「ね!ね!凄かったね!!さっきの離陸する時の感じ。ジェットコースターに乗ってるみたいだった」
美朱は、生まれて初めて飛行機を体験したときの自分とまるで同じ反応を示す息子を見て、我ながらおかしくなってしまった。
「あ!!すっげぇ。もうこんなに高いんだ」
そして、やや落ち着いた後の反応はどちらかと言えば魏のそれに近い。
なるほど彼らを知る誰もが、似た者親子と指示するだけのことはある。
美朱は遠出する時は決まって、写真立てに飾ってある写真の中でもお気に入りのものを一枚だけ持っていく。
それを見るといつでも心が和む。彼女にとってこれ以上ご利益のあるお守りもない。
考えてみれば随分と前の写真だ。写真立てに入れておいたお陰で劣化こそないものの、それ故逆に怖くなる瞬間がある。
あの時の出来事は現実に起こったこと。
だから今こうして魏と一緒にいられ、光が生まれた。
思えば、朱雀の力で結ばれたといっても過言ではない“愛”が私の周りには今も溢れている。
唯ちゃんたちもお兄ちゃんたちも、もしかしたらあの四神天地書がなければ知り合うことさえなかったのかもしれない。
たとえ会えても、ここまで互いを強く求め合うまでに至ったどうかさえ、定かではない。
全てはあの本のお陰だった。
もちろん、私たちならきっと本がなくても巡り会い、遅かれ早かれ互いを求め合う仲になっていただろうと、別れ際に本の中で太一君こと天帝が言った言葉。
しかし、それでは皆に会うこともなかったわけだし、あの冒険がなかったら今の自分もなかった。
これほどまでに魏を慕う感情もそのとき育まれた物であり、それ故ある意味彼女たちの愛が引き寄せてしまった幾多の困難も共に乗り越えていけた。
うまく言えないけれど、とにかくあの時のことはこの先死ぬまでずっと忘れないでいられるのだろうと思ってた。
信じていたから。
たとえもうあの本が永久に私の前に現われることはないのだとしても……。
あの時間は永遠だった。
なのに、時々ぼうっとなってしまう瞬間がある。
まるで夢見心地な気分で、写真を眺める自分がいたのだ。
忘れたわけではない。現にこうしてみんなの写真をいつも大事に近くに置いている。
しかし、昨日のことのように思い出せるいうには時が経ち過ぎたせいもあるだろうが、やっぱりどこか寂しい。
……なぜ。
わからない。
わからないけど、“時”という言葉で片付けられるほど事態はそんなに軽くないのかもしれないと、自分は思っているのだ。
まるで何かが、その時の事を鮮明に思い出そうとしている自分を妨害しているのでは。
そんなことまで思い至る程、異常な事態なはずなのに、まだこの事を魏にはおろかあの本を知る者の誰にも打ち明けてはいない。
怖いのだ……。
もしみんなも私と同じだったら……!?
そう思うだけで恐ろしくてとてもじゃないが、訊く勇気は持てなかった。
みんな、私、今幸せだよ……。
美朱はそっと手帳にはさんで持ってきていた写真をなぞる。
なのに……なんなんだろう。この胸騒ぎ……。
明日には北京のホテルを出て、あらかじめ奎介のつてでお願いしておいた彼の大学時代の同級生という人のお世話になり、
西安に行くことになっていた。
とりあえず今は、あの頃の少女としてではなくひとりの立派な母親として、息子の念願を叶えてやる事それのみ考えていればいい。
今回はいつもと違って魏もいない。
光を守れるのは、今現在ここに私ひとりしかいないんだと。
みんなも守ってくれる……よね。
「……お願い」
「やはりあの娘は誰より強く、事を感じ取ったか……」
幻想的そんな言葉がこれ以上に似合う場所もないだろう。
無限に虚空が続くようでいて実は狭く落ち着く、寂しいようでいて実はとても温かい場所。
そこに一人の砂かけババ……
「何か言いおったか?」
いえ、失敬。
もとい、太一君の異名を持つこの空間の無二の主は、その嗜好からか、好き好んで老婆の姿を保っていた。
そんな太一君もひとたび転変すれば、広大なとある世界の頂点に光臨する天帝となる。
その天帝に仕えるのが、女神である娘娘という娘たち。
普段はやはり主似てか、幼女の姿を保っている。ひょうきんな性格も、主譲りのものらしい。
「太一君、眉間にしわよってるね!」
「顔怖いね」
「うん。怖いね」
「治したいね」
「ええ〜い!!やかましいわぃ。寄るんじゃないよ。よく見えんじゃろうが」
老婆は大鏡の前で、その小さな腰を折っていた。
ただ普通のそれと違っていたのは、その身体が宙にあったことくらいだ。
「もう終わったものとばかり思ってたんじゃがな……まさかこんな事になろうとは」
その物言いの重さに気付いたのか、娘娘たちは顔を見合わせてからふざけるのをやめた。
「太一君、本当にあれは起きてしまうね?」
「……もう後には退けんじゃろうな。全く、四神の連中も一体何を考えておるんだ」
「娘娘がこれから山下りてみるね」
「そうね。そして、朱雀に聴いてくるね」
「それは無駄じゃろう。わしの問いかけにすらもはやまともに答えてはくれぬ。
全てはあの子供が握っておる。と、それだけじゃ」
「子供?光のことね」
「……果たしてそうかの」
「……太一君?なんかいつもと違うね」
「当たり前じゃ。四つの神がことごとくこのわしを無視し続け、勝手に事を起こすなど、初めてのこと。
わしにすらよく知り得んことが、起きようとしとるんじゃ。これが落ち着いておれるわけがなかろう」
「確かに初めてね」
「今まで四神がここまでそろって何かを求めることなんてなかったね」
「そうじゃ。問題はそこじゃよ。朱雀の神力が弱ったあの時はいたしかたないとしてもじゃ。
四神にここまで反発されたのは、初めての経験じゃよ……。それに、前の天コウの時とは比べ物にならないあの……
得体の知れない強大な闇の波動……」
「最近じゃないね」
「ずっと前からあった」
「そうじゃ。じゃが、その時はまだ問題に足る程……ここまで強大になろうとは予想だにしなんだ」
「天コウの時と違って正体がまるでわからないね」
「じゃから、問題じゃと言っておる!その波動はありありと感じ取れるようになった、その少し前からなんじゃ。
四神の様子がおかしくなってしもうたのは。子供……というのも詳しく説明してはくれん」
「……でも、もうここまできてしまったね」
「……今更後に退けんと言ったのはわしじゃったな。さて、どうしたもんかの」
「あれが起こってしまう前に食い止められないね?」
「そうね!そうね!いい考えね」
「朱雀たちもきっとそう考えているはずね!」
「……しかしじゃな。お前たちもよく知っとると思うが、この世界にはもう戦士はおらんのじゃよ」
途端、娘娘たちの表情が暗くなった。
「そう……だったね」
「とにかくわしはひとりになって考える。お前たちは、お前たちなりに何か考えてくれぬか。
朱雀に会いに行くのもよかろう。あれが一番最近に召喚され、尚且つその力の根源故に最も人間に近い存在じゃからの。
話もわかるというものじゃ」
『アイアイさー!!ね』
何人かいた幼女たちは、双子でさえここまでそろうものかという意気のよさで、役目を請け負った。
娘娘たちの存在は思ったより大きい。
いつもいいところを狙って出場する調子のよさに加え、この明るさである。
太一君とて、こういうときには彼女たちのその性質が、これ以上ない助けになるということを認めていた。
だから、憂う心を持ったままの状態で彼女たちを失うと、太一君といえど、自然と寂しくなってしまう。
ひとり大極山に残され、老婆にしては、一瞬我ながら……と思うほど珍しくぼうっとなってしまった。
そのまましばし宙に浮かんだまま、なかなかしっかりしない意識の中で考える。
戦士はいない。……最後に生き残った赤い星の戦士たちも、既に寿命で前の肉体を離れているのだ。
わかってはいても、彼らがまだあの頃のままで今現在ここにいたのなら、この事態を解決してくれたのだろうか。
そういう期待をついついしてしまう。
彼らなら、どんなに強い逆境にもめげずに立ち向かっていける。そう核心づいて言えるほど、28宿の星の中で最も多く戦った者たち。
三方の星たちが成し得なかった事を、互いに支えあい強くなることで見事やってのけた者たちでもあった。
しかし、時は経ち過ぎた。
あちらの世界で十年。こちらではもう、約五十年もの歳月が経過している。
世界はまだあの頃のまま。朱雀の巫女らの愛が守った当時のままの平和を続けてはいるが、それももうこうなってしまっては時間の問題だろう。
わしでさえ、何も出来ない。ただ、手をこまねいて見ているだけなのか。
悔しいが状況のみ言えば、天コウの時となんら変わりはない。
ただ、あの時はわしが出来なくても、あの子らいてくれたからの。
その時、不意に太一君を呼ぶ声があった。
思考をめぐらす太一君を、その無間地獄から救った者。それは、当然ながら先程この場を後にした娘娘ではなかった。
どこか覚えのある声ではあったのだが……。
「……お主は」
その者は何事か言った。
太一君はただ驚いた表情でそれを聞いていた。
そして、鏡の前で向かい合った二つの影のうち、背の低い老婆はそれをひとしきり聞いた後、いとおしそうにこう言った。
「……そうか、行ってくれるか」
「唯ちゃ〜ん!心也が遊んでくれないよ〜」
「ちょっとぉ、情けない声ださいないでよ、もう。心也のことになるとすぐそれなんだから」
とは言うものの、顔は笑っている。
哲也はどこかの誰かさんに比べて家族サービスはいいほうだ。
休みの日には近場ではあるが、よく家族揃って外出をする。
ことに平日でも早く仕事の終わった日には、息子の心也をつれてはよくドライブをし、交流を深める。
良き父親であると、唯は認めていた。
ただ、心也に対する溺愛の仕方はたまにどうかと思うときがあるが。
「だって、お父さん、すぐ負けちゃうんだもん。テレビゲーム向いてないんじゃないの?」
心也は光の良き弟分だ。生まれた時からまるで兄弟のようにして育ってきた。
互いの家で仲良く遊ぶ姿など見ると心が和む。唯も哲也もそれを何より喜んでいた。
「光兄ちゃんは強いんだよ!特に格闘ゲームとか。僕一度も勝ったことないんだ」
「そっか。じゃ、心也お前は何が得意なんだ?」
「う〜ん。育成ゲームとか、とにかく何かを強く育てるゲームなら兄ちゃんには負けないよ。
だって、光兄ちゃんそういうの面白くないって、すぐ飽きちゃうんだもん」
「へぇ。なんかどっちも父親譲りよね。そういうとこ」
「え〜!?唯ちゃんってば何が言いたいのさ」
「別にぃ」
対面式の台所とダイニングで会話する二人の姿も、これまた微笑ましいものがあった。
一方は家事に追われてせわしく動くが、哲也のほうは息子と一緒に久しぶりの家での団欒を満喫している。
「どうでもいいけどさ、あなたいい加減、唯ちゃんってのやめない?大変だったのよ。
心也がいつまで経ってもあなたを真似して、お母さんって呼んでくれなくてさ」
「だって、唯ちゃんは唯ちゃんだし。他に何て呼べばいいのかさっぱり」
「何だっていいわよ。呼び捨てだっていいんだから」
「……んじゃ、唯様v」
「いっぺん、はったおすわよ?」
「冗談だよ冗談。いいんだよ、ちゃん付けのほうがしっくりくるの」
「あっそ……」
流石に外ではちゃんと考えていて、呼び捨てか母という通称で呼んでくれるので、それ以上は言わなかった。
「それより、今頃光君たち飛行機の中かな」
「そうね。もう、日本をたったんじゃないかしら。そんなに遠くないし、明日には光君、お目当ての子に会えると思うよ」
「いいなぁ。光兄ちゃん。僕も飛行機乗りたいよ〜」
「そうか、心也とはまだだったよな。近場なら車でよく行くけど」
「そうね。そのうちね」
「僕も飛行機乗れるの!?」
「だから、そのうちだってさ。心也」
「でも、そのうち乗れるんだよね?やった!」
なんらいつもと変わりない親子の会話。この時がどんなに幸せな時か。
唯は、テキパキと要領よく昼食作りを進める中で、ときたまそうやって会話しては、幸福を実感した。
美朱とは相変わらずの大親友の仲で、その甲斐あってか子供たちもとても仲がいい。
夕城家にもよく訪れては、同じ年頃の子供を持つ母親として真夜と相談する。良き友人だ。
共に専業主婦ではない彼女たちは、留守の間幼かった子供を互いに預けあったりもした。
今では、0歳の康介の世話を流石に平日は申し訳ないと言いつつ預けに来るが、それ以外は姉の由香里や奎介がよく見てくれるのだという。
それを聞くと、二人目が欲しくなってしまう……なんて言ったら、哲也なんて言うかしら。
クスリと笑ったのが聞こえたのだろう。哲也が不思議そうな顔で唯のほうを見た。
「何?どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
青龍のみんな、心宿、私、今幸せよ……。
しかし、その時、不意に何かに呼ばれた気がしてはっと周りを確認した。
「……本当にどうしたの?」
「……今、誰かが私を呼んだ気がして」
「は?俺のこと?」
「ううん。そうじゃなくて……」
なんだったんだろう。今の……。
知ってる声だったような気もしないでもないんだけど。
そして、なんとなく耳元にやった手をびくつかせた。
まさか……!?
青いピアスがどことなく熱いように感じたのだ。
しかし、手に取ってみるが別段いつかの光を放っているわけでもないし、見た目変わったところもない。
気のせい……だったのかな。
(update;04.03.30)