画像:”Ancient Angkor”Michael Freeman, Claude Jacques, River Books 1999、一部改変
写真:この画はすべて森の中のようです。下段には猿が木登りをして遊び、孔雀が羽を休めています。中段は民衆が昼食を食べている様子。上段は宗教行事のようです。高僧から説教を聞いている場面のようです。
では、皆様、ご機嫌よう。
写真:”Ancient Angkor”Michael Freeman, Claude Jacques, River Books 1999, P94
写真:左に写っているのは日本語がきわめて上手なカンボジャ人のガイド嬢。年齢22歳。クメール人兵士に似た凛々しさがありますね。
クメール軍の後陣です。槍をもたずに大きな鋸のように見える軍旗を三本立てて行進しています。手前に二人の少年が銅鑼を担ぎ打ち鳴らしています。その後ろに笛を吹く少年も見えます。さだめし軍楽隊というのでしょうか。
レリーフは三層の高さに重なっている。下から見上げると、最上段にはなにが描かれているのか確認が難しい。もともとはこれらのレリーフの上に屋根がついていたのだという。
アンコール・トム(1)
2013/01/31
写真:中央祠堂でフェース・タワーを眺める女性。原色の色彩が似合っていますね。
私自身は見落としてしまったのですが、東面北寄りにクメール兵士がチャンプ軍と戦う場面があるとのことです。次回訪ねるときは見落とさないように注意しましょう。
上図の部分拡大をすると、
部分拡大をすると、目鼻立ちまでくっきりと彫り込まれていることが分かります。よくこんなに精密に彫刻したものです。
写真:トンレサップ湖を渡ってきたチャンパ軍の船です。船首に巨大な鳥の造形。下層に陣取った髷を結った漕ぎ手が沢山のオールで漕いでいます。甲板にいる戦士達はすべてシニョン帽の付いたヘルメットを被り、楯を持ち、槍を振りかざしています。右下に褌姿の男が三人水中游泳をしています。右側の船の船首で船長らしき人物が方向を指示しています。じっと見つめていると、あたかも動画をながめているような雰囲気が立ちのぼってきます。傑作です。
耳は短く、あごひげを備え、髻を結い、簪をつけています。着衣は腰位置までしかありません。地理地政学から考えると中国人傭兵なのでしょう。
最上段に描かれているのは、軍隊行進の最後尾なのでしょうか。荷物を担いでいます。ここにも少年が数名描かれています(中央右下)。
中段を拡大して見ましょう。
画像:チャンパ軍との戦いにおけるクメール軍の行進。クメール人は短髪で耳朶が長く垂れ下がっている。指揮官は象に乗っている。
これはバイヨンの東回廊、東門のすぐ左側にあるレリーフの最下段です。
近づくとこんな感じ。人間の顔を彫刻したフェース・タワーというのが林立しており、それらを囲む高い壁にレリーフがほどこされているのです。私達は画面左下に見える壁の鑑賞からはじめました。
南大門から小型のバスに乗って1.3kmでバイヨンに到着します。象の乗り場があって、バイヨンを一周してくれるサービスがあるのですが、今回はパス。
画像:『地球の歩き方 アンコール・ワットとカンボジア2011』ダイヤモンド社 P45
お濠の規模も雄大です。左の像は阿修羅です。
実際の綱引き作業が彫刻されています。
写真:南大門。門の前に並ぶのは「乳海攪拌」の神々(左側)と阿修羅達(右側)。彼らの綱引きによる撹拌作業が具象化されています。このような巨人達が渾身の力を込めて引っ張るのですから、曼荼羅山は万力で締められあげ、あたかも原子爆弾のプルトニュームが圧力に耐えきれず爆発するように、天地は爆発するのです。これがクメール人の考えた「天地創造」なのです。
さきにも述べましたが、スーリヤヴァルマン二世(在位1113 AD から 1145-1150 AD)がクメール王国を統一して最大版図を獲得しアンコール・ワットを創成したのですが、彼の死後、クメール王国の統一状態は崩れて、クメール他派と東方チャンパ王国が組んでクメール王国を攻撃した。西暦1177年、彼らは海軍を組みトンレサップ湖を渡り、アンコール・ワットを攻撃して占拠した。
ここに反撃のために現われたのがジャヤヴァルマン七世で、四年間の戦闘を経て、チャンプ軍を追い払い、1181年アンコール王朝の最後になる大帝王になったのです。そして仏教に改宗したジャヤヴァルマン七世は首都としてのアンコール・トムを建設したのです。一辺が3kmもある巨大な首都で周囲には高さ8mの城壁と濠が繞らせてあります。
アンコール・トムとは「偉大な都市」を意味します。
更に拡大すると、
写真:バイヨン。こんもりとして高い塔が中央祠堂。中央祠堂を取り巻く回廊にジャヤヴァルマン七世の戦闘と宮廷生活を描いた素晴らしいレリーフがあるのです。世界でもっとも優れた芸術作品ではないでしょうか。中央祠堂はもともとは金色だったようです。