デンビー号の破壊、ならびに、封鎖ランナーラーク号による乗組員の救助の二つによって、文字通り、形象的にも、南北戦争の間の封鎖突破物語の最終章は閉じられた。デンビー号に捧げられるべき墓銘としては、有名な封鎖ランナーの船長ウイリアム・ワトソンの次の記述を引用するのが最上であろう。:

 こう言ってもいいだろう。ハバナ港から連合国へと出港した蒸気船のうちで、もっとも成功した、そしてもっとも儲けた船の一つは、幾分老いて、そして決して速くはなかったが、デンビー号という名の蒸気船であろう。この船はハバナ港とモービル港の間をかなりの間航海した。しかし、モービル港が合衆国によって奪取されたとき、彼女はガルベストンへと移り、この港の往還航行を規則的に行ったので、彼女は定期船と呼ばれるにいたった。デンビー号は、サイズは小さく、船高も高くなく、遠方から容易に識別できないように彩色されていた。彼女は石炭を焚いていたがほとんど煙を出さず、速度で勝負するよりはむしろ戦略に依存していた。彼女は大量の棉花を運んだ。この小さなデンビー号は、もっとサイズが大きくそしてもっと船足の速い船のどれよりも越える利益を稼いだ。

 デンビー号はハバナとガルベストンの間を成功裡に合計6往復した。モービルの時と同じように、デンビー号はガルベストンでも時間を見計らい、再度合衆国の封鎖艦隊をすり抜けた。合衆国艦隊は時として、10隻、12隻、あるいはもっと数が多くなることもあった。そしてモービルのときと同じように、最後の結末の時がきた。1865419日の夕方、リー南部陸軍総司令官がアポマトックスで降伏してから10日後、エイブラハム・リンカーンが暗殺されてから五日後、デンビー号は浅瀬に乗り上げた。それは、ハバナに向かって木綿を積み、封鎖している小艦隊をすり抜けようとしていたときであった。乗組員は舷側越しに200ベール(500lbs/bale)の木綿を投げだして砂洲から離れようとしていた。投げ出された木綿梱包の大部分は封鎖艦隊からきた小船が拾い上げた。デンビー号はガルベストン港の保護された海域へと戻り、九日後にうまく封鎖を突破してハバナへと向かった。

図 太 い 悪 漢

翻訳者による余談 画像186311日、綿船によるガルベストン港の奪還

余談だが、連合軍海軍マグルーダー少将は戦いを18丁目のクーン埠頭で始めたが、合衆国軍も応戦して決着がつかない。そこへ遅れてやってきた連合国蒸気船、ネプチューン号とバイユー・シティー号(棉花梱包で大砲をくるんでいたから「綿着の船」(cotton-clads)と称する)がガルベストン港を守っていた合衆国船ハリエット・レーン号を攻撃した。ネプチューン号は沈没させられたが、バイユー・シティー号はハリエット・レーン号の回転輪をこわして走行不能にした。こうしてガルベストンは連合国の手で奪回された。

 デンビー号がバード・キーで座礁したまさにその朝、レアード造船所で建造された封鎖ランナー「ラーク号」が合衆国艦隊をすり抜けてガルベストン港に入港した。埠頭では市民達も兵隊達もこの船に群がり、全員がなにか価値のあるものを奪おうと必死だった。ラーク号の船長がこの船を埠頭から投錨地へと移動させたあとも、人々は小船から舷側をよじ登って乗船し、船を劫掠した。取り外しできるものがすべて奪われたとき、ラーク号の船長は別の埠頭へ短時間移動し、ボリヴァー半島から到着したばかりのデンビー号の乗組員を上船させ、そして海上へと逃げ出した。これが連合国の港を出港した最後の封鎖ランナーとなった。

夜明けに、合衆国旗艦フォート・ジャクソン(上図)上の見張りが座礁した封鎖ランナーを見つけた。艦長ベンジャミン・F・サンズは警備艇コルヌビアとプリンセス・ロイヤルに命じて砲撃するように命令した。サンズは同時に、封鎖船セミノール号とケネベック号からボートを出してデンビー号に乗船し、破壊するように命令した。デンビー号の乗組員達は彼らが見つかってしまったことを悟り、自船のボートに乗りボリヴァー半島の海岸に到達した。封鎖艦隊の二隻の砲撃用ガン・ボートがデンビー号に40発の弾丸を浴びせた。だが、そのうち何発がこの座礁した船に着弾したかは記録されていない。セミノール号の乗組員はこの封鎖ランナーに乗込み、船の書類を差し押さえてから火をつけた。この作戦でただ一人の死者はセミノール号の水夫だった。彼は船の残骸から引揚げようとしていたとき、彼のもっていた火器が偶発し、即死した。午前7時前にすべての物語が完了した。

画像
  1864年のガルベストン港の地図にしめされているバード・キー(上方右の白い矢の砂洲)。ここでデンビー号は1865523-24の夜、座礁した。デンビー号プロジェクト・チームが信じるところによれば、この封鎖ランナーは、封鎖艦隊を逃れるためにバード・キーの背後の浅い水路(青矢印)を通り抜けようとしていた。これはデンビー号がモービルで屡々使った策略だった。図は国立公文書館の画像から借用。

翻訳:

図太い悪漢

デンビー号のオーナーは今度はガルベストン港に注目した。戦争が開始されたときには、ガルベストンは小さいが発展しつつあるガルフ・ポートの一つにすぎず、年々増加する大量の棉花を扱っていた。しかし、合衆国によるガルベストン港の封鎖が186172日、USSサウス・カロライナ号の到着とともに始まり、急速にガルベストン港の見通しが変化した。通常の商取引を開始する望みは消え、合衆国がいつでも侵入することを懸念して、人口の大部分はこの島を去って、内陸地に移動した。合衆国軍は1862年秋、この都市を占領することに成功したが、1863年正月に再び追い出された。しかし、この連合軍(南軍)の勝利は全体の戦略的な状況を変化させることにはつながらなかった。封鎖は継続され、ガルベストンは主たる戦闘の中心からはるかに隔たっていたが、封鎖突破港として役立っているにすぎなかった。

原典:The "Bold Rascal"

1865523-24夜、ガルベストン港に入ろうとして、デンビー号はバード・キーではげしく座礁した。バード・キーとは、ガルベストンの北東に位置するボリヴァー半島の海岸沖にある砂の浅瀬である。バード・キーはこの地区の航海上の障碍であった。だが、こことボリヴァー海岸の間には、狭いけれども比較的深い水路があって、これが封鎖ランナーの目的にうまく適っていたのである。

画像合衆国海軍旗艦フォート・ジャクソン

18648月のモービル湾の戦闘がこういう状況をほとんど一夜にして変化させた。モービル港がもはや使えなくなったので、ガルベストンがメキシコ湾で連合国にただひとつ残った重要な港となった。戦争の最初の三年間には、十数隻の蒸気船封鎖ランナーがガルベストンに入港したに過ぎなかったが、18648月以降、殆ど毎週一隻のランナーがこの港に入港した。

翻訳者による画像
  
1859年に建築されたガルベストンのAshton Villa。テキサスで最初の煉瓦建ての建物。金物商ならびに銀行を経営していたジェイムズ・ブラウン大佐が建てた。1861に完成したが、完成と同時にアメリカ連合軍本部となった。1862年秋に一時的に合衆国軍に占領されたが、翌年初め連合軍が取り返した。南北戦争終結後、1865619日、合衆国大将ゴードン・グレンジャーがガルベストンに来て、この建物のバルコニーで奴隷解放宣言を行った。これを記念するテキサス州の祭りが、619日を略して「ジュンティーンス(Juneteenth)」。