「あ、あのさ……」
小帆が遠慮がちに翼宿に声をかけた。
「ん?どないしたん」
「小帆、疲れたね?」
道中のやりとりのひとつであった。
倶東国は遠い。彼らは馬を利用するほかなかった。
娘娘は定員オーバーのため、玉に形を変え、小帆が首からさげている。
といっても、ちゃっかり会話するあたり太一君に言い付かった小帆の精神面の助けにはなっており、
よく役目を果たしているとも言えた。
馬に乗るのは初めてという彼女のため、翼宿は安全を考えて前に小帆を座らせていた。
やりとりといっても、当然彼が前方から視線を外すことなどできるわけがなく、しかし、声はしっかりと対応してやっていた。
小帆が言いにくそうにしていると、
「なんや。言いたいことあるんやったら、もっとはっきり言わんかい。ここにはお前をいじめるような奴はおらんで」
「そうね。大丈夫ね。そんな奴、翼宿が睨めばきっとイチコロね!」
「おうおう!!どうせ俺は人相悪いわいっ」
「きゃははっ」
まるで翼宿が娘娘にいいようにあしらわれている図である。
しかし、小帆はそんな和やかな、というよりは賑やかな道中ずっと消極的だったわけではない。
今自分が言い出そうとしていることの、それ自体が軽い気持ちで口にしていいものか躊躇していたのだ。
意を決し、言葉を繋げる。
「あのさ、翼宿や娘娘って今までの巫女様たちに会ってるの?」
それに、真っ先に答えたのは翼宿だ。
「娘娘は会っとったとしても不思議はないけど、俺は朱雀と青龍の巫女だけや。あとの二人は会うたことはないけど、
話はだいたい聞いとるし。まぁ。まったく知らんちゅうわけでもないな」
「そういえば翼宿は最初、朱雀の巫女様の七星士だったって……」
「せや。南方朱雀七星宿。みんな俺の大事な仲間や。それから美朱も」
「美朱さん?それが朱雀の巫女様の名前……」
小帆はふと、まだ自分が日本に滞在していた頃に光の家に遊びに行ったときの事を、思い出していた。
光のお母さん。優しい人だったな。
確か彼女の名前もそんなだった。と、思い至りはしたが、当然何も知らない彼女がこの偶然を考慮し得るわけもなく、
「その話……もしよかったらでいいんだけど、聞かせてくれる?」
「あ?話って、俺らのことか」
「うん。あ、で……でも、ダメならいいの。巫女とか、四神とか……なんだか聞いてただけで、いまいち実感できるものがなくて……。
本当にこの世界に来たの私でよかったのかなって、思って。太一君もまだ私が巫女と決まったわけじゃないって言ってたし。
だったら、どうして……なんのためにこんな子供の私がここに 」
ここで翼宿が手綱を勢い良く引っ張り、突然馬を停止させたものだから、小帆は危うく舌をかむところだった。
「あほ。お前はそうやって自分追い込んで、ずっといじめてたんやな。今わかったわ」
「翼宿……?」
「聞きたいんやったら、遠慮せんと聞いとき。お前に話したいことはぎょうさんある」
そう言って、翼宿はまた馬に鞭打った。しかし、以前より歩みはいささか緩い。
「みんなお前と同じや。不安で不安で仕方ないことなんぞ、生きとったら誰やって経験しとるんや。
……けど、どんな状況でも自分を見失うんは一番悲しいことやと、俺は思う。そうやってひとりで何もかんも背負うんはやめとき。
俺たちやって、いろいろあったけど頼れる仲間がいつもちゃんとおった。お前の側にはひとりもおらんのか?
何かあったらちゃんとその人が助けてくれるんやないのか」
「そんな人……」
「ほんまに誰もおらんのか?今、お前の頭には誰も浮かんどらんちゅうのか。違うやろ?」
翼宿の前では自分を偽れない。
小帆は幼心にそう思った。
翼宿は知っていた。
不安でしょうがないとき、落ち込んだとき、仲間が側にいてくれるこの上ない安心感と、信頼感。
そして、何より自分自身を偽ることなく正直に生きてさえいれば、自然と心は強くなり、仲間はそれと比例してどんどん増えていく。
ただ、正直に生きる。たったそれだけを、どうしてこんなにも難しく考えるのか、翼宿には理解できなかった。
「いい加減、意地張るのもここまでやろ。向こうの世界で誰がお前の帰りを待っとるんや?」
小帆は観念したと同時に、おえつ混じりにその質問に答えた。
「……ひ、かり。……光」
そうだ。初めてここに来たときに見た夢……。
あの声は確かに光のものだった。
大声で自分を呼んでいた。小帆!……って。
光……。会いたい……。会いたいよ。
図書館の前で会った時、光を見て思わず逃げた。こんな自分を見られたくなくて。
でも……でもね、会った瞬間本当はそんなことよりもっと強く感じてたことがあるの。
……嬉しいって。
やっと、会えた……って。
翼宿は小帆の震える身体を目では見ずに、くっと前方を向くと満足げに笑んだ。
「光……。それがお前の大事な人なんやな」
小帆は涙と紅潮でえらい状態になったその顔を伏せるようにして、無言のまま頷いた。
「ええ名前やな。光……か」
なんや、美朱が好きそうな言葉やな。翼宿はふとそう思った。
だが、次の瞬間まさかそれが裏づけされることになろうとは、流石の翼宿も思いも寄らぬことだったが。
「……うん。私もいい名前だと思う。宿南光。南に宿った光って書くんだって……」
「なっ……!?」
翼宿の表情が一変した。
絶句する彼の前で小帆は、なにか自分が言ったのかと一瞬不安になる。しかし、それは取り越し苦労というものだ。
言葉を失った翼宿の変わりに、娘娘が彼女の不安を解消した。
「小帆、今、宿南って言ったね!?」
「え?あ、うん。宿南光だよ。日本の男の子で、私の大切な人……」
「もしかして……彼のお母さんとお父さん、美朱と魏って名前ね?」
「えっと。うん。お母さんが美朱さんでお父さんは魏さん。二人とも、日本にいたときとても親切にしてくれたから」
「うそや !!!」
突然翼宿が、悲鳴とも奇声ともつかない大声を張り上げたものだから、今度は危うく歩行中の馬上から小帆は転げ落ちるところであった。
「え?な、なに!?」
「なぁ!それ、ほんまにほんまなんか!?ほんまに美朱と魏の子供……」
「こんな時に嘘ついてどうするの。間違いないよ」
本当なのかと、こう連発されると小帆も若干ムッとした泣き顔で言った。
すると、今度は娘娘に向かって、
「娘娘!おい!なんで教えといてくれんかったんや!?こいつが魏たちの子供とできとるって知っとったらもっと……」
「できてって……。ヘンな言い方しないでよ」
「娘娘も初耳ね。太一君も多分知らなかったと思うね。闇が濃くなってから、太一君の神力も限られてずっとこっちの世界しか見れなかったね」
「……はぁ。んなら、井宿もきっと知らんな」
「だと思うね」
「え?ちょ、なに!?光と私が知り合ってちゃ、な、なにかまずいの!?」
いい加減、小帆でもここまで驚かれると重要事項だと取らざるを得ない。
「ちゃうちゃう!そうやない」
と、翼宿は即答したものの、やはり衝撃は激しいのだろう。
心底疲れきった顔をしていた。
「しっかし、せやったら余計に話さなあかんやんけ」
「朱雀の人たちのこと?」
「せや、小帆よう聞いとき。その朱雀の巫女っちゅうんが、その宿南美朱や」
「アニキー!!」
紅南国と倶東国の故郷付近にある小さな村は、版図上では東のそれに属していたが、「翔」という字を鳥が「翔る」とも、「架け」橋ともとり、
その名も神翔郷(しんしょうごう)といった。つまり、神同士が空でともに翔るという意味合いで、朱雀と青龍の戯れる郷とも言われる地である。
そこの農家のひとつ、悸(き)家に十二年前、双子の男の子の兄弟が生まれた。
貧しいながらも、村でも評判の和やかな家庭の中で二人の子供はすくすくと育ち、今に至る。
両親を始終手伝っては今朝は家の前の畑仕事をする兄を、家の裏手にある山に山菜採りに行っていたはずの弟が呼んだ。
しかし、それに答えたのは鍬を地面に突き刺し汗をぬぐった少年ではなく、近くで種をまいていた母親だった。
「魁俊(かいしゅん)!あんた、またサボってるね!!少しは紅可(こうか)を見習ったらどうだい!」
「えー!ちゃんと採ってきたよ。ほら」
「あぁもう。そんなんじゃ、夕飯の足しにもならないよ。そうだね、日が暮れる前にこの倍は採っといで」
「ちぇ。人使い荒いんだからな」
軒先に下ろした籠の中身を見ながら、二人が話していると、弟と違いノルマを一通りこなした兄が、
「鍬を納屋にしまいに行くついでだ。俺も行ってやるよ魁俊。二人でやれば早いだろ?」
春はもっぱら木の実や山菜、秋になればその他にキノコの採取に利用している山と同じく、家の裏手にある納屋に向かいがてらそう言い残した。
早く来ないとおいてくぞといった彼の背中を、不承不承弟が籠を抱えて追いかけていく。
「こんなの親父がやればいいんだ。畑仕事だって、去年までそうだったじゃないか」
「仕方ないだろ。父さんは去年の暮れから町に出稼ぎに行っちゃって、当分戻って来れないんだからさ。
その間、俺たちで母さんと家を守んないとな」
「兄貴はしょっちゅう山に行かされてるわけじゃないからわからないんだよ。昨日なんて冬眠からお目覚めの寝ぼけた熊に襲われかけたんだぜ」
「ははは……!!」
「笑い事じゃない!!」
「でも、大丈夫だったんだろ?」
「でなきゃ、俺今ここにいないよ」
それもそうである。第一、魁俊は村一番の名投手だ。いざ、熊が向かってきたところで彼ならば、
襲われる前に急所であるその眉間を小石で正確に打ち、気絶させることも可能だろう。
作物の少ない冬など、狩猟において彼の命中率の良さはなかなか重宝されるというものだ。
「熊とはいえ動物なんだから、やさしくすればわかってくれると思うけどな」
「兄貴は特殊なの!昔から動物に好かれやすいうえに、へたにやさしくするもんだから、終いにはうちに何匹か居座っちまったじゃないか」
「ははは。でも、一度も追い払わずに彼らの分の御飯まで、いつも用意してたのは誰だったかな」
「兄貴!!」
後ろから顔を紅潮させてついてくる弟を、紅可は楽しそうにからかった。
しかし、それは魁俊もやはり同じで、兄の後ろで歩んでいた自分の身体を、軽い足どりでとんとんっとその真横に持っていった。
「なぁ、兄貴。またあれ聞かせてくれよ」
「あれって……笛のことか?いいけど、これ吹くとなぜか動物たちが集まって来るんだよな」
「いいじゃん。俺、昨日山菜取りに山の向こう側まで行ってみて、いいとこ見つけたんだ」
楽しそうなやりとりをしながら、幼い面持ちの残る似た顔の二人の兄弟は、日も傾きだした頃山に仲良く入っていった。
それから数刻かけて、頂上付近にたどり着く頃には、籠にはおよそ今晩三人で食べるには多いほどの収穫があった。
「これだけあれば、十分だ」
「でも、こんなにあったら夕飯じゃちょっと終わんないよな」
「その時はお前が、動物たちにふるまってやればいいだろ?」
「まだ言うのかよ!それを」
「ところで、まだなのか?例のいいとこって」
「あぁ、ここまできたら、迂回しないで頂上まで行って下ったほうが楽だからさもうじきだよ!」
魁俊の予測どおり、目的地にはそこからたいして時間もかからず、尚且つ緩やかな下りで楽に行くことができた。
そこは開けており、背が高く無造作に伸びていたそこらの草とは違って、そこだけこまめに手入れしているかのような規則正しい芝生の平面だった。
その真ん中にぽつんと、しかし、子供が輪を描いて六、七人は座れるのではと思うほど大きな年輪を描いた巨木の切り株があり、
ステージという言葉を連想させた。
「な?いいだろ!?」
まるで秘密基地を他人に自慢する時の興奮ぶりで、魁俊は兄の背中を叩いた。
「……いや、でもこれは……。こんなとこで吹くのはちょっと恥ずかしいな」
「大丈夫だって。いるのは俺や動物だけだけだしさ。ほら行った行った」
やんややんや言う弟に根負けした紅可は、一回だけ諦めとも意気込みともとれる大きな息を吐き、おもむろにステージに臨んだ。
彼の演奏は遠く山の袂にまでやさしく響き渡り、人々の心を穏やかにする。
魁俊はこの時が一番好きだった。
自然と小動物たちも寄ってきて、それに便乗するように鳥たちが空で輪唱する。
凄いときでは馬や熊、虎なんてものも、この艶麗な笛の音に誘われてくることがあるというから、その効果の程も窺えるというものだ。
今日はどうやら馬どまりだったが、それでもその開けた会場は一気に満席となってしまった。
西側を向いているお陰でそこは夕焼け色に染まり、演奏はいよいよ佳境に入った。
そんなときである。
目を閉じて一観客として演奏に耳を傾けていた魁俊の頭に、とげが刺さったような衝撃が走った。
……なんだ?
条件反射から兄のほうを見てみるが、紅可は綺麗な演奏を片時も崩さず演奏していた。
昔からこの手の衝撃があると、必ず双子の片割れに何か起こったというサインとしてお互い認識していたのだが。
すると、意外にも演奏中の紅可のほうからこちらに視線を向けてきた。
二人は目で一瞬会話した。
紅可も感じていたのだ。しかし、彼はこの動物たちに笛を聴かせてやっている最中である。
ちょっとあたり見てきて、もし何もなければまた戻ってきて聴いてればいい。と、両者の間で同じ考えがまとまったあたりが、
流石結束の強い双子という名の兄弟関係の仲といえよう。
んじゃ、ちょっと見てくるわ。と、魁俊がそっとその場を離れた。
モグラや鼠、兎などの小動物を踏まないように移動し、開けた場所からさらに西の山の袂へと向かった。
「まったく、落ち着いて兄貴の演奏も聴けやしないぜ」
ぼやきながらも、なんとなく気配の導くままに足を進めると、間もなく山の中からふもとの道が見えるようになった。
……人だ。
神翔郷の山を隔てた西側は、村はおろか民家すらなかなかない旅人の道だ。
あちらから来たということは、紅南国から倶東国に入ろうという口なのはすぐに見て取れた。
しかし、そのメンツがなんとも妙である。
魁俊はぐぐっと目を凝らして、高いところからそのふもとの道を行く一行を見下ろした。
馬が一頭。その上に派手な装いの男と、自分とたいして変わらない年頃の女の子だ。
兄妹(きょうだい)にしては似てないな。
でも、こんな時間にまだこんなところ馬でうろうろしているようじゃ、この山をまっすぐ越えない限り、
今夜は神翔郷にたどり着くことなく、野宿決定だな。
他人事のようにそう思っていると、ふともうひとつの気配を感じ取り、魁俊はばっ!と右手のほうを向いた。
危険な気配!!
直感でそれだけはわかったが、いまいちその姿がはっきりしない。
目がその姿を捉えるのに躍起になっている間に、耳がぐるる……という低い唸り声を聞き取った。
人じゃない!と思ったあと、熊だ!!と判断するまでにその黒色の気配はまっすぐ、下の旅人の行く道に駆け下っていってしまった。
俺が昨日襲われかけた寝ぼけ熊だ!!あのやろっまだ……!
熊は、しかし、因縁の魁俊には目もくれず、相変わらずものすごい速さで下を行く旅の一行に迫っていった。
狙いはあいつらか!?
そうとわかった時には、熊は既にはるか先を行っていた。
あいつら気付いていないのか!!
「危ないっ!!!」
(update:04.04.13)