ヴィルヘルム・シュティーバー(3)

 独裁政治の維持には軍隊が必須であるが、王家の支配と民主主義を防止することのためは効果的な秘密警察を必要とする。中流階級の憲法論者達の抑圧の次にきたのは,カール・ルードリッヒ・フリードリッヒ・フォン・ヒンケルデイの指揮するプロイセン政治警察の拡大であった。

 シュティーバーは合衆国のなかで一つのスパイネットワークを監督した。彼らは、欧州の過激派に入り込み、彼らについての情報を収集した。ポリス・ユニオンの諜報員は合衆国内でドイツ語の出版物を取り扱う本屋と出版社をスパイした。1850年台末、アメリカから流れ出したすべてのドイツ語の出版物にたいして秘密の禁止令が発せられた。これはベルリンの秘密警察によって「王国の基礎ならびにキリスト教と倫理を破壊すること」につながる可能性のある「民主主義的傾向」を広めるための水源だと判断された。このスパイ行為の主たる目標の一人はカール・シュルツであった。彼は、戦闘的な民主主義者であり、1852年に合衆国へ移民したのち、「リンカーン大統領の親友、在スペイン大使、南北戦争の間は北部諸州軍の将官となった」。15 内務省長官、世紀の変わり目の共和党ならびに合衆国のなかの反帝国主義運動のリーダーであった。

 ポリス・ユニオンは実際、現代主義、民族主義、中流階級の自治の侵入勢力を妨害する目的で、中欧の独裁君主達によって結集された国際警察運動のなかでたった一つの重要な構成要素だった。諜報を提供するドイツ、オーストリア、ロシアの帝国秘密機関とともに、1848年、ロシア軍は、現代における最初の連携した国際反乱防止キャンペーンを遂行した。ニコラス皇帝は最初は民主主義運動の抑制に成功したのだが、その後、クリミア戦争(1853-56)でロシアにとって惨憺たる軍事的な敗北を蒙った。トルコにたいして散々な敗北を蒙ったことは、ロシアの武器と組織の一般的な立ち後れ状態を明確化した。ニコラス一世皇帝は1855218日、毒殺された。

 クリミヤ戦争で亡父が敗北し、面目を失ったことによって刺激され、アレクサンドル二世(在位1855-1881)は一連の重要な改革を実施した。そのなかには、秘密警察をプロイセン流に現代化することも含まれていた。オクラーナの国際反革命プログラムの刷新は、事実、ヴィルヘルム・シュティーバーの業績であったように見える。

 犯罪警察を政治的に利用したこと、並びに彼のとくに野蛮な取調べ技術をふくむ権力の濫用の理由で、1858年にベルリン警察の役職を免ぜられたあと、シュタイバーはザンクト・ペテルスブルクでアレクサンドル二世に雇われ、オクラーナの徹底的な見直し作業に取りかかった。こうして彼はポリス・ユニオンの多くの機能をコピーし、急成長しつつあったロシア人革命グループの種々の階級に浸透する目的で、オクラーナの情報提供者と不法行為エージェントの利用を拡大した。

 シュティーバーは1870年台半ばに病気で引退を余儀なくさせられるまで、16 反革命警察グループの世界的集合体の中心にいた。デフレムが報告するところによれば、「1860-66年の間、彼は印刷物中央管理局長(国際的なアナーキストと共産主義者にかんする情報を収集するプロイセンの団体)の仕事とロシアの秘密警察のためのスパイ活動を結び付けていた。17

 1863年、シュティーバーはドイツに帰り、新しく就任したオットー・フォン・ビスマルクによって、中央情報局(CIB)長並びに軍事防諜局長に任命された。1870年の普仏戦争のときまでに、シュティーバーはドイツ側の約2万人のスパイ軍団長となった。戦後は、シュティーバーのプロイセン秘密警察ネットワーク、別名「安全防諜団」(「安全保障・防諜サービス」)として知られる組織、はビスマルク宰相と皇帝の私的部門としてドイツ社会をしっかりと監視し、操縦した。この過程で、CIBはしばしば他の強力な政権党派と衝突した。たとえば、1867年にライバルのスパイ機関として設立された統合参謀本部、アプヴェー(Abwehr、「遠距離スパイ団」)、あるいはもっと一般的に、外国情報・防諜局との間である。

 シュティーバーの組織は、その検閲活動によってドイツ人の道徳とキリスト教的信仰を保護したと推定されるのだが、実際は売春宿を経営し、新聞を思想的に統制した。彼は国内外の人物に関する彼の広範囲な調査資料を使用して、多くの指導的な立場にある官僚、新聞社主、大実業家や貴族たちを脅迫し、ビスマルクの統治領土にたいしての挑戦を押さえ込んだ。1870年半ばにシュティーバーが引退したのちは、彼のネットワークはアプヴェー(Abwehr、防衛諜報機関)に折り込まれ、参謀部の指揮下にあってより法律尊重主義的に運営された。

 シュティーバーはかくして、ドイツのアプヴェー(防衛諜報機関)やロシアのオクラーナの父と見なされうる。というのも、彼がこの両機関を再編成して、潜入捜査員やスパイ扇動者の国際的な組織を統制する現代的な情報サービスに変質させたからである。彼の汚らわしい卑劣な作戦に感化されて、20世紀の国内安全保障のトップの何人かは、彼ら自身や彼らの秘密警察機関をして、脅迫、威嚇や上からの破壊活動によって権力を維持させるようになった。情報関係の文筆家であるジェイ・ロバート・ナッシュの意見によれば、シュティーバーは「心理戦争、思想統制や餌としての女性を使うことにより情報活動を行うことを考案し、スパイゲームを不公正なやり方で行うことをすべての人に教え込んだ」。18

 シュティーバーはロシアでの時代に、彼らが彼から学んだと同じ程度に、オクラーナから汚いトリックを学んだのかもしれない。秘密エージェントの国際的な交換や過激派にかんする情報収集は次の世紀へと続いた。オクラーナのスパイ・マスターであるアルカディ・ハーティング(別名;アブラハム・ゲレルマン、ハッケルマン、ハートマン、ランドセン、あるいはランデッエン)は変装、政治的挑発ならびに不安定化の技術の大家であった。

翻訳3  Mark Levey: The History of Political Dirty-Tricks

プロイセン警官の復帰

出典

画像:ベルリンの「リトファス円柱」第1号、1854

画像ロシアのオラーナ・オクラーナ、ソヴィエト秘密警察第19局の金属バッジ。8.5 x 7cm

リトファス円柱が受け継がれた例:

 これに似た策略が後に中国人民共和国によって採用された。1980年台半ば、共産主義者当局は、初めはいわゆる「民主主義の壁」の使用を大目に見ていたので、北京の反体制者達は当初は政治的な文書を、拘束されることなく、掲示することができた。似たような壁が他の中国の都市の当局の目と鼻の先で広がり生じた。この明らかな民主主義の開花に対してケ(小平)政権は拍手喝采を受けた。とくにレーガン・ブッシュ政権はこの政権と、増加しつつあった合衆国の会社との商業的結束を合法化したいと願っていたので、歓迎した。結局は、政治的メッセージをこの壁に掲示させた人達の多くは、勿論、何十万人もの民主主義の支持者たちの一斉検挙により拘束された。これが、天安門広場の大虐殺に繋がった。インターネットによって伝えられる匿名と「自由」なる印象は、勿論、警察に同様の機会を与え、権力政権に媚びないあるいは将来も媚びることのなさそうな人達や組織を特定するための広範囲な捕縛網を提供している。

 ヒンケルデイはまた、警察連合(ポリス・ユニオン)を結成した。これは現代における反革命の国際警察スパイ網の端緒となった。初めは、プロイセンとドイツ諸国の警察官から構成されていたのだが、このユニオンは欧州、英国、合衆国にわたって運用されるようになった。このユニオンは彼の副官であり、悪名高い警察の不法秘密エージェントであったヴィルヘルム・シュタイバーによって運営された。彼は後に同じ趣旨で、オクラーナ(ロシア帝国の政治秘密警察)を再編成した。Mathieu Deflemに依れば、この1851-1866年に国際的に活動していたポリス・ユニオンは、「産業社会において国境を越えた組織された警察システムを構築するための最初の公式な手始めの一つ」だった。13

 1850年、ベルリンの犯罪警察長官として、シュティーバーは私的にロンドンに旅行し、そこで、カール・マルクスと他のドイツ人の過激派をスパイした。シュミットという匿名を使い、シュティーバーは共産主義出版物の編集者のふりをして、過激派サークルにつき情報を収集した。これが1852年ケルンでの第一回共産主義者国際起訴の際に証拠として使われた。

 1848年末にベルリンの警視総監に任命されたヒンケルデイは、現代の組織的警察治安維持を革新して、多くの特徴を作った。彼がベルリンで新しい警察組織とともに導入した戦略のなかには、「リトファス円柱」があった。フリードリヒ・ヴィルヘルム国王宮廷印刷職工であったエルンスト・リトファスにちなんで命名されたものだが、彼はベルリンの周囲の戦術的な場所に何ダースもの大きな柱を立てた。その当時、政治的な意図のある公告は禁じられていたが、役所に除外申請をすれば、これらの円柱を伝言展覧目的に使用することができた。警察は申請を行ったすべての人達の名前を責任をもって記録した。A. Richie, Faust's Metropolis: A History of Berlin, New York: Carroll & Graf Publishers, 1998 at p.134.