「……最低だよ!!」
しかし、前を行く青年は振り向くでもなく、その歩幅も相変わらず怒ったように緩めない。
小帆の声が聞こえてないわけではないだろうに、翼宿は黙々と大極山を目差して足を進めていた。
「ひどいよ……。仲間じゃかったの!?ねぇ!」
返事は返ってこない。
止まってしまうとたちまち置いてかれてしまうので、しかたなくその後ろから小走りでついていく。
しかし、やはり口をついて出てくるのはこの言葉ばかり。
それは仕方のないことだろう。
だが、小帆が腹を立てていたのは翼宿がずっと黙っているということにあった。
あれ以来、翼宿はまだ一言も言葉を口にしていないのである。
「井宿を置いてくるなんて。心配じゃないの!?」
「じゃかわし!!さっきから後ろでごちゃごちゃと!そんなん文句言っとる暇あったらさっさと歩け!」
強い口調だった。
男の人の怒った声というのは、彼女の中では半ばトラウマのようになっており、しかし、それだけでもないのだろう。
自然と、涙が零れ落ちる。
翼宿も少なからず言いすぎたとは思っていた。だが、今更それを訂正する気にもなれない。
自分でもどうしようもない憤りを感じていたのである。
あの時は井宿のためにもああするしかなかった。それは、確かなことだ。
あのままあそこにいたら、自分はもっと後悔してるだろうし、井宿の苦労も水の泡だったろう。
ただ、それを果たしてこの小さな小帆にどう説明したらいいものか。
そんな中、助け舟を出したのは予期せぬ人物だった。
「翼宿の言う通りじゃ。小帆よ、過ぎたことより今は前を見なければならぬ。それが井宿の願いでもあるはずじゃろ」
「どわあああぁぁぁ!!?」
「きゃあっ!!?」
「……そんなに驚くことないじゃろが。全く、失礼な奴らじゃ。それにしても、翼宿も今のはちと言い過ぎじゃぞ。
もう少し言い方を考えられんのか、お主は」
「余計なお世話じゃ」
「も、もしかして、砂かけババ……さん?」
この瞬間、翼宿に太一君の怒りの鉄槌が下った。
「全くこの小僧はヘンなことを吹き込みおって。小帆よ、わしがこの大極山の主、太一君じゃ」
「太一君……」
しかし、翼宿は頭をさすりながらその太一君に怒鳴った。
「ここのどこが大極山やねん!!いきなし何もないとこに出てきて何抜かしとんじゃ!このババ 」
太一君はまた翼宿に一打。
「ったぁ……!!無言で殴んなや!無言で!」
「なに、お主があまりに頭に血を昇らせているようなのでな。少し冷ましてやったんじゃよ」
「なんやとぉ!?」
「頭を冷やせ翼宿!!ここは大極山じゃ」
翼宿は太一君に一括され、一瞬放心状態となった。
「なん……やて?」
こんな岩の転がった山が……?
そう思ったのは翼宿だけではない。小帆もまた、ここを荒れた山地としか見ることは叶わなかった。
太一君はそんな二人を見て、大きく息を吐いた。
「やれやれ。功翔との戦いで、主ら二人とも相当心をかき乱されたと見えるな。ここは、邪心の者には岩の転がった山にしか見えんのじゃよ」
そういえば、昔、井宿がそのようなことを言っていた。翼宿はそんなことを思い出した途端、たまらなくなり太一君に詰め寄った。
「そうや!太一君やったらわかるんやろ!?井宿の奴、どうなってん!!?まさか、やられたりしてへんよな」
「安心せい。死んではおらん。じゃが……」
「どうしたんですか」
小帆がいても立ってもいられなくなり、その会話に割ってはいる。
だが、太一君がその先を続けることはなかった。
「そんなことより、翼宿。今はお主の怪我の治療のほうが先じゃ。娘娘!!」
「はいね!!」
「俺の傷なんてどうでもええねん!!それよか……」
「翼宿!!落ち着けと言うたじゃろ。今はその身体を治して、体力を回復させることのほうが大事じゃ。
小帆も口にはしとらんが、相当疲れているはずじゃよ。まずは、心を落ち着けてここがちゃんと大極山に見えるようにすること。
話はそれからじゃ」
「そうね。強がってるけど翼宿、凄い怪我ね」
「治すね!治すね!」
「小帆は女の子だからこっちね」
そういって娘娘たちは、あれよあれよという間に翼宿の周りに群がり、残りは小帆を小高いところにあった古い社に連れて行った。
きっとあれが、太一君の例の社に違いない。だが、翼宿にはやはり古いボロ社にしか見えない。
「情けないで……ほんま」
娘娘に治療してもらいながら、翼宿は自嘲的な笑いを浮かべた。
「翼宿、自分を責めてはいけないね」
「せやけど、やっぱ俺のせいやろ。俺が功翔と鍔迫り合いになったとき、あのチャンスに少しでも傷付けとったら……。
金縛り受けた時やってそうや。油断しとって」
「翼宿」
「わかっとる。いつまでもイジイジしとったら、前に進めんことくらいよくわかっとるんや。でも、今は愚痴らせてくれ。
嫌やったら無理して聞いておらんでもええよ」
「ううん。ちゃんと聞いててあげるね。……翼宿、ちょっと大人になったね?」
「あほ。余計なお世話じゃ」
翼宿の治療もそこそこに、社のほうでも小帆に対して体力回復の術をかけてやっていた娘娘が、その表情を心配そうに見つめていた。
「小帆、井宿なら大丈夫ね」
「そうね。だから元気出すね」
「……あなたたち、娘娘っていうの?」
「そうね。娘娘ね」
小帆はこの時初めて、えらく落ち着いて相手と話している自分に気付いた。
何故だろう。この子達と話してると心が穏やかになってく……。
それは、娘娘たちが小帆と近い年恰好をしているお陰かもしれなかった。
よく考えてみれば、向こうの世界でも同い年の子とはあまり話してなかったし、いつも話す相手は大人だった。
けど、大人はまともに相手にしてくれない。お母さんだって、いつも忙しいって言って家を空けて、たまに帰ってきて会えたと思ったら、
すぐ寝てしまうし、私がなにを言ってもうるさいの一点張りで聞き入れてくれたためしがない。
「どうしたね?」
「え?あぁ、何でもない……よ」
「そうね……?」
娘娘はその可愛げのある表情で、小さな首をかしげた。
だが、小帆の思考は止まらない。
お父さんのお世話だってしてあげたことないじゃない。
日に日に痩せて、衰弱していく父を見て見ぬふりする。そういう人……。
お父さんはなんで、お母さんを責めないの?
私がいくら言っても、怒らないでやってくれ……だなんて。
そんなことしてて、お父さん死んじゃったらどうするのよ。
「……いやっ!」
「小帆?」
「いや……だよ。もう……あんなところいたくない。もう見たくない」
「小帆!そっちはダメね!!」
小帆は自分の思想に追い詰められるあまり、娘娘の腕を振り切り、よろよろと歩みを進めていた。
だが、その先がまずいことに小高い丘の削がれた崖になっていたのだ。
数歩も行かず、小帆は自分の身体が意識に反して傾くのを感じた。
「小帆!!」
娘娘が悲鳴のような声を上げる。
小帆自身その瞬間が妙にスロウな世界であったことを感じていた。
娘娘に限らず、見えるもの全てが白黒で……。なるほど人の死の瞬間なんてこんなものかと、思った。
だが、空中に残した涙は確かに落下していったにも関わらず、その本体は奇跡的にも崖の上に留まった。
「小帆、大丈夫ね!?」
小帆の身体は絶壁に生えていた乾いた木の根に拾われ、不安定ではあるがなんとかその上で止まっていた。
だが、その根というのが細く、今にも折れてしまいそうなほどに朽ち果てていた。
「……!!?」
小帆はこの時になってようやく恐怖を感じるまでに、思考能力が回復していた。
しかし、かえって恐ろしく思うあまり動いてしまっては、ますます自分を危うくするばかりである。
「小帆!!なにしとんじゃ!?おのれは!」
「翼宿!怪我は治ったね」
「あぁ。ええからそこどけ!お前がいくら飛べるいうたかて、これは流石に重いやろ」
こんな時までギャグ根性を失わない彼の性格は賞賛に値する。
「私そんなに重くないもん!」
「そら、どうやろな。暴れんでくれよ。俺かて、せっかく若返ったこの身体でぎっくり腰やなんて嫌やからな」
「失礼ね!後で覚えてなさいよ!」
「はいはい。そういうんは助かってから言うんやな。ほれ」
翼宿は崖を身体ごと覗き込み、小帆のほうへ手を差し伸べた。
「あ……」
「あ、やない!とっとと掴まらんかい!早うせんと、その根っこが折れてまう」
これは冗談抜きに正答だ。事実、根は絶壁の際から今にも折れてしまいそうなほどに軋んでいる。
亀裂が入り、あっさり折れてしまうのも時間の問題だろう。
「早うせい!!思いっきり伸ばしたら届くやろが!何躊躇しとんねん!」
「……だって、こ、怖い……!!」
「はぁ!?」
小帆は涙声で必死に、翼宿の手ではなく朽ちた木の根にしがみ付いていた。
「これや……。あのなぁ!!」
翼宿が文句を言おうとした次の瞬間、ギシッと嫌な音がした。
「きゃっ!?」
こうなると早いもので、根に入った亀裂は瞬く間に広がり、乾いた根はそれに抵抗する力もなく乱雑な輪切りで以って、
見事切断されてしまったのである。
「ちっ……!!」
亀裂が入り根が傾いていた時点で、既に手の届かないところまで落ち込んでしまっていた小帆の身体を追って、
翼宿の手がそのまま崖下にダイヴした。
「小帆!!翼宿!!」
娘娘がその浮力でとっさに後を追うが、当然その落下速度に追いつけるわけもない。
翼宿は宙で小帆の腕を掴むと、そのまま引き寄せ自分の身体のほうが下になるように抱え込んだ。
その間もものすごい速度で地面は迫ってくる。
小帆はもちろん、翼宿もギュッときつく目を閉じたその時、さぞかし強い衝撃が襲ってくるだろうという彼らの妙な期待感は裏切られた。
地面に衝突する寸前、ぶわっという風の音が聞こえたかと思うと、それと同時に二人の身体は持ち上がり、その地面すれすれに浮かんでいたのである。
もっとも、先にそれに気がついたのは小帆のほうだったが。
「……え?」
一段と覚悟もあったのだろう。翼宿のほうがそれに一瞬遅れる形で目を開け、小帆と同じ反応を示した。
しかし、彼女と違って早合点した彼は、どこともなく叫んだ。
「ババァ!おるんやろ!?見とったなら、もっと早く助けんかい!」
と、言い終わるや否や、小帆を宙に残して翼宿の身体だけがドシンッと落っこちた。
尻をしたたか打ったのだろう。涙目になってさすりながら、また怒鳴った。
「っのぉ!!助けんやったら、もっと優しくしたらどうや!」
「全く文句しか言えんのかお主の口は!」
間の前に現われたのは太一君。なるほどこれで小帆にも納得がいった。
今二人を地面にぶつかる寸前に術で助けてくれたのが、太一君だったのだ。
しかし、小帆にはもうひとつ、わからないことがあった。
「ここ……どこ?」
「はぁ?どこってお前、ここは大極山……。って、もとの大極山やんけ。いつの間に」
いつの間にか目の前の荒れた山地が消え、二人の視界にはかつての姿のままの美しい大極山が開けていた。
太一君と娘娘はそんな二人を見て、笑んだ。
「やれやれ、ようやく落ち着いて物を見れるようになったようじゃな。……小帆よ」
翼宿の時とは違い、優しく小帆を淡い色の地面に降ろすと、太一君は言った。
「小帆よ、良く来たな。ここが大極山じゃ」
「これが大極山……。綺麗なとこ」
「あぁ。この世でいっちゃん綺麗な場所やで、きっと。そこにいてるババァはおいといてな」
「翼宿!何か言うたか!?」
「いえ、別に」
ここでクスリと小帆が笑った。
「なんや、何がおもろいんじゃ」
「ううん。違うの……なんか、今こんなことあって、本当に死ぬかと思った……から」
バカみたいだ。
自分がバカみたい……。
お母さんのことは好きになれない。でも、それでもこんなふうに死にそうになって、
なんだか自分がとんでもなくちっぽけだったことに、今更ながら気がついた。
苦悩そのものが解決されたわけでもないのに、今だけはそれがバカらしく思えるほど、おかしかったのだ。
別段涙が出るほど今の翼宿と太一君の掛け合いが楽しかったとか、そんなわけでもないだろうに、笑いと涙はしばらく止まらなかった。
翼宿もそんな彼女を見て思った。
なんやコイツ。よく泣くやっちゃな。
それやのに、いざってときはビシッと叫びおって、まるでどっかの誰かさんみたいやん。
それが誰なのかはさておき、今の転落事故でお互いに怪我ひとつなかったのは幸いだった。
一瞬やったけど、コイツのこと守りたいって思った。
……ま、認めてやらんこともないけど、この年でよう頑張っとるほうやしな。
それは年長者という立場から来る庇護欲か。はたまた巫女として小帆を認めた瞬間であったのか。
それは、彼自身まだわからないことであった。
「ほれ、んなとこにボロ服着て座ってんと、なんや惨めでしゃーないわ。娘娘、小帆になんかマシなん着せたってくれや」
「はいね!」
翼宿の所々裂けていた服は既に、娘娘翼宿治療隊によって再生されている。
小帆は再び、娘娘に手を引かれていく。ただ、はじめのときと違ったのは、彼女が一回振り返り一言、
「さっきは、ありがとう翼宿」
と言ったことだ。
翼宿はめんどくさそうに、後ろ向きのまま手だけ振った。ただ、その顔がくすぐったそうに見えたのは気のせいではない。
しかしそれも、少しの間だけで、翼宿は太一君と二人きりになる瞬間をずっと待っていたのである。
それは太一君もよく心得ていたことで、表情が一転、深刻になった翼宿の質問への対応も早かった。
「ばぁさんのことや、わかっとるんやろ?小帆のおらんうちに、俺にだけ正直に教えてくれ。井宿は……どうなった。
ここに魂になってきとらん限り、死んどらんってことやってことはわかるけど、それでも心配なもんは心配や」
「お主はそう言うと思っとった。じゃから、この大極山がきちんと見えるようになるまで待たせたんじゃよ。
荒れた心のまま聞くにはちと酷じゃと……思うからの」
「……どういう意味や、それ」
「じゃから、落ち着いて聞けと言うておるんじゃ。……井宿は奴らの手に堕ちた」
「やられてしもたんか!?」
だが、太一君は首を横に振った。
「事態はもっと悪いじゃろうな」
「もったいぶっとらんと、早う教えろや!!性格悪いでほんま」
本来なら落雷があるところだろうが、太一君は敢えて今の発言は無視した。
実際、言い難かったのは事実であるから。老婆は深刻な面持ちのまま、静かに告げた。
「井宿はあの功翔とやらの術にかかり、今は奴らとともにある」
「……なん、やと?」
放心する翼宿の前で、太一君は二人と別れた後のあの場での出来事を語った。
「お主らを逃がした後、なすすべなく奴の洗脳術にやられてしもうたんじゃ。とっさに解呪の呪文を唱えておったが、
力もろくに残っとらんあの状態では、高度な術の解除はどうあっても無理じゃ。あの場から奴とともに消えてからは、
消息が掴めん。じゃが今、井宿星の輝きが濁っておることは事実じゃ。翼宿、お前もうすうす感づいておったのじゃろう?」
「うそや!!」
「翼宿」
「そんなん嘘に決まっとる。あいつがんな簡単に、いつかのタマみたいになってたまるかい!俺は信じんぞ!!」
「翼宿、お主なら井宿を救えると思うて、敢えて言ったことじゃ。それを忘れるでない。
今現在、ここにかつての姿のままである星はお主と井宿の二人だけなのじゃからな。これはどうあっても変わらぬ」
「ふんっ!」
翼宿は既に聴く耳を持たず、その場から離れようとした。
太一君は最後にその背中に向かって一言。
「東へ行け翼宿。倶東国に二つの星の光がある。彼らを探すのじゃ。何かわかるやも……」
それを最後まで聞くことなく翼宿の姿は太一君の前から消えた。
それを見届け、太一君は大きく息を吐いた。
「全く。わしだって、出来ることなら何かしてやりたいわい。それが出来ぬからこうしているものを」
今のところ太一君の力の及ぶところといえば、大鏡で真実を映し出すことのみ。
「娘娘」
「はいね!」
どこからともなく娘娘が顔を出す。
「あ奴らだけでは心もとない。小帆のためにもお前がついていってやれ」
「了解ね!」
「倶東国には、“風”そして“命”に属する者がそれぞれどこかにいるはずじゃ。そやつらが何かを握っておる。任せたぞ」
社のほうでは、小帆が娘娘に新しい服を着せてもらっていた。
動きやすいようにと、少年服を出してくれたが、それが何より嬉しかった。
「こっちの服ってちょっと抵抗あったけど、動きやすくていいね。これ」
全体的に青い布地に白のラインが綺麗な、もといた世界では着ることのない服は、ことのほか小帆に気に入られたようである。
裾は一応短いが、下にはいてるズボンも足首が紐で閉じており、動きやすい。
娘娘と並ぶと対称色でまるで姉妹か何かのようである。
翼宿は社の外で待っていた。
「おぉ、来たか。ま、少しはマシになったな」
「少しはは余計だよ。翼宿、話は済んだの?」
小帆の言いたいことがわかったのか、翼宿は一瞬躊躇ったが答えた。
「井宿なら、心配いらんて。あいつのことや。そのうちひょっこり顔出すんとちゃう?」
「そう……なの?」
「あのな、お前は知らんやろうけど、井宿はああ見えて結構強いんやで?」
「あぁ、うん。なんか判る気がする。ひょっとして、翼宿より強いんじゃない?」
「そうそう。……って、なんやとこら!?」
「あはは……!」
小帆も大分翼宿の扱いに慣れてきたのだろう。
翼宿は、しかし、泣いてばかりいた小帆の笑顔がよく見れるようになった意味でも、満更でもない顔で「ほれ」と促した。
「え?どこ行くの?」
「決まっとる。これから東の、倶東国ってとこに行くんや。そして、俺らと同じように星を持った奴を探す」
「倶東国……」
小帆が呟いた。これから本格的に旅が始まるわけである。
しかし、既に彼女の中で覚悟は出来ていた。
「東の国ねー!」
「なんや!?お前もついてくるんかい?ババァの差し金やな」
「小帆と一緒!楽しいね」
「え?娘娘も来てくれるの?うん。楽しそう」
「あんなぁ、楽しいって遊びに行くわけやないんやぞ??お前までついてきてもうて、俺は保父さんやないで!」
「あ!翼宿、そっちは西ね」
「あはは……!」
「笑うな!!」
これからの珍道中が思いやられるやりとりであった。
翼宿はきびすを返し夕日を背にすると、小帆や娘娘には悟られぬよう心の中で呟いた。
井宿……、今度会うたとき、あのババァの言う通りなんてことになっとったら、俺、ゼッタイお前を許さへんで。
小帆の一行が新しい旅立ちを迎えた頃、混沌とした空気の中で目を開けた者がいた。
片方しかない紅い瞳。井宿である。
「目覚めたか。気分はどうだ?」
意地悪そうに、しかし、心底楽しそうに言ったのは功翔である。
「奴らはどうやら倶東国に向かうらしいな。厄介な者がついて来たが……よし、そこで仕留めるぞ。他の四天王が出るまでもない。
私とお前の力があれば十分だろう。これでお方様のご信用を得られるというものだ」
暗闇の中浮かび上がる井宿の瞳は、かつての光がなくこのまま闇に溶け込んでしまいそうなくらいに、ひどく濁ってしまっていた。
ここはどこだか知れないが、ただ闇があることだけは確かである。
井宿の心の中でもそれはとぐろを巻いて住み着いていた。
「井宿よ、皆にお前を自慢したい。ついて来い。これからお方様のところへ行く」
「……はい」
(update;04.04.06)