ヴィルヘルム・シュティーバー(2)

 彼のうさんくさい回想録によれば、彼は医者になりすまし、マルクスのロンドンの家に騙して入り込み、マルクスの共産主義者同盟のメンバーの名簿を盗んだ。このファイルのなかの情報はフランスならびに幾つかのドイツ諸国にも送られた。マルクスの仲間達の多くがこうして長期の投獄条件の判決を受けた。シュティーバーの回想録はまた、ホーエンツォレルン家にとって困惑させられる事柄に彼が係わっていたことを著述している。彼はコンスタンチン・シモニーデと称する一人のギリシャ人の詐欺師がベルリン科学アカデミーを騙して、模造の古代ギリシャの写本を使って5千ターラーを盗んだ事件に言及している。この金は国王の個人の財布からのものだったので、シュティーバーはできるだけ慎重にそれを取り戻すように命令された。一人の歳をとったサーカス役者を通訳として使い、シュティーバーは、シモニーデを残虐さで有名なギリシャ警察に引渡すぞと脅迫して、金を返還するよう強制した。金を確保してから、シモニーデは国境まで護送され、二度とプロイセンにもどってくるな、と命令された。

 シュティーバーはまた、ラインランドの偽造団と、ベルリン株式取引所におけるインサイダー・トレーディングを捜査した。彼はまた、ベルリンでの売春商売のエキスパートとなり、その住人達の多くを情報提供者に仕立て上げた。

彼はベルリンで死んだ。

(注:ヴィルヘルム・シュティーバー(ドイツ語:Wilhelm Stieber1818 - 1882))

 疑わしい回想録("The Chancellor's Spy"「宰相のスパイ」に関する対話のページを参照せよ)によれば、シュティーバーはプロイセン領ザクセンのメルセブルク(注:ライプチヒ西方20kmに生まれた。彼の両親は、政府の小役人で後にルーテル派の聖職者となったイポリト・シュティーバーと、英国人の貴族夫人であったデイジー・クロムウエルであった。彼の父親は彼がプロイセン教会の経歴を踏むようにねがったのだが、それに反してベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学でドイツ法の勉強を開始した。それで、1841年、犯罪裁判所に採用された。彼の父親は彼が法律を勉強をしていることを知って、かれの教育についての仕送りを止めてしまった。若い彼は、授業料を稼ぐために、ベルリン警察で働き始めた。この仕事が法律よりもはるかに面白かったもので、彼は犯罪局第4部の警部補への昇進を勝ち取った。1848年革命の後、彼はプロイセン国王フレデリック・ヴィルヘルム4世によって警察署長に昇進した。1850年の冬、彼はカール・マルクスという名前の亡命政治過激論者を調査するように命じられた。

画像46 Grafton Terrace, Kentish Town (nearest tube, Chalk Farm)

マルクスは、1856年から1864まで、ロンドンの開発中の地域の縁に近年建てられた家に住んだ。

翻訳2 Biography

伝記

出典Wikipedia