「ひかっ……むぐっ!?」
「まずいよ。ここ一応図書館なんだからさ。静かにね」
「でも……」
図書館といっても建物である。いくら規模が大きい物であれ、果てがないなんてことはないだろう。
なのに、かれこれ一時間は探し回っただろうか。館内の構造もだいたい頭に入ってしまうほど、何度往復したか知れない。
こんなに探したというのに、息子の姿はどこにも見当たらないのである。
館内静粛厳守の銘のもとに、声も出せずに探し続けなければならなかったもどかしさが、爆発寸前といったふうに美朱の中で暴れまわった。
「これだけ探してもいないなんて……」
落ち込む美朱を目の前に、張はそれ以上に落胆してみせた。
「すみません。人様のうちの子を自信満面に受け持っておきながら、見失うなんて……俺のせいです」
「ううん。張さんが悪いわけじゃ……。だって、光はお父さん似でしっかりした子だから、なんでも任しちゃってて。
本当はまだ子供なんだって、ひょっとしたら私気付いてあげれなかったのかも。背伸びなんかさせないで、
ちゃんと私がついてあげてれば、こんなことには……」
「美朱ちゃん……」
心配そうに美朱の伏せてしまった顔を覗きこむ張を、しかし、彼女は持ち前の立ち直りの良さで跳ね返した。
「そうだ!!」
ガツンッともゴチンッとも取れる小刻みいい音が、美朱の威勢の良い声とともに静かな館内にこだました。
「 っ!!?」
反対に声なくその場にうずくまったのは、わりと長身の張氏である。
「……あれ?」
美朱は自分の勢い良く上がった頭が、張のあごを強打したことにまったく気付いていないようだった。
「どうしたんですか?あ。もしかして今ゴチッっていったのって……」
「いたた……」
「ご、ごめんなさいっ!!」
「いや、いいけどね」
とは言うものの顔は半泣きである。相当痛かったらしい。
立ち上がってなおもあごをさする姿が、先程からの心労も味方してか、心なしか哀れにみえる。
「で、そっちこそどうしたの?いきなり」
「え、あ。そうそう。今思い出したんだけど、確か光って携帯持ってたのよ」
「……どうしてそれを早く言わないかな」
「えへへ……。いつもは持たせてないからすっかり忘れてたのよねぇ」
まるで場違いにも、隠されていたおもちゃを探し当てた時の子供のような笑みに、張にはもはや怒る気力さえもなくなっていた。
「まぁ、とにかくそれで彼のいる所がわかるわけだ。はぁ……良かった」
しかし、事態はそううまく運ぶものでもないことを、美朱はなんとなくだが予想していた。
携帯を持つ手が一瞬、ためらったのを張は見逃さなかった。
「……どうしたの?」
「え?」
「あ。いや、なんか今……」
張の言おうとしたことがわかった美朱は、無駄に心配はかけまいと、なんでもないと言った。
しかし、張はその仕種がどこか不確かなのを感じ取り、また疑念を抱く。
まるでなにかを恐れているようだ……。
彼がそう感じたのも無理はない。
丁度この時日本では、パソコンの妙なメッセージを見た魏が夕城宅に走っていたのだが、
そのようなことをまさか遠く離れた中国で知る由もない彼らは、一縷の望みを託し、美朱の握る携帯に神経を集中させていた。
「あの、すみません。電話でしたら、外でお願いできますか?あと、それから館内では静かにお願いします」
「……あ、すんません」
しかし、図書館を出、その門前で光への連絡試みたが、一向に相手は出なかった。
「……なんでだよ!?」
張がついに痺れを切らし、美朱から携帯を取り上げ自分でも掛けてみるが、やはり結果は同じ。いつまで経っても相手が出る気配はない。
「光……。まさか誘拐……とか」
「お、おいおい……。まさか、な」
どこからともなく悪い予感が脳裏をよぎる。
そんな最中、彼らのマイナス思考を中断させたのは、館内からの声だった。
そのアナウンスを聞いて、当然ながら先に顔色を変えたのは張だ。
「……なんて言ったの?今の」
張は一言「まさか……」と言っただけで、美朱の質問に答える前にそのまま館内に戻って行ってしまった。
「え!?」
美朱もしかたなくそれに続く。
張はすでにカウンターの女性に何事か話していた。
カウンターの女性はすぐにピンときたようで、張にあるものを手渡した。
それは、
「……携帯」
美朱もまさかと思った。
しかし、それは紛れもない。数日前まだ日本にいた時に、結婚するまでは度々(といっても金がないのでたいした回数でもないのだが)中国に行っていた奎介が、
持っていけと言って渡してくれた外国用の携帯電話。ビールジョッキの形をしたストラップがその証拠だ。
その後も張はしばらく女性に訊いていたが、とうとう諦めたように出入り口付近にいた美朱のもとへ戻ってきた。
「それ、まさか……」
「あぁ。さっき、アナウンスで携帯落とした人いませんかって言っていたんだ。まさかとは思ったんだけど。
……間違いないよね、これ。奎介がこっちに来た時よく使っていたのを見てたから」
「光は!?なんで携帯だけ見つかるの?」
「だからさ、俺もそう思って訊いてみたんだけど、どうやら関係者以外立ち入り禁止の板の前にあったらしいんだ。
でも鳴ってたから気付いたようなもんで、その辺は関係者どころか全面的に立ち入りを禁止している所らしい。
まさか、誰かいるとは思えないって、その先は見てくれてないし、子供がいるはずなんだって俺がいくら言っても、有り得ない!ってさ」
「なに……それ?」
美朱がいぶかしむと、張も複雑な顔になった。
「そういえば、さ。前にこの図書館いろいろと噂されてたんだよね」
「噂?」
「うん。まぁ、ありがちなんだけど、いわゆる怪奇現象っていうかさ。そんなの」
「はぁ……?」
それとこれとが一体どういう関係があるというのだろう。
美朱が思っていたことが張には手に取るようにわかった。
「とにかく、その噂ってのが、その立ち入り禁止になってるとこの話なんだ。
なんでもその昔、名もない書生が神助を得て書き上げた小説が、見るもの全てを虜にしてしまうって国中に評判がたったんだけど、
同時にとんでもない曰くつきの物でさ、よくはわからないけど、一品も持たない庶民が目にしたら目が潰れるとまで噂がたって、
その書生は原本もろとも焼かれたって話だ。まぁ、呪術師かなんかだとか言ってさ、西洋の魔女狩りと一緒さ。
ただ、その際に広まっていた複製本も全部取り締まって処理されたはずなんだけど、何故か……残ってたんだよね」
「複製の本が?」
「いや、これが厄介な事に原本……もとになった巻物そのものが、さ。一番初めに焼かれたはずの数巻の巻物が、何故かその何千年後かに出てきちゃって、
一巻は確かその昔の日本に渡ったって話だよ。残りはこの中国のどこか、だって話」
「……」
美朱は絶句した。
張はその反応が以外だったのか、やや不思議に思いつつも話を続けた。
「その中国に残ったほうの巻物のひとつが、どうやらこの西安図書館に保管されてるらしいって騒いでてさ、
そりゃもう、新築工事の時なんて事故多発の怪我人続出ってんで、嫌って程聞いたんだ。……その巻物が祟ってるんだって。
まぁ、あくまで噂だからあんまりあてには出来ないけどね」
「はぁ。そう……なんですか」
「うん。……どうしたの?なんか顔色が……」
「ううん!!なんでもないんです!気にしないで下さい。で?それとこれとが一体どんな関係があるんですか?」
張はしばらく心配そうに美朱の顔を覗きこむようにしていたが、思い出しようにその質問に答えた。
「そうそう!だから、その時の工事での事故が原因かは知らないけどさ、新しい図書館の中で唯一古いままの場所があるんだ。
その巻物が怖くてとうとう壊せなかったらしいっていうけど、そこにその巻物は昔と変わらずに保管されたままになってる。
それが、立ち入り禁止になっている……つまり、この携帯が落っこちてたあたりって……」
うそだ……。
そんなの、うそだぁ……!!
美朱は心の中でなんどか呪文のように復唱した。
信じられない……。この話って絶対あの本……!!
噂とはいえ、時代の流れがなんとなくあっている気がしないでもない。
無論、張は知らないのだろうけど、どうやら彼はそんな曰くつきの場所にもしも光がいるのだとしたら、
はやく見つけてやらないとといった程度の意識でこれを口にしたものと思われる。
どちらにせよ、携帯のあった場所からして、その禁止区域に光がいる確立は高いわけである。
そして、美朱は思いがけず、張よりも大きな不安を今の話で背負わされてしまうこととなったのである。
光……。お願い。
どうかその巻物っていうのを、見つけてませんように……!!
もう終わったと思っていた。
あちらとの物理的な繋がりなんてもともとないのだ。関わった人間の心の中でいつまでも生き続けてくれる彼ら。
光や心也、由香里そして康介。この四人の子供にはいずれ親の口から伝えられたのだろうけど、
どうしたことか小帆までもが光と一緒になって失踪しているのである。
なにか嫌な予感がするの……。
お願い。みんな光と小帆ちゃんを……守って。
美朱は手帳ごとポケットの中で皆の写真を握り締めた。
この時美朱の持っていた写真までもがどす黒く染まっていてしまったことを、彼女は知る由もなかった。
あるいはまだこの時に、それを知っていたのならもう少しはやく、日本にいる魏と交信が出来ていたかもしれないのだが、
美朱は向こうでそんなことが起こっているものとは露知らず、その禁止区域への侵入を決意したのだった。
突然はっと井宿の顔色が変わった。
「どうしたの?」
「しっ」
口の前に指を立てたのはその横の翼宿。
焚き火を囲う形で座っていた中で井宿だけが川を見る恰好となっていた。
その川のほうを見る表情がいつになく緊張しているのを見て取り、翼宿もそちらへ意識を向けた。
「対岸に誰かおる……な」
「あぁ」
視線はなおもその対岸から話さずに短い会話をする。
しかし、小帆にはなんのことなのかさっぱりわからない。
対岸は森林になっており、彼女にはその手前にも、まして木漏れ日の中にも人影など窺い知ることができなかった。
彼らは一体どういう目をしているんだ。とは、小帆の談である。
実際、井宿と翼宿が感じていたのは対岸から漂う妙な気配。
どうやらそれはひとつらしいが、その気迫たるや並ではない。
戦闘が始まる。彼らの歴戦の勘が、嫌でもそう告げていた。
「どうするん……?」
「相当強い気なのだ。それに、この波動……」
「闇の奴らにまず間違いないで……」
「えぇ!?」
半ば武器を構え、中腰になって会話していた彼らの間に挟まれる形でそれを聞いていた小帆の悲痛な声が上がる。
うそっ!?もう?と、心の中で叫びたくなる気持ちもわからないでもない。
彼女はついさっき自分が巻物の中にいることを知ったばかりで、自分がなんなのかさえまだはっきりしていないのである。
とりあえず、太一君とやらの意見を仰ぎに行こうとした矢先の出来事であるから、戦闘といったって心の準備がまだ出来ていない。
そこをいくと彼らなど慣れたもので、焚き火の火をどちらともなく消したかと思うと、毎度のポジションなのだろう。
井宿が翼宿の後ろに回り小帆の前に保護する形で立った。
前線の翼宿がキンッと、どうやら先程から手にしてるハリセンらしきものを、強く握った。
その瞬間、
「烈火っ……神焔!!!」
すさまじい轟音とともに、その切っ先からほとばしり出たのはこれまた見たこともないような、大火炎!!
それは風を味方につけて一気に渦を作り、川の上を駆け抜けた。森林に炎が達した途端、ギュオオンとモーターのような効果音がし、
火炎が広く分散した。
「へへん!あぶりだしたるわ!!そこにおるんはわかってんねんで〜、とっと出てこいや!!」
「ほほう。少しはやるようだ」
「なっ……!?」
思っていたより、声がえらく近くから聞こえたものだから一瞬翼宿相手を探して躊躇した。
「翼宿!!上なのだ!」
まさにその時、なにかを構えた人影が翼宿の頭上から切りかかろうとしていた。
「くっ!!」
途端、耳に痛い金属音が響く。翼宿がその剣戟を受け止めるものと信じていた井宿などは、小帆を抱きかかえ既に若干遠のいた場所でそれを見た。
「人間(ひと)……!?」
「いや、あれは人の形をしてはいるが、もう完全に闇に支配されてるのだ」
中国風の戦闘服を着た青年。年のころも身長でいっても今の翼宿と井宿の丁度間といったところだ。
翼宿の鉄扇と、あちらは細身の剣で鍔迫り合いを試みているが、その均衡はわずかにその男のほうに傾いていた。
「っと……!」
引き際を危ぶまず、まして隙のひとつさえ作らずにその力の切っ先から退いた動きは見事としかいいようがない。
「ちっ……!!」
今の調子だったらいける!と思っていた翼宿などは、最大のチャンスを取り逃がした自らの失敗に悪態をついた。
刀を再び構えようとして、相手はその刃の状態に気がついた。
「……それは、まるで金剛石なみだな。刃がこぼれてしまった」
場違いにも楽しそうに笑んだかと思うと、ひょいっとその刀をその辺の野原に放り投げた。
「なっ……!?なんのつもりや、お前!」
「あぁ、失敬。まだ名乗ってなかったな。私は風の功翔。お方様の四天王がひとり風殺鬼ともいうがな」
「功翔だかなんだかしらんけどな、人をなめんのも大概にせえよ!貴様、武器なしでどうやって戦うつもりや」
「やれやれ、血気盛んなお子様はこれだから……」
「なんやと!?この!井宿ぃ!お前もコイツになんか言うたれ!!」
「……ん〜。残念ながら、今の意見にはちょっと賛成なのだ」
「なぁっ!?……後で覚えとけよ、井宿!」
「だ〜。冗談なのだ」
「時と場所を考えろや!!」
「翼宿にだけは言われたくないのだ……」
「なんか言うたか!?」
冗談もここまでだろう。だが、敵であるはずの功翔は相変わらずの余裕で、のんきにも今の会話でくっくっと笑っていた。
「なかなか楽しませてくれる……だが、先程のでわかったが、戦闘のほうはまるでお遊戯だな。翼宿とやら」
「な……んやとぉ!?」
翼宿が頭に血を昇らせて顔色を変えたのとほぼ同時、井宿の顔色も変わった。
「なんで翼宿の名前を……」
功翔は離れているにも関わらず、そのかすかな呟きを聞き取った。
「井宿……とかいったな。なに、知れたことだ。お方様はなんでも存じておられる。無論、そこの子供の事もな……」
小帆を見たその視線は今までになく、極めて冷たいものだった。
「はっ……!あかん!!にげぇ!井宿、小帆つれて早う。ここは俺が……」
「無駄だ。結界からは逃れられん。既にお前たちは私の手の内だ」
「結界!?」
「そいつの言う通りなのだ。それに瞬間移動ならさっきから何度もやってるのだ」
しかし、ここら辺一体が広範囲におよび既に結界の中のため、術は封じられていて、発動しない。
逃げることは、まずこの目に見えない結界を解かない限り不可能ということだ。
「だが、安心しろ。弱いとはいえ、少しは戦ってもらわないと張り合いがないからな。他の術は使えるようにしてやったぞ」
「くそぉっ……!なめおってからに」
つまり功翔は、術が使える彼らにでさえ自分は余裕で勝てると、そう言いたいらしい。
これ以上嫌味な性格もない。
「んなら、ご希望通り、燃えカスにしたるわ!!覚悟せい!!」
翼宿が鉄扇を構える。先程の火炎を見てないわけでもないだろうに、
功翔はそれに全く動じるどころか、武器は捨てたまま拾って構え直そうともしない。
手ぶらで迎え撃とうというのか。それとも、何か策があるとでもいうのか。
「小帆ちゃん」
「……え?あ、はい」
「オイラから離れないほうがいいのだ。あの余裕……なんか嫌な予感がするのだ」
「……」
いつになく緊張した表情は、先程川原で奴の気配を感じ取ったときと同じ。
その時感じた得体の知れないものの正体が数秒後、明らかになるのである。
鍵となったのは功翔が自分で名乗った風という言葉。
そう。翼宿が炎を扱うならば、功翔は風を操り、大火炎は彼に到達する前に、
その前に突如として現われた大きなつむじ風に見事はじき返され、敗れてしまったのだった。
「な!?……ん??」
風は水のように大きな火を消化するわけではないから、当然跳ね返された炎はもときたほうへ。
「どわああぁぁぁ……!!?」
哀れ、翼宿は己の出した炎が大きすぎたがために、その分そのまましっぺ返しをくらってしまったわけである。
幸いそこは彼得意の俊足と身の軽さで、かすめはしたがなんとか避けた。
「……な、なんや今の?」
「私は風の……とはじめに言いませんでしたっけ?翼宿くん」
風……!!今のが風やっちゅうんかい。
「翼宿!!後ろなのだ!」
井宿の突然の言葉を、混乱していた頭とは裏腹に、素直に動いた身体が受け取った。
途端、彼の倒れ込んだその真横を後ろから一陣の旋風が駆け抜ける。
それは、当然のように微動だにしなかった功翔の目の前で消えたが、問題はそこではない。
翼宿のいたところから彼の目前にかけて広がっていた草むらが、無残にも切り裂かれ、その亀裂は地面を割っていた。
「じょ、冗談やないで……」
「風はときに大岩をも砕く強風となって吹き付ける。君はかまいたちというのを知ってるかな?」
また来る!!
そう思ったときには身体のいたる部分に小さな亀裂が走っていた。
「……くぅっ!!んなもん、俺の炎の風圧で逆に吹き飛ばしたるわ!!」
「そこが甘いというのだよ!!翼宿!」
功翔がいつの間にか翼宿のすぐ横に来ていたではないか。
「なに!?」
翼宿が攻撃するより一瞬早く、功翔が低く構えていた両手を突き出した。
その手には鋭い風が渦を巻いていたのである。至近距離で放たれた風を避けれるわけもなく、
翼宿はそのまま井宿たちのいるほうへと吹き飛ばされた。
『翼宿!!?』
「ち、ちょっと油断しただけや。こんくらい……」
目の前に飛んできた翼宿に駆け寄る二人にそう言うと彼は、心配かけさせまいとあっさり起き上がろうとした。
しかし、翼宿は何かに驚いたような表情になる。
実際、受けた衝撃自体は大して大きくなかった。それなのに、起き上がろうとしても何故か身体が動かないのだ。
「翼宿?」
「……功翔、翼宿に何をしたのだ!?」
それに気がついた井宿が、やや遠くの距離を保ったままで川原にたたずむ功翔に言った。
「なに、一概に風といっても様々な種類があっただけのこと。今、彼には風圧を利用した金縛りをかけさせてもらったよ。
あまりにちょこまかとうるさかったものでね」
「へん。なにが金縛りや。俺はこの通りまだ口は自由やで」
「そうなんだ。生憎と、そのうるさい口を塞ぐ術はないものでね。全く残念でならないよ。だが……!」
功翔は言い終わるや否や、右手をパチンとならした。
「!?」
その瞬間離れていたにもかかわらず、小帆の身体が崩れ落ちる。
「小帆!?」
とっさに井宿が支えたが、その身体はなおも力なくうなだれた。
「井宿……、翼宿?わ、私なんだか……」
かろうじて意識はあるようだが、そのまぶたが今にも閉じそうだ。
「貴様!小帆に何を……!?」
「やれやれ。君は本当にうるさいね。心配しなさんな。少しの間眠ってもらうだけだ。
私といえど、泣き叫ぶ子を連れ去ったんじゃ、後味も悪いというものだよ」
「ぬかせ!!井宿はお前なんぞに負けへんぞ!」
「ほう……?そちらの法師は私を楽しませてくれるとでもいうのかな」
まだ意識のある小帆をそっと地面に座らせて、井宿が錫杖を構えた。
功翔は相変わらず人を見下した態度で、ふんっと鼻を鳴らした。
「よかろう。そこに固まってくれて好都合だった。持ち帰って子供を殺すてまも省けるというものだ。
一緒にあの世に送ってあげよう。もっとも、君たちにとってはつい最近までいたところだろうがね」
功翔はとうとう、本気の顔を垣間見せた。
先程と同じく低く構える姿勢で、印を組んだ。翼宿の顔が引きつる。
「あかん。あいつマジやで……」
しかし、井宿のほうを目だけで見た翼宿はまた、同じようにして今度は驚いた表情になった。
お面こそとっていないが、もし今何か言ってもきっと彼の耳には届かないだろう。それ程、彼は術に集中していた。
井宿もマジやでこりゃ……。って、ちょっと待てや。俺の位置ってむっちゃやばくないか!?
ほとんど井宿たちのほうによっているとはいえ、自分のいるのは今印を組んでる奴らの間。
ちょう待ってぇ!!このままやったら絶対俺巻き込まれるやんか!
「ち、ちちりぃ!!」
既に二人の間には大小さまざまな風が混在し、風同士がこすりあう音まで耳に痛く聞こえてくる。
もうすぐここを、目も開けてられないような閃光とともに大きな風圧が通過し、
両者とも狙いを外していなければ激しくぶつかり合うこととなる。
「聞こえんのか!?おい!」
と、その時、
「翼宿!」
小帆の声だった。
「なんやお前、眠っとったんやないんかい!?」
「うん。でも、井宿がすぐ術を解いてくれてたの。翼宿が危ないから、自分の後ろになんとか連れてくるようにって」
「なんや、そやったんかい。でも、お前どないする気や。俺今、自分じゃ動けんで」
「……が、がんばってみる!」
「さよか」
傍目に見たらなんとも情けない恰好で引っ張られた翼宿だが、背に腹はかえられない。
今日のところは確かに自分の油断が招いた結果であるから、文句は言えないが、身体が動くようになったら覚えとれ!と、
翼宿は心の中で毒ついた。
今までいた場所から近い場所で、一番安全な井宿の後ろ側に、二人が飛び込んだまさにその瞬間だった。
「派ぁ っ!!!」
「勘 っ!!!」
爆音にも似た大音響とともに、両者の身体から一気に溜め込んだ気が放出された。
「のをっ!?」
「きゃっ!?」
その風圧たるや、井宿の後ろにいるというのにすさまじいものである。
目も開けていられない程の強風が辺り一帯を取り巻いた。木々は無造作に激しく揺れ、草はちぎれとんだ。
風に巻き込まれた草や小石があたらないよう、小帆は顔に手をかざして井宿の後姿を細目で見た。
「……すごい」
「でも押されとる……」
揚げ足をとったのは言うまでもなく翼宿である。だが、確かに彼らから見て、衝撃派のぶつかり合った位置がややこちら側なのが、
その激しい風圧と閃光の大きさでわかった。
だが、一方功翔のほうも油断がならない状態であるのは変わりない。
……くっ。まさか、これほどとは……!!
井宿をやや過小評価、あるいは自分を過大評価でもしていたのだろうか。
思っていたのとは全く違った結果に、わずかではあるが焦りを見せていた。
一瞬でも気を抜いたら、やられる……!!
だが、彼のそういった意識が皮肉にもその一瞬を作ってしまった。
「!?」
均衡は一気に逆転され、形勢までひっくり返された。
「くっ……!!」
いける!!
そう思ったのは翼宿だけではなかった。
「よっしゃあ!!いけるで!」
「うん!!すごい、すごい!!」
だが、功翔も伊達に風を名乗っていたわけでもない。まして、風といえば彼はもともと自由に操れるのである。
井宿から放たれた閃光が、自分に直撃する寸前、まるでまわりのあらぶる風が瞬間的に全て彼の味方をした。
小帆は一瞬、飛行機のエンジンを思いだした。
それほどまでに今の風同士の摩擦音は凄まじかったのだ。
「……はずしたのだ」
井宿の放った攻撃は、功翔のそれを競り負かせて大きく弾き飛ばし、
しかし、それは残念ながら命中する寸前に風によって空高く逸らされてしまった。
「くそっ……!あともう少しやったのに」
「井宿、大丈夫?」
「はぁ……はぁ……」
井宿が息切らすなんて……!翼宿は珍しいものでもみるような目で、その場に片膝をついた井宿を見た。
だが、息を切らせていたのはあちらも同じで、しかし、その身体はまだ立っていた。
そのことが、今の彼らの戦況そのものを物語っている。
「はぁ……。今のでなけなしの力を全部使い果たしたらしいな」
「はぁ、はぁ……。オイラの全盛期の頃に戻ったとはいえ、身体にまだ力が戻ってないのだ。
前なら、きっと。もっと、凄かった思うのだ。……悔しいのだ」
「ふっ……。あながち負け惜しみでもなさそうだな。さしずめ、私はラッキーだった、と、そういうことか」
あちらに余力はまだ残っている。でなければ、このセリフも出てこないだろう。
風で井宿の攻撃を逸らせた術も、はじめの真っ向勝負でそもそも渾身の力を出し切っていたのなら、あんなに早い切り返しはできなかったに違いない。
なるほど、とことん人をくった奴ということだ。
「お、おい。井宿、いけるか?」
「まだこの身体に慣れてないって、翼宿の言ったこと、今よくわかったのだ」
「んなこと言うけどお前、今のやってめっちゃ凄かったで」
「昔だったら、本気を出したらきっとあんなものじゃなかったのだ」
「……お前ってやっぱし強かったんやな」
「たとえそうでも今そうじゃなければ、意味ないのだ」
井宿は後ろで横たわっていた翼宿のほうへ、顔だけ向けると、自嘲気味に笑んだ。
「お前、お面いつの間にはずれたん?」
その横で井宿のはじめてみる顔に、小帆は一瞬言葉を失っていた。
井宿は片手で印を組むと、何事か呟いた。
「?」
するとどうだろう。今まで自分の意思ではビクともしなかった翼宿の手が、ピクリと動いたではないか。
「今、翼宿にかけられた術を解いたのだ」
「んな!?お前、そんな余力残しとったんか。そんなん残すくらいやったら、全力で勝負しとったらええもんを!!
そしたら、少しくらいは可能性上がるやろが」
「今ので最後なのだ。少しだけ残しておいただけで、もう全部使い果たしたのだ。だから、翼宿逃げるのだ」
「なんやて……?」
「だから、小帆を連れてなんとか逃げるのだ。翼宿の俊足ならきっとなんとかなると思うのだ」
「ちょう待ってや。お前はどうすんねん?走れるんか」
「無理なのだ。走るどころか、歩く気力さえないのだ」
「なにさらっと、とんでもないことぬかしてんじゃ!?おのれは」
「まぁ、そうだろうな。所詮、お前たちでは私には敵わないのさ」
「お前は黙っとき!!」
興奮していたのだろう。功翔がまるで部外者だ。
「やれやれ……」
それに対して四の五の言わずに両手のひらを空に向けた彼も、実は乗りやすい性格ともいえよう。
「マジであかんのか……!?」
「オイラひとりならどうにかなるのだ。でも、オイラにはもう小帆を守るだけの力がないのだ。
翼宿。翼宿にしか頼めないことなのだ。小帆を連れて早く……」
「ふざけんな!!」
「翼宿……頼むのだ」
「お……前は、いつやってこれやから……。ったく。しまいにゃ、ダチなくすで!!ほんまに」
これが彼なりの餞別なのだろう。憎まれ口をたたいていてもその裏に秘められた言葉が井宿には伝わっていた。
「これで、追いついて来ーへんかったら、一生絶交やからな」
今の彼らに一生も何もあったものではないだろうが、絶交というのがなんとも翼宿らしい言い方である。
「え!?だ、ダメだよ!!井宿おいて……」
「ええから黙っとかんと舌噛むで!!」
小帆を軽々持ち上げ、その場を後にする。井宿のほうを振り返ることはしなかった。
しかし、なによりそれが翼宿が仲間を信じていることを表していた。
彼の俊足はたいしたもので、すぐさまその姿は小さくなり、西の栄陽のほうへ向けて走っていってしまう。
「……なぜ、追わないのだ?」
実際追われても困るのだが、井宿は素直に疑問をぶつけた。
「なに、あんな奴に私の結界は破れんさ」
その時である。
「烈火っ神焔!!!」
小帆を片手にしているにもかかわらず、彼の出した炎が見えない壁を穿った。
壊れる一瞬だけその姿を見せる壁は、まるで見た目もガラス細工のようにもろく崩れ去ったのだった。
「なに……!?」
「お前の最大の誤算は、翼宿の力を見誤ったことなのだ」
「ちっ……」
きっと、力を消耗した今の功翔なら倒せるだけの力を、翼宿はまだ十分に残していたのだろう。
しかし、それを敢えて井宿は逃げろといった。今ここで、二人とも力を使いきるのはまずい。
たとえこの功翔を倒せたところで、使った力を回復する前にその隙を狙ってくる知能犯がいないとも限らないのだ。
おそらく、この後太一君のところへ行くのはわかっていた。
後は、ここから自分だけうまく逃げ出して合流すればいいだけの話である。
だが、そううまくはいかないだろうなというのも、実は彼の計算の内であったのだが。
「ふっ。まぁいい。巫女は手に入れそこなったが、実にいいものを残して行ってくれたな」
井宿を見る目は今までになく冷たいものであった。
なおも膝をついたまま、錫杖に体重をかける井宿の顔が、近付いてきた功翔を見上げてはっと警戒する。
「安心しろ。殺しはしない。ただ、敵とはいえその力は賞賛に値する」
「それはどうも、なのだ」
そっけない返事を返すだけの余裕はまだあった。
「ふ〜ん。よし、決めたぞ!今日からお前は私の部下だ」
「なっ!?」
彼がなにか言う前に、功翔はドンッとみぞおちに一打。その際に耳元で何事か呟いたのを、井宿は聞いてしまっていた。
「……ぐぅ。今のは……まさか!?」
「洗脳の呪文……とでも言おうか。お察しの通りだ。これから、その力は我が組織のために使うのだ。目覚めた後が楽しみだな……」
続いて気味の悪い笑いを浮かべる。
「君の友達が、君に襲われてなんて言うか。これは見ものだと思わないか!?ははは……!!」
その嫌な笑いの中で、井宿の意識は残念ながら少しずつ、しかし、確実に遠のいていったのだった。
とうとうその身体が倒れこむ際、薄れゆく意識の中で井宿の口元が、実はわずかに動いていたのだということを自己陶酔するあまり見逃していたのも、
この功翔という男の大きな誤算だったろう。
だが、井宿は実際力を残していたわけではない。
これは賭けだ。
起きた時自分がどうなっているか。今の解呪の呪文が成功していれば、いいのだが。
しかし今、身体の中に嫌なものが確実にうごめいているのもわかった。これが、闇……の正体!?
彼の思考はここまでだった。馬鹿笑いする男の隣で井宿の身体が力を失った。
(update;04.04.04)