fmawza Musium

仏像

石棺

少女ふたり、Payagyi Paya

画像:パヤジーは後期ミャンマー・パゴダのもう一つの原型。

画像:Google Map Aerial View, 2014

パヤジー・パゴダPhayagyi Pagoda

画像:「蓮の蕾」型のストゥーパが描かれた奉納板

ボーボージー・パゴダ

画像:Google Map 2014 一部修正