事実は次である。


1. ライ王というのは、かつてアンコール・トムの王様広場にある「ライ王のテラス」の上に安置されていた像のことを指す。この像が変色し、かつ苔が生えて、まるでライ病にかかったかのような有様になった。そこでカンボジアの人達はこの像を「ライ王」と呼ぶようになった。

2. この「ライ王のテラス」は誰が作ったのかははっきりしないのだが、一応1220年頃のジャヤヴァルマン七世ならびにジャヤヴァルマン八世(1243-1295年頃)だとされている。だから、1.の像はジャヤヴァルマン七世時代につくられたものではなく、後世になって追加されたものだ。

ライ王のテラス

画像:ジャヤヴァルマン七世、ギメ美術館、パリ
アンコール時代、バイヨン様式12世紀末-13世紀初頭
砂岩、42 x 25 x 31 cm

3. アンコールに最初に都市を建設した王様、ヤソヴァルマン一世(899–910)は、レプラにかかり、レプラで死んだ、と伝承されていることもあり、したがって、1.の像がヤソヴァルマン一世像だと語る人もいる。

4. ところがそもそもこの像をよく観察すると、これは王様ではなく、ヒンズー教のヤマ神、すなわち、冥界の神、閻魔様であることがわかる。ヤマは常に右膝を立て、棍棒を右肩にあてているのだ。

 だから結論的に、三島由紀夫の「癩王のテラス」はフィクションにすぎない。

  三島はジャヤヴァルマン七世が、「戦いには勝ったが、ライ病で倒れた」と筋立てした。これは史実に悖る。

画像2:昔撮られた写真。たしかにライ病患者に見える。(『真臘風土記』周達観、和田久徳訳注、東洋文庫507P50 (16)病癩 から)

画像1:「ライ王」の名前の元となった像。15世紀に作られたオリジナルは、現在はプノンペンの国立博物館にある。現在「ライ王のテラス」の上にあるのは、セメントで作られたコピー。

画像3:国立博物館に移されたオリジナル

 象のテラスの北側にあるテラスをライ王のテラスと呼ぶ。「ライ王」というのは、「ライ病にかかった王様」なのでしょうから、聞くだにおぞましい感じがするのですが、インターネット上の諸説を読むかぎり、ドイツ語版WikipediaTerrasse des Lepra-Königs」が真実を伝えているような気がする。

写真:左右三頭づつの象の顔を彫刻する素晴らしいパネル。あとで述べるように、天界に棲む頭が三つある象のことをアイラヴァータ(エラワン)というのですから、アイラヴァータ二頭に挟まれたアスパラ(天女)を描く天界風景がこのパネルのテーマということになるのでしょう。象が鼻で掴んでいるのは蓮の花束です。

象のテラス

写真:バプーオンの池。

前述の周達観「真臘風土記」によれば、

〔その土〕地は炎熱に苦しむ。毎日、数回水浴しなければ、〔一日も〕過ごすことができない。夜に入ってもまた一、二回〔水浴〕しないわけにはいかない。

以前は、浴室や孟(う)(はち)・桶(おけ)の類がなかった。しかし家ごとに〔水浴のために〕一つの池があることが必要で、そうでなければすなわちまた二、三軒で一つの池を合わせもつ。

『真臘風土記』周達観、和田久徳訳注、東洋文庫507P77(38)澡浴)

と書かれている。この池も王族によって沐浴用に使われていたのかもしれない。

バプーオン

 バイヨンのフェース・タワーの巨大な顔ですが、調べて見ると、パリのギメ美術館に収蔵されているジャヤヴァルマン七世の顔にそっくりです。

 短く刈り上げた髪、小さな後頭部の髷、長い耳朶、厚ぼったい唇などは、バイヨン・レリーフに描かれるクメール人の特徴にもそっくりあてはまります。バイヨン美術様式の根本は、ジャヤヴァルマン七世の個人的容貌に依存すると言い切ってもおかしくありません。王様の権勢が美術様式にまで影響を及ぼしているのです。

 クメール人というのは皆こういういかつい顔なのでしょうか?

 横から見ると、そうでもありませんが。

 バイヨンのレリーフ見物ですっかり時間をとられましたが、私達はまだバイヨンの中にいるのです。右の写真は中央祠堂の一部ですが、アプサラを精緻に彫り込んで見事な芸術品に仕上がっています。

では皆様、ご機嫌よう。

追記:

画像:冥界の王、ヤマ神。この「ライ王のテラス」にもいくつか彫像が見られる。

周囲はフェース・タワーに囲まれています。

アンコール・トム(2

                         2013/01/31

多羅菩薩(たらぼさつ、梵名:Tārā [ターラー])は、観音菩薩の目から発せられる聖なる光から生まれた16歳の少女の姿の菩薩。

日本人にはあまりお馴染みではない菩薩ですが、素晴らしい彫刻ですね。ギメ美術館に収蔵されていますから、見落とさないようにしましょう。

画像:「ひざまづく多羅菩薩」ギメ美術館、パリ
シェムリアップ州プレア・カーン(アンコール)出土
アンコール期、バイヨン様式
12世紀末-13世紀初頭
砂岩
高さ130cm
フランス校極東派遣団1931
MG 18043

写真:これはどの建物でしょうか。見当が付きません。バイヨンの隣にあったのですから大仏殿かも知れません。このあたりまでくると、あまりの暑さにへたってきて、見物はもうどうでもよくなってきます。この建物の階段を登るなんて気にはなりません。カンボジアでもっとも涼しい時期なのですが、私はこの暑さでもうへたってしまう「意気地なし」です。

この象のテラスの上に観客席が作られ、チャンパ王国に勝利した軍隊の祝賀行進の入城を眺めたのです。軍隊は正面の道の約1km先(東方)にある勝利の門を通って、首都に入り、王宮に向って行進しました。アンコール・トムのなかでもっとも輝かしく祝福されるべき場所です。

 添乗員のお嬢さんが心得ていて、特定の場所でひとりひとりの記念写真を撮ってくれました。できあがったのが右。

 なお、1296年、元朝の使節に随行し、同年7月から翌年6月まで約1年間アンコール・トムに滞在した中国人周達観が著わした見聞記『真臘風土記』によれば

「国の中央に当たって、金塔1座があり、かたわらに石塔20余座、石の部屋が100余室ある。東側に金橋1所があり、金獅子2体が橋の左右にならび、金仏8体が石の部屋にならんでいる。」(『真臘風土記』周達観、和田久徳訳注、東洋文庫507P15 (二)城郭)

と記載してありますが、ここで金塔1座と言われているのは首都バイヨンの中心をなす中央祠堂のようで、当時はこれらの中央祠堂の彫刻も金色に輝いていたのに違いありません。