ヴィルヘルム・シュティーバー(1)

シュティーバーを知る手懸りとして翻訳を三編お目に掛けます。なお、1870年普仏戦争のとき、ビスマルクは55歳で、シュティーバーは52歳でした。

翻訳1  Nasty Wilhelm Stieber

「いやらしいヴィルヘルム・シュティーバーはビスマルクの冷酷なスパイ頭だった。」

出典Nasty Wilhelm Stieber was Bismarck’s ruthless spy chief

ヴィルヘルム・シュティーバーにかんするこの編集記事の原本は、1975823日付け”Look and Learn”710号である。

画像ヴィルヘルム・シュティーバー

「敵軍はすさまじい損失を見てパニックとなった」見出しが躍る。「彼らの将軍達は弾薬不足で混乱に陥った」

プロイセンの首都であるポツダム市の人びとは急いで最新の政府のニュース紙を読んだ。それにはオーストリアとの戦争の愉快なニュースでいっぱいだった。いつでもこのようなグッド・ニュースだった。

ニュース新聞の読者のうちもっとも洞察力のある人だけが最近の事実がいかに重要であるかを考えることを中止した。なんとなれば、プロイセン政府がその公式発表として印刷したニュースがいつでも好いことずくめであったということは、その大部分が真実ではなかったからだ。

プロイセン政府は実際、単にプロパガンダを見つけ出したにすぎない。それは一世紀ののち、その帝国の一人の後継者によって華々しく完成されるにいたった自明の理を実現したのだ。すなわち、民衆に長期間嘘を吐き続けると、民衆はそのうちにそれらを信じてしまうにいたるという理屈であった。

このプロイセン政府のプロパガンダ・マシーン、遠回しに「中央情報局」とよばれているのだが、の責任者は、この国のスパイの親方、ヴィルヘルム・シュティーバーであった。彼は多分史上空前に汚らわしい男達のひとりであった。しかし、すくなくとも、彼の手段は劇的な効果をあげた。彼のニュース新聞が初めてあらわれたオーストリア戦争は45日しか続かなかった。

その短い戦争の間、スパイの親方であるシュティーバーは、自分を印刷機という簡単な仕事に従事させる気はさらさらなかった。その代わり、彼は自分を行商人に変装し、一匹の馬と荷物をいっぱいに積んだ荷車で出発した。すぐさま、そしてはっきりした意図でもって、彼はオーストリア軍の前線を越え、彼が持って行った安物の品物をそこらにいる貧相な兵隊達に売り込んだ。

オーストリア人達が理解したことは、この小さな行商人が愛想のよい奴だったことだ。だから、彼が値切られて最低価格を無理強いされ、商いをするために喜んで「つけ」を受け付けたとき、彼らは自信を深めたのである。兵隊生活の些細なことや艱難から始まって、軍団や武器の移動へと話が展開し、行商人のカミソリのような鋭い心にすべての詳細を刻み込むまでに時間はかからなかった。

シュティーバーは実によく訓練され、輝かしいスパイ経歴を築いたので、プロイセンの宰相は彼のことを、「私の警察犬王」と呼んだ。19世紀の中頃の若者のなかでは、彼はプロイセンで最良の弁護士の一人だった。彼の顧客達は殆ど常に犯罪者であり、彼はその犯罪者達を裁判所のなかでポーシャ(「ベニスの商人」のなかの女主人公)の如くに弁護した。

このようにして彼自身をあたかも地下街の主人公に仕立て上げつつも、シュティーバーは、その一方で同時に、地域の警察新聞を編集していた。そして奇妙なことに、一方で犯罪者の弁護に挺身しながらも、他方では、警察への情報提供者組織の長となっていった。

この時代のことなのだが、彼は典型的なシュティーバー・スタイルでプロイセンのフレデリック・ウィルヘルム王と知り合いになった。ある日、臆病者で知られていた王が、外を歩いていたとき、シュティーバーは故意に一群の乱暴者の先頭に立っていた。群衆は恐怖に駆られた王を取り囲み脅しあげ、王と接触しそうな近さになったとき、シュティーバーはこっそりとささやいた。「陛下、恐れる必要はありません。私はスパイのシュティーバーです。お救い申上げます。」

この瞬間から、この王はシュティーバーに感謝すべき理由があると考えるようになった。そして、シュティーバーは彼の残りの人生の間、27回も勲章を授かった。

 有難く思った国王は、まず彼をプロイセン王国の警察長官に任命した。この時代、カール・マルクスのようなドイツ人の過激派はプロイセンから逃れて亡命していた。そしてシュティーバーは彼らに熱心に注目した。マルクスが大英博物館で「資本論」を書いていたとき、シュティーバーは倫敦に来て、彼に関する諜報報告を行い、彼自身を史上最初の「赤狩り人」に仕立て上げた。

 彼の指導者であったフレデリック・ヴィルヘルム王が腹を立てたとき、シュティーバーは経歴上、一時的に頓挫させられたことがある。新しい摂政はこの警察長官を首にした。そこでシュティーバーはロシアへ行き、そこで彼の才能はロシア皇帝に高く評価された。この土地、セント・ペテルスブルクで、シュティーバーはスパイシステムを発展させ、皇帝のスパイが政治的犯罪者を彼らがロシアから逃れたあとでも追跡できるようにした。

 ツァーの秘密警察の外国部門はオクラーナと呼ばれ、ロシア人の亡命者達を恐れさせた。

彼らの触手は1917年に帝政ロシアが崩壊するまで世界中に張り巡らされていたからだ。しかしその時までにオクラーナはとても効果的であったので、そのシステムは自然と、帝政ロシアに引き続いて生じた不吉な共産主義者の秘密警察システム−チェカ、GPUNKVDKGB−すべての青写真となった。

 ヴィルヘルム・シュティーバーの業務の絶頂期は彼がオットー・フォン・ビスマルクに会ったときに生じた。ビスマルクは、プロイセンの「鉄の宰相」となり、この国の本当の支配者となった。ビスマルクとシティーバーは直ちにお互いを気性の合った仲間だと認めた。プロイセンに呼び戻されて、シュティーバーは宣伝機関を作り上げ、ビスマルクの対オーストリア戦争を記録上最短戦闘のひとつにした。

 ここでシュティーバーは彼自身を正確な論理的で組織的なスパイに仕立て上げた。そして彼は非常な努力を払い、きわめて詳細な報告書を作り上げた。彼の透徹した眼力は何物をも逃さず、彼の冷酷さは限界を知らなかった。

 それら全てにつき、ドイツの陸軍将官達は彼をひどく嫌った。彼らは夕食の席で彼の隣席に坐らさせることを毛嫌いした。怒り狂ったビスマルクはこのスパイ頭を招待して彼と二人きりで食事した。そして、シュティーバーを州知事とした。

 オーストリアとの戦争が終結するやいなや、ビスマルクとシュティーバーは彼らの注意をナポレオン三世皇帝によって統治されていたフランスに向けた。しかし、1870年の厳しい普仏戦争が始まるよりもずっと前に、シュティーバーは彼のスパイ準備作業を行うためにフランスへ旅立った。

 彼の使命は広大なものであった。フランス軍の、すでに噂されてはいたのだが、かつてヨーロッパにおいて製作されたなかでもっとも素晴らしい小さな兵器だという、シャスポー銃(ライフル)とミトライユーズ(機関銃)の秘密はなにか? シュティーバーはすべての細部を調べ上げ、彼のボスに送りつけた。

 また、ほかにも沢山の情報を送り返した。18ヶ月の間フランスで彼の上官とともに働き、測定し、記録し、プロイセン軍隊が戦闘を行うかもしれない土地のすべての詳細を評価した。戦術的な重要性のあるものはすべて−橋梁、河川、軍隊の兵舎−もっとも細かい詳細にいたるまでが記録された。

 また、作物の収穫高と家畜であらわすすべての村落の価値が彼のノートブックに記録された。これらすべての事実の効用はプロイセン軍が侵略したときに証明された。プロイセン軍の将校達はシュティーバーのノートを調べるだけで簡単に彼らの兵士の何人がどの村落の生産物で養えるかを精確に知り、部落民のだれかが彼らにとって既知である事実を隠そうとしたときには脅しつけることができた。

 そしてこのようなすべての準備作業が整い、宣戦布告されたとき、シュティーバーはフランスには4万人のスパイがいると豪語した。この数字は明らかに誇張であったが、プロイセンが、他国が敵対国のなかに持っていたよりもはるかに多くのスパイをフランスに持っていたことは明らかである。シュティーバーのスパイの一人はフランス戦争大臣の馭者頭であった。彼は彼の「主人」にいたるところで同伴し、極秘の軍事施設にさえ入ることができた。

 これらのスパイ達の全てが報告したことは、フランス軍は、その将軍達が宣言するようには準備できておらず、軍装も充分ではないことだった。そして、彼らは正しかった。戦争は18707月に布告され、7ヶ月後の18712月に、戦争はフランスの恥さらしな降伏で終結した。

 シュティーバーの性格の最悪面のひとつは、残虐さであり、それは戦争の間連続して暴露された。彼が戦線の警備にあたり、フランスのスパイ捕虜に対処する任務を帯びているときだった。パリを包囲している間、一人の若いフランス人が、スパイの廉で、ヴェルサイユのシュティーバーの本部に連れてこられた。プロイセンの将校の一人が直ちに指摘したように彼は明らかに無実であった。それはシュティーバーにとってなんの問題にもならなかった。

 「彼は処刑されるべきだ」とプロイセンのスパイ頭は宣言した。

 「しかし、彼は無実であり、たった二日前に結婚したばかりですよ」とその将校が抗議した。

 「だから、私の仕事はさらに辛いものになるのだ」シュティーバーは答え、そして実際、そのフランス人はきちんと処刑された。

 他日パリ包囲の間、シュティーバーは幾つかの些細な犯罪で、ヴェルサイユの町議会のメンバー10人を首つりにするといって脅かした。そして、家にいる彼の妻に手紙を書き、彼が引き起こした恐怖を明らかな満足感で描写した。

 フランスが降伏条件を乞うたとき、フランス側の交渉人の一人はジュール・ファーブルという政治家だった。プロイセン人達は礼儀正しく、彼に一人の静かで有能なボーイを手配した。ファーブルはあまりにも感嘆したので、交渉後プロイセン側の外交的な感謝状を贈り、この気配りの行き届いたボーイに特に言及した。

 ファーブルは知らなかったことだが、このボーイはヴェイルヘルム・シュティーバー彼自身であり、シュティーバーは明らかにこの新手の秘密芝居を楽しんだ。というのも、この政治家の従者として卑しい雑事をしている間、シュティーバーはこの政治家の持っていたすべての秘密書類をコピーして、すべての情報をビスマルクに渡していたのである。後のことだが、フランスの降伏条件は、フランス代表団が交渉のテーブルに着く前にシュティーバーがファーブルから入手した秘密を完全に消化したものだった。

 講和条約が署名されたあとでさえ、シュティーバーは休むことがなかった。アルザスとロレーヌの紛争地域のなかで、彼は、プロイセン贔屓の労働者1,000人を募集して、彼らにフランスの鉄道の仕事を与えた。彼ら一人一人にたいし、彼らの賃金に25%を永続的なボーナスとして支払った。この目的は、彼らをシュティーバーの「サボタージュ軍団」に組入れ、次の戦争の際には、フランスの鉄道システムを破壊することにあった。

 実際には次の戦争は1914年までこなかった。これは33年後のことであり、シュティーバーが亡くなってから随分後のことである。しかし、彼がフランスにおいて19世紀の最後の時期に作り上げたスパイの基礎作業は、第一次世界大戦の間、ヨーロッパにおいてドイツが最良のスパイ・システムをもった原因であることは確かである。

画像:プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世とオットー・フォン・ビスマルク、
カール・ローリング画