小帆が……いない。
名前を呼んでみても、さっきまで答えてくれていた女の子の陰はもはやどこにも見当たらなかった。
「小帆!!」
戸の上の小窓を勢いよく開けて部屋の中に浸入する。
着地した瞬間、おそらく何十年分と推測される埃や塵が舞い上がり、一瞬にして光を取り巻いた。
ひとしきりむせた後、涙の出る両目をこすってそこで初めて部屋の状況を目の当たりにした。
古い本……というより、巻物の山だった。
それらが、先程自分の入って来た戸の上の小窓から注ぐ光にむせ返るほどの埃とともに照らし出されていた。
おびただしい量の巻物が山積みになって部屋の中央に浮かんでいたわけである。
書棚は小さな物から大きな物まで、そのどれもが例外なく足が折れたり、棚が外れたりなどして壊れており、
部屋のいたるところに乱暴に放られていた。
もとがなんなのかわからなくなるほど、木の朽ちてしまった物まであるというから凄い。
当然今彼が来たところ以外に外界と通じているところはない。
なんなんだよ、ここ。
目も口もろくに開けられないほどの埃である。ちょっとやそっとじゃ、ここまで積もらないだろう。
後にわかることであるが、ここは図書館が新築する前からずっとあった部屋で、別名を呪われた部屋といって近付く者はいない。
本来なら本館ごとここも数年前に新しくなるはずだったのだが、何故か工事中ここの部屋を中の書物ごと解体するとなると、
事故が頻繁に起こるようになり、重軽多様な怪我をした彼らはことごとくその日のうちに熱を出し、
例外なくうわ言のようにあそこに近付くなと言ったのだという。
以来、鍵も数十年前に紛失していたため、さらに無理矢理力を加えこじ開けようとしても工事の時と同様のことが起こるために、
ついにここだけもとのまま残される形となったわけである。
新しい新館と明らかに不釣り合いな部屋は、無理矢理新築のそれと離れという扱いで未だに存在していたのだ。
言い換えればここだけ、昔のままの図書館なのである。
光は春だというのに悪寒を感じた。
「こ、小帆?いるんでしょ!?ねぇ!」
そしてまたむっと咳き込む。
ひどいところだな……。
そう思いつつ、小帆のため勇気を出してさらに奥へ入りこむ。
と、その途中山のふもとに位置するあたりで、ひとつの巻物をなんと勢い良く蹴ってしまった。
「あ!!」
不注意とはいえ、しくじったものである。
なにせそれが乱雑に積まれた無数の巻物の、丁度要と言うべき役割を果たしていたのだから。
「うっ!わああぁぁぁぁっっ!!?」
幸い天井が低かったため、見た目で思っていたより積みあがっていた巻物の数は少なかった。
しかし、小規模とはいえまるでこうなると雪崩である。
全て崩れ落ちると、光の姿は完全にそれらの下に埋もれてしまっていた。
唯一天井に向かってとっさに伸ばした右手が、その山の頂から生えているのがなんとも無残である。
それ以前に舞い上がった埃が、セピア色の部屋をすっかり外の光に反射して白く染め上げてしまっていた。
少なくとも数瞬の間は意識がなかったであろう、光は気付くなり激しくむせてその勢いで自分の上の巻物を散らした。
それがさらに埃を巻き上げ、悪循環。
うぅっ……最悪。むせすぎて吐きそうだよ、もう。
しかし、そんな中やはり小帆がこの部屋にいないのはわかった。
これだけの粉塵である。部屋の隅々まで行き渡っているだろう。ならば、彼女も同じようにむせたっていいはずだ。
なのに、その気配はない。
でも、なんで!?
この部屋に他に出口なんて見当たらないし……。
光は奥に目をやるがやはり、あるのは散乱した巻物と埃を吸い込んだ壁のみ。
しかしその中に何故か気になる巻物がひとつ、ぽつねんとその場に置かれていた。
折りしもそこは小窓からの光が一番集中する場所。
まるでスポットライトのように、背表紙の黄色い巻物を演出していた。
それに、これまた妙なのは、その巻物だけ埃を被っていないことだ。
「……」
光は不思議とその黄色い巻物に目がいった。
しかも、その巻物だけが封が解かれ、中身が開放されていた。
漢文……だよな。中国だし。
しかし、
「え。……え、えぇ!?」
読める……。
え?なんで??
これって、どうみたって中国語……だよな。
しかし、遠巻きに見るとさっぱりなのに近くでいざ読むとなるとすらすら文字が追える。
気持ち悪くなるくらい不思議なそれは感覚だった。
なんとなく目が行き読んだ場所はこんな文章だった。
……かくして伝説の少女は異世界への扉を開け放った。いざ物語は始まらん。
どうやらこれは物語の巻物らしかった。
しかし、彼が思っているほどそれは単純な小説などではなかったのである。
すぐに気付いたのは、初めの部分。
そこには信じられないことが書かれていた。
「……なんだよこれ」
光はそれっきり言葉を失った。
物語の始め、それは日本の少年が中国にいる少女に出会うところから始まっていた。
それだけならよかったのだが……。
これは偶然でもなければ、必然とも言いがたい。
何故なら、この巻物はもともとこの世界の物ではなかったからだ。
本来ならもう二度と、かかわりはなくなるはすだった世界……。
その巻物の題名は「四神天地の書、黄龍聖伝」
「いったたた……」
小帆は何故か砂の上でうずくまっていた。
「え……」
ここは……どこ?
「……えっとぉ?」
とりあえず人間の心理で頬をつねってみる。……痛かった。
「え!え!?えぇ!!?」
ちょ、ちょっと待ってよ。こ、ここは図書館の中……のはずよね?
でも、図書館に砂浜があるわけないし。ととと、とにかくここは屋外には違いないようだけど。
混乱する頭に必死に交渉を試みる。
とりあえず整理してみよう。
自分は光から逃げて、たぶん古い文献の倉庫に隠れた。
んでもって、……泣き崩れそうになっちゃって、思わず奥に走った。
問題はその後だ。
巻物の山があったからそれを避けて通ろうと思ったとき、確か……転んで。
気がついたらここだった。
「ああああ!!ダメだ!わかんないぃっ……!!」
苦悩っぷりは見事だったが。
しかし、彼女は考えているうちにあることを思い出した。
「そういえば……」
転んだ拍子に不意に視界に入ってきた巻物があった。
それだけ大きく開かれたままになってて……私はその上に転んだ。
「……」
しばしの沈黙の後、
「ああああもう!!それがなんだってのよ!?」
ダメだやっぱりわからん。
ともかく今ここにある真実のみをあげれば、ここは外であって、しかも乾いた砂の上。青空にはやはり白い雲。
はじめ小帆が思わずそう感じた砂浜は、実はそうではなく、ただの荒れた荒野だった。
ここまで周りが見えてくると、動物とは不思議なもので、すぐにその状況に応じて順応しようとする機能が働く。
どのへんなんだろう、ここ。
西安……じゃないことは確かよね。っていうか、ここが西安だったら泣くわよ私。
「はぁ〜」
本来はこういう性格の彼女である。
しかし、ひとり漫才をしてもらちが明かないことくらいは、こんな状況下で身にしみてわからないはずがない。
小帆はとりあえず、思った方向に足を進めてみる。
すると、荒野かと思っていたここは実は、たまたま禿げてしまっていた小高い丘の上だということがわかった。
丘の頂に立った瞬間、おそらく南に大きな町……いや、城市を見ることが出来た。
「……何アレ。あそこまで古風な城市も珍しいわね」
中国では昔から町全部を城のように囲う軍事的な習慣があって、無論今ではその遺跡を残すのみとなっているが、
やはり古人の教えを尊ぶ国柄の中国で、その城壁を修繕しながら今もなお維持している街も少なくない。
しかしあれはなんだというのだろう。まるでつい最近建てたかのようにしっかりとしていて、
城市内の家々の様子や屋根の造りも、まるで歴史の教科書だ。
断然、興味がある。
なんだかわからないけど、今自分がここにいて空気を吸って吐いて地べたに足をつけているのは事実なわけだから、
とりあえず夢ではないのだろう。頬も確かに痛かった……。
「……よし!」
とにかくここを降りよう。
そして、あそこに行ってみよう。
何かがわかるかもしれない。
ここまで生きてきた中で、自分から行動を起こさねばいかなる場所でも自らの身は守れないことをよく知っていた。
……生まれて初めて日本に行ったあのときもそうだった。自分ひとりで何もかもやった。
そうだ。全然変わらない感覚……なんか懐かしい。
城市は思ったほど遠くもなく、走っていても途中休憩なしにたどり着けた。
万物において規模の大きい中国である。城門もやはり並ではない。
小帆もこの手の城門をくぐったのは始めてのことだ。
にしても、……凄い。
「はぁ。まるで時代劇の中にいるみたい」
彼女にとってここはわりとなじめる雰囲気の場所であった。
しかし、それは場所自体に限ったことであって、人に関してはそうではなかった。
「なにあの子」
「おかしな恰好ね」
「子供がひとりで外から入ってきたよ」
「親御さんは一緒じゃないのかねぇ」
なんてことだ。外から見る限りじゃみんなそれぞれの会話に花咲かせていたというのに、
自分が市内に入った瞬間、一気にときめく話題の人となってしまった。
ヘンな服って……。
ジーパンにTシャツがそんなにおかしいかな。
……そりゃ、確かに換えの服が少ないからジーパンなんてボロボロだけどさ。
しかし、よくよく眺めてみると、ここの人は街ばかりでなく、服までもがタイムスリップしてしまっていることに気が付いた。
「映画……の撮影にしちゃ、流石にちょっと大規模よね〜」
それにしても古風である。昔がそのまま残っているという感じだ。
「……ね、ねぇ。ここどこなんですか?」
小帆は思い切って近くを通った、気の良さそうなおばさんに尋ねてみた。
「えぇ?知らないのかいお嬢ちゃん」
「う、うん。なんて名前の城市なの?」
「ここはこの紅南国の都、栄陽だよ。ここ知らないなんて、あんた一体どこの田舎から来たんだい」
「紅南……?栄陽っていうのね、ここ」
「そうさ。にしてもひどい恰好だよあんた」
「……ほっといてください」
「ここらへんは旅の商人の溜まり場になってるんだ。お母さんか誰か一緒に来てるだろう。
もうちっとマシな服買ってもらいな。なんなら、安くていい服屋教えるよ?」
「え?あ、いいです。ありがとうございました」
「そうかい?ならいいんだけどね。最近ここいらは荒れてるから、若い連中には気をつけなって、親御さんに教えときな」
「はい。伝えときます」
いかにも世話好きそうな小太りのおばさんはそのまま街中へ消えていった。
おそらくあの人はここの住人だ。なんとなく都の雰囲気がするのである。
それを見てみると、なるほど確かにここは旅人の溜まり場らしい。
馬、馬車、荷車、それにいかにも旅の者といった感じの人間たち。
今ので、ここがどうやら栄陽って名前の街らしいってことはわかったけど。
「紅南国……」
どう考えてもこれは国名だろう。
ここは中国のはずではなかったか……?
歴代の国名にしたって、こんな名前の時期の中国なんてなかったはずだ。
そういえば、自分の小学校の名がまさにそれであるが、別段関係はないだろう。考えるだけ無駄骨だ。
「ねぇ、そこのお嬢ちゃん珍しい生地の服着てるね」
でもここは確かに中国の昔って感じなんだけど……。
「ねぇ?」
でもなんだって西安の図書館にいて、まるで見たことも聞いたこともない別の国に来ちゃうわけ?
……ああ。なんか頭の中こんがらがってきた!
「ねぇってば!」
「うるさいな!!私今考え事して……」
よほど驚いたのだろう。先程から小帆に話しかけていた若者は、情けないことにその声に押され、ひっくり返ってしまっていた。
「あ。ごめんなさい。……なんでしたっけ?」
「え、あ。いや、まだ何も言ってないんだけどさ。君、ひとりなの?」
「……」
「ああ。もしかして警戒してるかい?」
「そりゃもちろん」
「……いや、別に怪しい奴じゃないよ。たださ、見たところ親御さんいないようだし、どっちにしたって旅の子だろ?
役所行けばいいんじゃないかと思ってさ。いろいろ援助してくれるはずだぜ」
小帆の顔が輝いた。
「役所……!そうか、そこにいけばここがどこかよくわかるかな」
「あ?あぁ、そりゃな」
「あ、でも役所ってどこかわかんない」
「だからさ、俺が案内してあげるよ」
「……」
「……だからそう露骨に警戒されると、俺としても……」
しかし、小帆も考えていた。確かに、自分ひとりじゃ不安だ。
なにより広い城市の中で迷ったらえらいことになる。それこそ、日本の都会で迷うのとはわけが違うのである。
下手すれば、東京と大阪を足しても敵わない大きさの街だって中国には有り得ない規模ではない。
それに、自慢ではないが自分は方向感覚が決して良いほうではない。
「……わかったわ。その役所というところに案内してくれるのね」
「あぁ、安心しなよ。俺だってこんな子供襲うほどおちぶれちゃいねぇよ」
「どういう意味、それ」
「お子様にはわからなくていいの。ほれ、そうと決まったらさっさと行く行く」
「あ、ちょっと……」
しかし、どこの世界にもこういうやからはいるもので、それはどうあっても変わらない全世界の嫌な共通部分だ。
歩いているうちに、どんどんと人気のない場所へ連れて行かれるのがわかった。
しかし、やはりあんな掛け合いのあったばかりである。小帆にはどうもこの男が悪い奴には見えなかった。
それもあって切り出すのが我ながら遅れてしまった。
「……騙したのね」
時既に遅し。ここはもう、男を初めとする若い連中の溜まり場のようだった。
狭い路地裏だが、まぁ、中国でいうそれはまた日本と違って、狭いといっても車一台は余裕で通れる幅の道だ。
その袋小路に二人が差し掛かった時、背後に逃げ道を塞ぐための男が二人、塀の上にはやはりもう二人の若い男。
「悪いな。お嬢ちゃんには用はないんだけど、その服珍しいから高く売れそうな気がするんだよ」
「ボロボロのジーパンが?」
「じーぱんっていうのか、覚えておこう」
言ったのは、一緒に来ていた男ではなかった。
どうやらこの男はただの使いパシリのようだった。
話しかけられた時の調子はどこへやら。急にしおれた顔になると、小帆からくっと視線をそらし、他の男たちの背後に回った。
やはりこの男、性根まで腐っているわけでも無さそうだ。どうせ、他の男たちに唆されたと、そんなところだろう。
問題は彼以外の男たちだ。
人を人とも見ない。そんな視線。
小帆はこの手の視線に免疫があった。
「服だけ欲しいならさ、替えの服頂戴よ。でないと、困るでしょ」
「何言ってやがる小娘。……お前、俺たちが怖くねぇのか」
「そりゃ、怖いわよ。でもさ、慣れてるのよ。よくアルバイトしてるとヘンな人に絡まれるの。
みんな金目の物がないとわかると、叩いてつまらなそうに去ってくわ」
「ほう。確かに薄汚い娘だよな。でもな、妓楼にでも売ればそれなりの金にはなるだろうよ」
「なっ……!?」
それに驚いたのは、小帆ではなく男どもの背後にいた例の下っ端の青年だ。
「約束が違うじゃないか!この子自身には手を出さないって っ」
「うるさい!!」
控えていた他の男が、どうやら先程から話を進めているリーダーらしきの男の視線を汲んで、青年を突き飛ばした。
さらに派手な音を立てて尻餅をついた青年のみぞおちに、
「うっ……!?」
その男の足が乗った。
「てめぇは、ほんっと甘いやつだぜ!」
「ちょ、ちょっとやめなさいよ!」
「お嬢ちゃんも、コイツの心配してる場合じゃないんじゃないの?」
「そうそう。少しは怖がってくれないと、張り合いないってもんだぜ。久々の金づるだってのに」
「あんたたち!最低よ!!」
「おうおう、気のお強いこって」
「いやっ!!触らないで」
しかし、唯一の脱出口も二人の男に塞がれてる。
脇をすり抜けれるだけの自信はなかった。ただでさえ、立て続けに大きな出来事が重なっているのだ。
この時まだ彼女は気付いてはいなかったが、精神的疲労も相当のもので、体力的にもいつ倒れていても不思議ではないほどだった。
実際この数分後に、彼女は気を失ってしまうのである。
「おっと、逃がさないぜ。観念しな」
どうする……!?
自分で自分に問うた。
背後からは、袋小路の行き止まりの塀から現われた、リーダー格の男の手が伸びる。
否。迷うことなく男は小帆の細い右腕をぐいっと掴みあげた。
いやだ!!
そう叫ぼうとしたのに、それよりわずかに早かった言葉に一瞬出遅れてしまった。
「やれやれ……。子供相手に大人がよってたかって、けしからんのだ」
不覚にも涙で充満していた目が、突然目の前に現われた影を見た。
視界が歪んでしまっていて、世界がまるではっきりしない。
だが、今まで聞いた声のどれでも、ましてやあらぶった男どもの声と今のそれとは、確かに異なっていた。
この場に不似合いなほどに澄み切った声、なにより落ち着いていて、それが一瞬荒くれどもの動きを鈍らせた。
その隙に、突然現われた落ち着き払った青年は、小帆の腕から男のごつい手を叩き落し、
その小さな身体をまるで保護するようにやさしく引き寄せた。
囲まれた小帆の目前に現われた青年は、そのまま彼らに包囲される形となった。
「な……、なんだ、てめぇは」
「名乗るほどの者ではないのだ。ただの流浪の旅人なのだ」
小帆は混乱する頭で、高質な声のする上のほうを仰ぎ見た。
直射日光を遮っていたのは大きな笠。そのせいで逆光になり、小帆の位置から青年の顔を確認できなかった。
肩からは袈裟懸けに文字通り袈裟を纏い、よく見ると自分を抱えてくれている左手には、細身の錫杖。
お坊さん……?
「旅の坊主がしゃしゃりでてくる場面じゃねぇんだよ。おとなしく子供をよこしな」
「そうはいかないのだ。白昼堂々、大の男がこんな小さな子に数人がかりで襲い掛かるなんて、恥ずかしくないのだ?」
「けっ!僧侶様の説教かよ」
「何様のつもりだ」
何様もなにも……。僧侶は、呆れたような顔で頭をかいた。
「丁度いい。飛んで火にいる夏の虫だ。弱そうなくせにしゃしゃり出てきたこと後悔させてやれ!」
「やれやれ……君たちのような人間がいるから、この子が巻き込まれる結果となってしまったのだというのに」
「なにわけのわかんねぇこと言ってやがる!」
「やっちまえ!!」
しかし、僧侶に慌てる様子はなく、そのまま頭に持ってきていた右手で笠を取り、放り上げた。
一瞬警戒して男どもがひるんだ、その次の瞬間期待を裏切らずそのまま落下してきた笠は、持ち主の真上へ。
そして、
「……き、消えた……!?」
突然現われた救い主と共に、まるで笠の中に吸い込まれるようにして、少女はそこからこつぜんと姿を消したのだった。
「ふう。ここまで遠くにくれば大丈夫なのだ……」
僧侶が次に姿を現したのは、栄陽の正門付近。ほんの数分前に小帆が街の様子に面食らい、立ち尽くしていたところだ。
「怪我はないのだ?」
しかし、僧侶ははっと力なく崩れ落ちそうになった小帆の身体を支えた。
……気絶してるのだ。
そう。彼女は自分を庇い立てしたのが旅の僧侶だと知った途端、気を失ってしまっていた。
今までの度重なる緊張の副作用でもあるが、初めて安心できる人間に会えたことで、一気に緊張の糸が切れたのだろう。
僧侶はふっと笑むと、日差し避けに自分の笠を被せてやり、そのまま少女を背負った。
小帆は無論知る由もなかったが、この時僧侶の擦り切れたズボンの膝の部分からは、“井”という朱色の文字が覗いていた。
かつてこの世界には28人の、文字を持つ戦士たちがいた。
彼らは国のため、巫女のためにそれぞれの天命を賭して戦い、大志を貫いた。
しかし、その伝説も全てが終わりを告げ、最後の戦士たちも余生を穏やかに送り既に天命を終えているはずであった。
だが、ここにいるのは紛れもない、文字を持った青年。さらに、かつての全盛期の姿のまま今現在ここに存在してるのだ。
特徴のあるお面は相変わらずである。
青年は少女を背負うと、迷うことなく栄陽の門をくぐって行った。
その足どりは心なしか軽い。
城市の外に誰かが待っているとでもいうのだろうか……。
(update;04.03.30)