翌日、小帆は朝から市立の図書館にいた。
彼女にとって今や、学校に行く時間さえも勿体無い。
それくらいなら今は自分の時間が少しでも欲しい。
どうせ学校に行ったって、仲間はずれにされるに決まっている。
もう私の居場所はあそこにない。
廊下ですれ違うたび、わざとらしく陰口が聞えてくるのだ。
耐えられないよ……。
その上、光まで私を……私のことを考えてくれない。
あの距離のままで友達でいたかったのに。
「それとも、光なら守ってくれるのかな……」
母親もさっぱり私を相手にしてくれない。
光よりはるかに近いところにいるくせに、今朝私が様子がおかしいことにすら気付く気配はなかった。
忙しいのはわかってる。
それが私のためだっていうのも……わからない年じゃないのに。
光は私の家の住所を、日本にいたときに教えてあるから知っているはず。
なら、今日は家には帰らない。
……そう、決めたんだ。
家にさえいなければ、光にあう心配はない。
ところが、彼女のこの健気な思惑は外れることとなるのである。
彼女は今、一番重大なことを見落としていた。
今この時この瞬間、小帆のことを世界中で一番気にかけているのは光に他ならない。
それを小帆は、今の自分に自信が持てないばかりに逆手に解釈してしまった。
これが、この先彼女の身に降りかかる混沌の闇の一番の発生要因かもしれなかった。
もっとも、それに彼女や光が気付くのはまだまだ先の話であるのだが。
「いや〜、奎介から聞いてたけど美朱ちゃんって、本当によく食べるんだなぁ」
「ふえっ!?」
「あ〜あ、お母さん。物入れたまま口開くなよ……」
旧式のワゴンの後部座席で昼食をとっていた親子は、明らかに育ち盛りのはずの光より母親のほうが多く食べていた。
「ご、ごめんなさい!!」
「いや、いいよいいよ。光くんももっと食べとかないと、慣れない土地での体力の消耗は激しいよ?」
「うん。ほとんどお母さんの胃袋の中だけど」
気さくで優しい、確かに奎介の言っていた通りの人柄であった。
面立ちはなんとなく奎介に似ているのだが、性格はやはりまるで正反対。
優しいというより、これはお人よしに近い。さぞかし奎介の友人というくらいなのだから、金銭面で何かと手を焼かされたに違いない。
名前は張楊。その名から察せられるとおり、彼はもともとこの国の人間だ。
こちらにいる家庭の事情で大学は中退し帰国、以来今に至るまでずっと中国に腰を据えているという。
しかし、今の尚奎介や哲也との交流はメールを通じてあるようで、
今回はたまたま西安在住の彼に友達のよしみで運転手を頼んだというわけだ。
「そうそう。お兄ちゃんがよろしく伝えてくれって言ってました」
「奎介も哲也も所帯持ったんだよな。いいなぁ。俺なんて未だに独身よ。奎介より遅くなることはないと思ったんだけどな」
「え〜?そうなんですか?張さんカッコいいし、こんなに優しいのに」
「ちっちっち!お母さん、男はカッコいいだけじゃダメなんだよ」
「え?なんで」
「生活力がないといけないんだって、お父さんが言ってたもんね!」
「魏なら……言いそうかも」
「ははは。ボウズ、言ってくれるな。んじゃ、なにか?俺には生活力ないってか?」
「うん。だって、甘いよおじちゃん。世の中には遠慮なくお金を食べちゃう女の人だっているんだからさ。
もっと警戒しないと、お財布の中すぐ空になっちゃうよ」
「お金を食べる……?それって、ひょっとして……」
「あ!それって私のことなの!?光!!」
「そうだよ〜ん!」
「……こらぁっ!!」
美朱は顔を真っ赤にして光に食って掛かった。
きっと魏だな。光にいろいろ吹き込んだのは!
「おいおい!頼むから車の中で暴れないでくれ〜!」
そんな珍道中、西安はもうすぐそこだった。
流石にいきなり曹家に尋ねても失礼極まりない。何せ互いに忙しく、親同士の連絡は皆無である。
あくまで光個人が、メールで小帆とのやりとりをし、会いに行くということが重要なのであって、
美朱はただその手伝いをしてやったに過ぎない。
今夜は宿を取り、曹家には彼女は顔をださない。という条件になっている。
そうでなくとも、小帆の家は父親が病床について以来、家族総出で忙しく働いているのだと聞いている。
その上に、厚かましくも美朱が尋ねるのはいろんな意味でよくないと、魏が言ったことだった。
私がいると破産しかねないって言いたいのね……。帰ったら覚えてなさいよ、魏。
この時、はるか日本にいるはずの宿南魏という男が、ぞっとするほどの悪寒を感じ取ったのは言うまでもない。
かといって、やはり異国の地で子供ひとりにしておくわけにはいかない。
とりあえず、二三日ここに二人で滞在する間の半日だけという約束で、
念のため携帯を持たせ光にしばしの自由時間を与えようということになった。
幸いこの西安は治安もよく、体たらくな若者には厳しいということで有名だ。犯罪も少ない。
「本当に少しでもひとりにして大丈夫かしら……」
日本で魏と話し合っているときに、美朱は不安げに言った。
「そうだよな。いくら治安がいいって言ったって心配なものは心配だし。ならさ、奎介さんがその……なんだっけ」
「張楊さん?」
「そうそう。その人にお願いして、隠れてついていってもらうとかさ、どう?」
「そんな、迷惑じゃないかな」
「それがさ、よくわからないんだけど、奴に任しとけば大丈夫だっていうんだよ、奎介さん」
「お兄ちゃんが?……どういう意味だろう」
しかし、いざ今朝ホテルの前で会ってみるとその答えはいとも容易く出たのだった。
「張さんは警察の人だったんですね」
「ん?あぁ、でもそうは言っても、地元の小さなところのでパシリみたいな下っ端だから、
そんなカッコいいもんじゃないけどね。日本で言う駐在さんみたいなもんかな。
ま、奎介から聞いてるよ。光くんには悪いけど、心配ないから任しといて」
これは光には聞かれないように会話した。
どちらかといえば積極的な光にとって、今回の旅は彼なりの自立の意味もあったのかもしれない。
しかし、それがまた幼さゆえの怖い者知らずというもので、
こういうところもなんとなく父親に似たのかもしれないと美朱はひとり思った。
そして、この時日本の某貧乏性の男は予期せず大きなくしゃみをたて続きに数回した後、首をかしげた。
「あ!!お母さん見えてきたよ!あそこに小帆がいるんだ」
光はドキドキしながら街中を歩いていた。
「じゃ、お母さんここにいるから早く戻っておいでね」
美朱はなんだかんだ言ってやはり心配なのだろう。宿に近い喫茶店で光の帰りを待つことにした。
「うん。すぐ帰るよ。でないと、ここで待ってる間にそのお財布が軽くなっちゃいそうだから」
事が事でなければ、お父さんの言いつけをよく守るいい子なのだが。
そんな会話できるお母さんも今はいない。
……しっかりしなきゃ。
小帆に会いに行くんだ。
ここに至るまで、ただその一心で来た。
大丈夫。大丈夫……。
そう自分を元気付けるが、やはり知らない土地でひとりきりというのは、どうしても不安だ。
考えてみれば、言葉も通じないのだ。少しなら小帆に教わって知っていたが、とても会話のレベルではないのはわかっていた。
小帆もはじめて日本に来た時、こんなだったのかな。
しかも、三年も前というと彼女はまだ7歳だったはず。
俺ができないでどうするんだ!!
きっと、前を向く。地図によれば十中八九こちらで間違いはないはずだ。
しかしその時、一陣の風が勢いよく通りを吹き抜けた。
「!?」
……え。
……なに?
光はその風が自分の脇をすり抜ける瞬間、何か言葉を聞き取った気がした。
それは、とても小さい。それこそ、何かがささやいたかのように、遠くてか細い。
短い言葉だったが、頭というよりそれは耳が確かに感じ取り覚えていた。
「……え?こっち?」
光は確かにそう告げる声のした、自分の右上を仰ぎ見た。
「市立図書館」そこにはそんな言葉の書かれた看板を掲げる建物があった。
「もう、こんな時間か」
小帆は小さな声で呟くと、それまで読んでいた本を棚に戻した。
時刻は丁度正午を回った頃。今日は学校は特別日課で半日だ。
きっと、母が知ることもないのだろうが、この時間に今日は帰っていなければ、
後々になって疑われるかもしれない。
それでも、今日はギリギリまでうちには帰りたくない。
母が帰ってくるのは真夜中だ。
もしかしたら、私が昼に帰るべきであることを母は知らないのだから、気付かれないかもしれない。
まだ、ここにいられる……。
いられるかもしれない……けど。
本当にいいの?それで。
光は他のみんなと違うって、心の支えだって思っていたのは自分じゃなかったの?
ずっと大切な友達だって、そういってくれたのは彼だった。
彼はただ私を大切に思って、……会いに来てくれる。
そんな人が私の周りには彼だけしかいなかった。
だからいつのまにか、彼まで疑うようになってしまっていたのだ。
落ち着いて考えてみて、そこまでわかった。
けど、それ以上は……。無理だよ……。
私、光に笑顔であえる自信……ない!!
なのに、
「……なんでこんなに会いたいのかな」
いつまにか、彼女の足は出入り口のほうへ向かっていた。
とりあえず、家に戻ろう。
家に戻って祖母の手伝いでもしてよう。
もしかしたら、今日は来ないのかもしれないし、今日来なかったらその時はまたあしたどうするか考えればいい。
とは思うものの、もしかしたら今日もううちに来てて、待っててくれてるのかも。という期待をしてしまうのは何故だろう。
私も会いたい。
「そうなのかな……」
わからない。
わからないけど、今自分の身体が図書館を出ようとしているのは事実なわけだし、
今現在この場にあるはっきりした真実といえば、やはりそれだけだった。
出口の重い戸に手をかける。
慣れたもので、その扉はどのようにすると一番楽に開けられるかを知っていた彼女は、身体全体を使って戸を開けた。
その先に異国の少年がひとり呆然とたたずんでいたことも知らないで……。
しばらく両者の間に会話はおろか、表情さえもまともに作れるだけの心の余裕はなかった。
どれくらいそうしていたのか、二人にとってはとても長い時のように思えたが、
通りを行きかう人の視線を集めるほど、長い時間呆然と見詰め合っていたわけでもないのだけは、とりあえず確かなことだ。
案外、思いがけず思いがけない人に会った瞬間の人間の思考能力とは、冷静なものなのかもしれない。
ただ、あまりのできごとにしばらくまわりの空気が違って見えたのは、お互い様だった。
二人の視界には互いに、図書館から突然重い戸をこじ開けて出てきた少女と、道の真ん中でぼさっと突っ立っている少年しか写ってはいなかった。
「ひ……かり。光なの?」
「……こはん?」
光だ。
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
え!そっちじゃ……ないよ。
しかし、身体は彼女の意に反して、もしくは真意を汲み取ってか、少年がいたほうとは逆へ走った。
「え……!?」
少女の姿が建物の中に消える。
走りより手を伸ばした先に、彼女がいるものとばかり思っていた光に、この瞬間はなんとも理解しがたいものだった。
「え、ちょっ……!待ってよ!!」
お願い来ないで……。
そう思ったのに、心のどこかでは光がちゃんと自分を追いかけているのを感じて、途端にたまらなくなった。
いざ会ってしまってから、わかるなんて!
……だめ。こんな私、光にあう資格なんてない。
……ないんだ。
彼女は気付いていなかった。
それは、結局のところ、自分に自信が持てないばかりに感じてしまった畏怖。
光が今の彼女には、眩し過ぎる。それだけなのだ。
だが、それが彼女がここまで自分を追い込んでしまった原因。
光はこんな自分を見ても、以前と変わらずにいてくれるはず。
そう信じている反面、それ故に怖くなってしまったのだ。
もし、そうじゃなかったら……!
光に嫌われる……。やだよ、そんなの。
「小帆、なんで!?せっかく会いに来たのに、……俺っ」
公共の大広間を通り過ぎ、ここは関係者以外立ち入り禁止の通路。
必死になっているうちにこんな奥まで来てしまっていたのだ。
「だめ!!だめなの!」
思わず口をついて出る母国語。しかし、光には皮肉にも彼女が日本に滞在していた頃に、
彼女自身からじかに教わっていたため、今のは自然に聞いて取れた。
「な……なんでだよ!?」
しかし、その質問に小帆が答える前に鍵の開いていた奥の部屋に逃げ込んでいた。
「小帆!?」
内側から鍵をかける音が聞こえた。
「……どうして。小帆」
「……」
こんなに近くまで来たのに。
海を越えて、こんなに遠くまで来たのに……。
しかし今、彼らの間のたった一枚の戸が日本と中国の道のりよりもはるかに遠く厚く感じられた。
会っててっきり嬉しがってくれるものとばかり信じていた光の衝撃は、並大抵ではないだろう。
「うそ……だよね?冗談なんだよな。俺はだまされないぜ。ほら、出ておいでよっ。
久しぶりに会えたね小帆!」
返事はない。
しかし、少しして、コトッという音が聞こえたので、光はややうつむいた顔を上げた。
中で小帆が全力疾走したばかりに息が上がって、部屋に入った瞬間崩れてしまっていた身体を起こした音だった。
「光……」
久しぶりに彼女の口から聞く日本語だった。
「そうだよ!光だよ!会いに来たんだ」
「帰って!!」
その瞬間、光の顔から血の気が引けた。
「なっ、……何言って……」
「お願い帰ってよ。もう、会いに来ないで」
「なんでだよ!!?ふざけてないで早くここ開けてよ!小帆!!」
「会えないの!お願い!今日は帰って!!」
「どうして……。せっかく会いに来たのに。……やっと、会えたと思ったのに、なんでそんなこと言うのさ」
今にも泣きそうになるのを堪えている声は、中にも届いていたはずなのだが。
「ごめん……なさい」
中の少女のほうが何故か先に泣いていた。
「なんで……」
それしか言えなかった。
他になんと言えばいいのかわからない。
これじゃ、俺が悪者みたいじゃんか……。
こんなことになるなんて思ってもみなかった。
「まるで、俺が会いに来ることで小帆を泣かしちゃったみたいだよ、これじゃ……。
俺、そんなつもりじゃ……」
「違うの!それは違うの!!」
いけないのは私なのに……。
「……お願い。今日は帰って」
「小帆……!」
光の声が泣いていた。それは自分も同じ。
小帆は耐え切れず、また崩れ落ちそうになった。
その直前に彼女は部屋の奥のほうへ走ることで、身体が崩れるのをなんとか回避した。
同時にそれは、光への無言の最後通告でもあった。
「小帆」
小帆が戸から離れて、奥に行ってしまった。
鍵が掛かっていて入れない以上、これ以上光にはどうしようもない。
「……小帆、わかった。今日は帰るよ。でも明日また来るから、ね。
なにがあったのか知らないけどさ、明日になれば嫌なこともきっと忘れてるよ。
だから、明日また会おうよ」
返事はない。
でも、ここはおそらく閲覧禁止の古い本の倉庫。
中国語は読めないが、日本語というのは不思議なもので漢字そのものとその意味はなんとなくわかる。
今の光の言葉が聞こえないほど、奥ゆきのある部屋とも思えない。
確かに聞こえたはずである。
しかし、何かがへんだ。
「小帆?」
直感にすぎなかったが、なんとなく彼女がそこにいない不安を覚えたのだ。
事実戸の近くにはいないが、部屋にはいる……はずである。
それに問いかけに答えてくれないほど、彼女は光を拒んではいない。
なのに、その後も何度か問いかけてみたが、一向に返事は返ってこなかった。
「小帆!!?」
くそっ……!!俺なんかの体当たりくらいじゃ開かない。
すると、光は何を思ったか周りを見渡した。
左右に続いて上を向いた彼の表情が、変わった。
「よし……!あそこから」
決意に満ちた顔で戸の上の小窓を睨んだ。
近くに踏み台になりそうな物はない。幸い左の窓が近かったため、その窓枠を足がかりにして器用に跳躍。
ひとえに親譲りの運動神経のよさであった。
危なげなく小さな身体を、幅4センチほどの狭い足場に持ち上げる。
流石にこんなところの設錠まで手が行き届かなかったらしく、小さな窓の鍵は開いている。
光はとりあえずそこから部屋の内部の様子をのぞき見た。
「小帆……?」
しかし、暗がりの部屋のどこを見ても、少女の影は浮かんではこない。
唯一ヒト型の影といえば、廊下の明かりで窓の影の中にぽつんと浮かんだ自分の影のみ。
小帆……いないの!?
(update;04.03.30)