頭がひどく痛む。
まるで、何かが自分の中に入ってきてかき乱している、とても嫌な感覚だった。
何かが自分の中に、そう思った途端戻したくなる気持ちを必死になって堪えた。
はじめは無形だったものが、自分の中に住み着いてからというもの、だんだんとその姿を明らかにし始めていた。
これが闇……。
そう思った途端また、今度は鈍器のような物で頭を殴られたような衝撃が襲う。
ダメだ……。これについて考えようとすると、頭が痛くなるのだ。
井宿は自分の身体が、意思に反して動いているのを感じながら、しかし、何も出来ずにいた。
せめて、解呪の術がもう少し効いていたのなら、この呪縛から抜け出すきっかけが掴めたかもしれないのだが、
どうやらなんとか意識を心の奥底に留めておくことしか出来なかったようなのだ。
それでも、完全に闇に洗脳されてしまうよりはいささかマシだったろう。
完全に奴の言いなりになって、心まで支配された自分など思っただけでぞっとする。
しかし、自分の身体が意思に反して動いたり話したりする感覚は、なんとも言いがたい気持ちの悪さだった。
まるで夢心地で世界が見える。
少しでも気を抜いたら、この意識さえいつ消えるかわかったものではない。
井宿のそんな心の葛藤など露知らず、功翔は大きな獲物を獲た満足感に浸りきっている。
「着いたぞ」
二人は尚も暗い闇の中にいた。
身体の感覚のない井宿など、どこをどう移動したのかさえもわかっていない。
ただ、言えるのはここが現実にある世界ではないということだ。
しかし、いつか見た天コウの魔界とも違う。とにかく暗い。それだけがここの特徴のように思えた。
功翔が念じると、目の前に閃光とともに小さめの門が現われた。
功翔が入り、井宿がそれに続く。
だが、その時不意に彼らを呼び止める声があった。
「風殺鬼か」
どうやら知り合いのようである。
半分門の中に身体を入れていた功翔が戻って、外を見る。
「おぉ。地業鬼(ちごうき)の……」
「地の剛郭(ごうかく)だ。風の功翔どの」
功翔や井宿と比べるとやけに体躯の良い、巌のような大男であった。
なるほど、地というイメージがこれほど合う者もいない。
つまり彼も四天王のひとり、地を司る剛郭というわけだ。
剛郭は地そのものの性質からか、心なしか和む雰囲気を持った筋肉質の大男というよりは、力持ちの男の人といった印象があった。
その剛郭が不思議そうな目で新しい顔を覗き見る。
「あぁ、私が今しがたしとめてきた獲物だよ。いいだろう?どこかの使えない人間どもと違って、強いうえに従順で扱いやすい」
しかし、剛郭は功翔と会話するでもなく、ひたすら品定めするような目で井宿を上から下まで見ていた。
そのとび色の瞳は色自体は優しい印象を与えるが、どう転んでも彼も立派な闇の一員、それも四天王なのである。
井宿はわずかな意識の中でしまった!と思った。
もしも、まだこの身体の中に井宿自身の意識があることをこの男に悟られれば、間違いなく功翔に知られる。
そうしたら功翔は前以上に強力な術をかけてくるだろう。
そうなれば、今度こそ完全に自分の意識は失われる。
「……ふ〜ん」
しかし、剛郭は興味無さそうに言った。
「いいんじゃないか?羨ましいよ。今度その洗脳術とやら、俺にも教えてくれんか?」
「あぁ、そのうちな。これからお方様にこれを見せてくる。お前は?」
「俺は自分の領地に戻ってるさ。奴らは東に向かったぞ。この男と同士討ちさせるつもりか?」
「まあな」
功翔は悪戯っぽい笑みを浮かべるが、聞いた本人である剛郭は眉をひそめた。
「良いご趣味で」
「道なりに会うだろう。水のと、火のにもよろしくな。お前たちの出る幕はない、とな。当然お前も」
剛郭はこの功翔の発言には、無言で手を振った。
その姿がすぅっと闇に溶け、次第に見えなくなった。
「ちっ。あの骨なしが……!」
それは体躯のことではなく、明らかに性格のことを罵った言葉だろう。
なるほど実は仲が悪いこの二人の会話のニュアンスが、微妙に食い違っていたのも納得がいく。
ただ、井宿からしてみれば、四天王の連中が不仲であることは良い参考資料となった。
この呪縛さえなければ、偵察隊として翼宿たちのもとに堂々と帰れるものを。
だがそれは、今の段階では考えるだけ残念ながら無駄に気力を減らすだけなのである。
門をくぐり道なき道を奥へと進むと、しだいに明かりが見え始めた。
それは両サイドに転々と続き、どうやら燭台が奥間まで道しるべとして続いているようだ。
いよいよ、敵の真に迫ってきたと、そういうわけである。
果たして闇とは、いったいなんなのか。
井宿はこの数分後、心底驚愕させられる光景を目にすることになるのだが、今はまだ知れないことだ。
ただ身体だけが無意識のうちに功翔の後を追い、燭台の転々とした道を進んで行く。
闇とやらに一歩一歩近付く度、自分の中に植えつけられた闇の部分がうずき、井宿の意識そのものを刺激した。
負けないのだ……。
消えていこうとする自分に渇を入れ、なんとか踏みとどまったが、長いことここにいるのはやはりまずい。
そう勘が告げていた。
「お方様、風殺鬼が只今戻りました」
井宿は息を呑んだ。
な……なんなのだ!?これは!!
二人の目に飛び込んできた物、それは井宿の予想をはるかに超えていた。恐ろしい闇の正体。
転々とした明かりの道が終わると数段の階段があり、二人はその下段にいた。
ここだけは膨大な量の燭台に照らされ、一段と明るくなっている。明るさだけならまるで昼間のようだ。
ただ、その雰囲気がなんとも粘り気があり、蒸しかえる夜のようだったが。
階段の上には宮殿の正殿はゆうに超す大きさの像があった。
しかし、問題は大きさではなくその象徴したるものである。
これは、四神……!?
像の下方に玄武、右腕らしき部分に白虎、反対側にとぐろを巻いた青龍、そして、まるで背中に翼が生えているかのように、
像の上方にあったのは朱雀に違いなかった。
像は所々黒く染まり、よく見るとそれはまるで生きているように四神をモチーフにした像を、徐々に蝕んでいた。
「四神の命もあとわずかですね。嬉しい限りでございます」
功翔はそれを楽しそうに見てから、像……否。その黒く染まった部分に向かって例の事柄を報告した。
「お方様もそう思われますか?実は私もそれはとても良いお考えだと、思っていたのです。……はい。ぬかりはありません。
他の四天王とは名ばかりでございます。この功翔めに全てお任せ下さい」
井宿にはひとりの声しか聞こえてこない。
しかし、功翔は今この黒い部分と話しているのである。
その声は、結局最後まで聞くことは叶わなかった。だから、会話の途中で突然功翔が態度を変えたのには驚いた。
「なんですって!?……今、なんとおっしゃいました!?」
功翔の顔は信じられないといったふうに、息も荒く、なんと冷や汗までかいているではないか。
「ふざけておいででしょうね?そのようなこと……私は認めませんよ。この通りやつらの仲間のひとりは捕らえてあるんです!
そうである以上、絶対にこの私が……負けるなど有り得ない。私こそが四天王の中で最強なのです!!」
その瞬間、声ではない異様な威圧感があたりに満ちた。
途端、功翔の顔が慌てる。
おそらく今の発言で相手を怒らせてしまったのだろう。
「……申し訳ございません。しかし、これは自信があるのです。でなければ、ここにいる例の奴らの仲間などとうに殺しております。
是非、私めにやらせて下さいまし」
急に小さくなった功翔だったが、やはり例の同士討ちの作戦は捨てきれないのだろう。
この自分を信じて疑わないところと諦めの悪さでいえば、別段四天王でなくとも天下一だろうに。
門を出てからも、功翔の機嫌はこれ以上ないくらいに悪かった。
「それもこれもお前のせいだ!!」
完璧な八つ当たりである。井宿は功翔の風に甘んじて吹き飛ばされた。
門の脇の壁に激突した瞬間、井宿の手に風がまとわりつき、まるで手かせ状になると、その頭の上で片手を壁に封じてしまった。
「しばらくひとりになりたい。お前はそこにいろ。必要になったら来る」
そういうとたちまち功翔は風とともにその場から消えた。
……自己中は誰かさん以上なのだ。
井宿はその勢いに圧倒されて、ぼうっとする頭で一瞬そんなことを思った。
だが、今の状況がこれまで以上に悪いものになってしまったのにも気が付いた。
このままこんなところに残されたら、ますます闇が濃くなって意識が……!!
しかし、手かせは壁にめり込んだまま。さらに自分のこの身体は既に自由が利かないときた。
逃げ出すすべはない。
このまま完全に闇に支配されて、あいつの思惑通りに翼宿たちと戦わされることになるのだ……!?
それだけはなんとしてでも避けなければならない。
なんてことだ。せっかく転生を放棄してまで、前の姿に戻り、また戦うことを決意したというのに、
自分はこのまま敵の手中に堕ちてしまうのか。
既にこの奥の強い闇の波動に圧され、意識は前以上に朦朧としてきている。
翼宿、たとえオイラが本当に敵に回ったとしても君なら、きっと小帆を守ってくれると信じてるのだ……。
半ば諦めかけた時である。
ふと誰かの影が見えたかと思うと、パンッと何かが弾ける音ともに手の戒めが解けた。
手かせを外してその影が次にとった行動は、井宿の額に手を当てることだった。
「相当体力を消耗しているな……。まぁ、無理もない」
その人物は呟くと、虚ろな井宿の眼を見た。
朦朧とする意識の中で、井宿は同じく相手の瞳だけ確認することが出来た。
とび色の眼……?
「……うっ!?」
「あ!!目覚ましたよ!」
「ほんとだ!夏先生!はやくはやく」
「こらこら、病人の前だぞ。静かにせんか」
高い子供の声がいくつか聞こえ、最後に覚えのある声が耳に届いた。
「気分はどうだ?」
井宿ははっとなった。
「お前は確か……あの時の」
「あぁ。剛郭だ。よかった。記憶がそこまではっきりしていれば大丈夫だな」
剛郭と実際に聞いて、さらに警戒する気持ちは高まる。
寝台の上で井宿は、ほぼ無意識のうちに少し距離をとった。
確かにこの男は、あの門の前で会った四天王のひとりであった。
しかし、どうしたことだろう。
今、自分は寝台に寝かされており、横に腰掛けている剛郭の周りには年端もいかない子供たちがわらわらと懐いているではないか。
「お兄ちゃんよかったね。夏先生は名医なんだよ」
「こら。そんなんじゃないっていつも言ってるだろ」
「えー?だって、先生、僕たちが怪我するといつも治してくれるじゃんか。凄いよ!」
「ねー」
どうやらここは十数年前に義務教育制度がしかれ、開校された学校のうちのひとつらしい。
長い平和で貧富に関係なく、子供たちが自由に学を持てるようになったこの時代、
まだまだこういう建物自体は珍しいので、逆に新しい壁や子供たちの彼に対する態度などからすぐにわかった。
「先生……?」
剛郭は井宿が警戒しているのを知って、敢えて子供は取り払わずに言った。
「あ?あぁ。夏(か)剛郭という。ここでは、夏先生ですっかり定着しているがな」
この人は信じていい。
何故かそう思った。
あの門の前から井宿をここまで運んだのも彼だろう。
しかも、ここまできて井宿ははっと気付いた。
呪縛が解けている……。
身体はまだ体力が戻っていないせいで、所々痛く軋むが、まったく動かせなかった頃とはまるで違った。
……久しぶりに身体の感覚が戻ったのだ。
興奮したように何度も手の開閉を試みた。
「どうしたの?手?痛いの?」
すると一段と小さな女の子が、心配そうにそんな井宿を下から覗き込んだ。
「ううん。大丈夫なのだ。夏先生は名医なのだね」
女の子はそれを聞き、
「うん!!」
と、嬉しそうに頷いた。
井宿はそんな彼女の頭を撫でてやる。
そうしてやってて井宿は何かに気付いたように、自分の顔に手をやった。やはりお面はとれたままだ。
しかし、この子達が怖がる様子はない。
「あ。今度は目触ってら。ヘンなお兄ちゃん」
途端、どっと子供たちの間で笑いが起こる。
なんとあの剛郭もその中で豪快に笑っているではないか。
そんな空気の中井宿もいつの間にか笑っていた。
何故だかわからないが、自分はあの闇からこの剛郭によって救われた。その事実だけはハッキリしていた。
ひとしきり笑った後、剛郭は子供たちを病人に障るからと言って部屋から出した。
急にしんとなった部屋の中で、井宿のために自分から距離をとっているのだろう。寝台とは対称側の戸口のほうから剛郭は話しかけた。
「無理はしないほうがいい。まだ、完全に回復したわけではないだろう。
まして、つい昨日まで闇に半分侵されていた身体だ。平気なわけがない」
「昨日……」
そうか、あれから一日も眠っていたのだ。
「なぜ……オイラを?」
剛郭は答えた。
「はじめてみた時に気がついていた。あいつの術は完全にあんたを支配していたわけではないとな」
あいつというのは功翔のことだろう。
剛郭はあれからまだあの場にいて、功翔が出てきて井宿と離れる時を待っていたのだという。
「安心しろ。あいつはひとりになると言ったら、当分は戻っては来ない。本当に乱暴な奴だ。
あんなところにずっと放置されては、俺達だってまいってしまうものを」
「あんたたちは仲が悪いのか……?」
「いや、特別俺とあいつがというわけではない。俺はあの中では誰とも仲が悪いと言えるな。
見てわかっただろう。俺はこんなだから。あいつらは、甘いだの骨がないだのと罵る」
井宿は正直、この男が闇の四天王のひとりだとは信じられなかった。
子供たちにあんなにも慕われ、何より闇に支配されかけていた井宿を救い出してくれた。
この優しい男がどうして……。
剛郭は続けていった。
「もし、あんたの身体がもう良いなら、長話に付き合ってくれるか。つまらん話だ。当然、無理ならいい。
しっかり回復してくれんと、こっちも命がけなんでな」
確かにあの功翔の恨みを買う最大の危険を冒してまで、井宿をあの場から連れ去ったのだ。
下手したらあの功翔のことだ。同じ四天王といえど、黙ってはいないだろう。
井宿も出来ることならこの剛郭という男を信じたかった。
「大丈夫。お陰様でだいぶ回復してきているのだ。オイラは井宿と言いますのだ。是非、その話というのを聞かせてほしいですのだ」
剛郭は心底安堵したように、息を吐いた。
「そんなところにいては聞こえない」
「だが、……いいのか?この俺とて闇の四天王のひとりなのだぞ」
この瞬間、剛郭という男が心底心の優しい男だということがわかった。
井宿は敢えて何も言わずに、寝台の脇の椅子を差し出した。
剛郭はやや遠慮がちにその椅子に腰掛け、語った。己がいかにして四天王となったかを。
剛郭はその昔孤児院の先生だったという。しかし、時代のせいか少し前からしてみれば考えられないことを平気でやる親が増えてきた。
虐待……そんな言葉が噂にたった。
子供を捨てる親までいる。剛郭は許せなかった。
それで何人の子供が傷付き、親に疎外、あるいは見捨てられたことでどれだけこの先一生その重荷を背負っていく羽目になるのか、
考えたことがあるか。そう言った。
しまいには、今の子はとか、いまどきの若い子はという振り出しでの会話が始まった。
それは違う。
いつの時代でも、子供は子供。生まれてきた瞬間誰もが同じ、丸い姿をしているのに、それを育てる環境が純粋な彼らをとげとげにしてしまった。
それは子供の純真が作り出す、自己防衛本能の最悪の形だ。
誰もが第三者に徹し、子を持つ親でさえもうちの子は大丈夫、そんなふうに考える。
ヘンな子と一緒にいるのはおよしね。そういった言葉自体、それと意図せずにどれだけ誰かを傷つけているか知れない。
昔は誰もが親になり得た。
近所のおっかないお爺さんとか、今はそれこそいたら、うちの子が何を……そうやって何も聞かずに親は憤慨するのだろう。
叱ってくれる優しささえも、今の世の中にはない。
しまいには子供を疎ましく思う。平和な世の中の一方で孤児院など厚生施設のニーズが求められているというは、なんとも悲しく……寂しい現状だ。
「だから、俺はいつの間にか世の中を恨めしく思うあまり、闇の一員となってしまったのだ」
「……」
井宿は何も言えなかった。
闇、それも闇だというのか。
それを言うのなら、この世そのものが既に闇ではないか!
間違ってる。何故、この人が闇と呼ばれなければいけない!?
この剛郭はただ、今の世に生きる子供たちのことを思ってやっていただけではないか。
「……なぜ」
井宿の心の中の葛藤を剛郭はわかっていたつもりだった。
「仕方ないさ。闇とはそういうものだ。だから、ここまで大きくなってしまったんだ」
「そんな!それじゃ、闇とは……!!」
理不尽だ。こんなのがあっていいわけない。
闇はどんなものに対する恨みも怒りも全てをそう呼ぶのか。
それがたとえ、誰かのため……誰かを思っていたとしても。
「誰かを守ろうとして誰かを憎む。それすら、既に立派な闇なんだ」
「では、闇を憎む気持ちも……」
「闇だ。所詮、それは闇を余計に大きくしているにすぎんということだ」
「……」
「やはり、体力の回復しきっていないその身体で、この話は酷だったか」
「いや。そういうわけじゃ……。それに、それは、きっと辛いのはあなたも同じなはずだ。こんなことがあっていいはずない」
「だが、現実そうなのだ。私はすさみきった世の中を恨むあまり、その思いの大きさが災いして闇の四天王となった。
確かに苦しむ子達を見て、恨むばかりで自分から世の中を変えようとはしなかった。……自業自得だ」
「違う!!」
「違わないさ」
「でも……!!」
なおも何かを言おうとする井宿を、剛郭は優しく制した。
「今はとにかく休め。いくら功翔が気まぐれだといっても、いつまでも帰ってこないわけではない。
身体が治ってからは、あんた自身どうするか考えてくれ」
そういうと、井宿が休めるよう自分は部屋を出ようと椅子を立った。
「まだ操られているふりをして、例の同士討ちになったときに隙を見てあちらに戻るというのが、一番よかろう。
上手くすれば、意表をつかれた功翔をそのまま倒すことも出来る」
「どうして、あんたは敵であるオイラのためにここまでしてくれるのだ」
「……俺は、人がいいのかもしれないな。俺なんかは自業自得だが、あんたは違うだろう。功翔に無理矢理闇に引き込まれた。
もともとあいつは嫌いなのさ。だからだ」
違う。
井宿は思った。
剛郭が本当は井宿に何を望んでいるのか。
今の話をきいて、井宿にはそれがわかってしまった。
だから余計に言えなかった。さらに、
「あぁ、その机の上に薬草を調合した薬がある。それを飲めば回復は早いだろうが、
……今の話を聞いて少しでも俺を怪しいと思うのなら、飲まないほうがいいかもしれんな」
出際に自嘲気味に笑い、そんなことを言い残していったものだから、なおのこと言い出す機会を失ってしまった。
彼の出て行った後、井宿は机に手を伸ばした。
剛郭は子供たちのいる勉強部屋に向かいながら、思った。
井宿という男は、この俺を殺してくれるだろうか……。
何より彼が井宿を助け、身の上を話したその裏にはそもそもこういった願望があったからだ。
それを井宿はわかっていた。
わかっていたから、敢えて訊かなかった。そういうことにしておきたかった。
井宿に彼が殺せるわけないのである。
誰よりも子供を愛したが故に、逆に闇に付け込まれる形となった彼を誰が罰せるというのだ。
闇とは……なんなのだ。
(update;04.04.06)