どうして……。
曹小帆は学校のパソコンの前で立ち尽くしてた。
紅南小学校は、日頃から生徒の自主性の向上を方針としている。
その一環であろうか、一昨年導入したパソコン情報課の授業で使う13台のパソコンは、全て昼休みに限り情報室を無償開放し、使用を認めていた。
なにせ世界一人口の多い国の中都市、西安の中でも割と居住区に近い場所にある学校である。
開放してるとはいっても、いつも使えるわけではなく、クラス毎に使用可能日が決められていた。
小帆のクラスはローテーションで丁度今日。一ヶ月に大概3回は回ってくる。
比較的体育会系のクラスであったため、小帆のほかに生徒は数人部屋にいた。
残りはおおよそ腹ごなしに軽くスポーツを楽しんでいるものと思われる。
しかし、小帆のすることというのも大概決まっていて、自宅にパソコンのない彼女にとってここが、
唯一の親友光との交流の場であった。
光もそれは承知していて、メールの返事が多少遅くなっても何も言わずに、毎回元気になるような内容のメールを送ってくれる。
しかし、それが今の彼女の唯一無二の支えとなっている、といことを光は知っているのだろうか。
このメールを見ること以外に今の彼女には、何一つ楽しいことなどないということ。
毎回、今日はこれこれこういうことがあって嬉しかった、楽しかった。という内容を送ってくれる彼のメールを嬉しく感じつつも、
それに対する自分の体験談が全くなく、返事に困っていること。
そっちはどう?という、いつかの言葉の返事をまだ保留にしてること。
……彼は気付いているのだろうか。
「どうして!!?」
小帆は今にも画面を叩きそうな険相で立ち上がった。
途端、その部屋にいた全員のいぶかしむ視線が突き刺さる。
どうして来るの!?
見たメールは昨日受信したものだった。
ということは、今日の今頃はもうこちらに向かっている頃だ……。
前々から、光がこっちへ来たがっていて、親に何度か交渉したことも今までのメールのやりとりで知っている。
しかし、前回受け取ったメールにはまだわからないとしか……。
彼女の幼い顔が歪む。
今にも自分が泣きそうになっているのがわかった。
これは嬉し涙なんかじゃない!!
どうして来るなんて言うの……!?
私、光が来ても自慢できる友達いないよ。
誇れる家族もないよ。
楽しい場所だって知らない。
会って、なんて言えばいいの!?
光はきっとこう言うに決まってる。
やつれたね……って。
「やだ!!来ないでよ!」
わかっていた。光は日本いたとき仲良くなってくれた親友。
決して、いつも慰めをくれる私の都合のいいお人形なんかじゃないってことくらい。
でも……。
こんな私、見られたくない!!
……見られたくないよ。光。
「本当に一人で大丈夫?魏」
「心配性だなぁ、お母さん。お父さんなら大丈夫だよ……多分」
「あ!おいこらっ。その多分が余計だろ」
「へへん。だって、確かにお父さん一人だとさ節約だ〜!とか言って、切り詰め過ぎるとか。
奎介叔父さんみたいな浮気の心配はないとしても、やっぱ心配だね」
「なっ……!」
ここで思いがけず息を飲んだのは、妹とその息子を、義理の弟と一緒に空港まで見送りに来ていた話題の人であった。
「ははっ。確かにその心配だけはないぞ。俺はお母さん一筋だからな」
「あ!こらっ、そこちゃんと俺のフォローしろよ、魏!!」
「あはは。甥っ子に言われてちゃおしまいだよ、お兄ちゃん」
「ここに真夜がいなくてよかったですね。奎介さん」
「ああ、そうだな。……って!ちがうだろ!!?」
春といっても、まだまだ涼風とは言い難い銀の風が肌を刺す。
思えば今年はまだ、桜を見ていない。桜は光の一番好きな花だった。
出来ることなら、その日本独自のともいうべき愛の色を見てから発ちたかったが、残念ながらそれは叶わなかった。
光はそっと、空港の大窓から飛行場を眺めた。
昨日の奇妙なメールのことは、結局誰にも打ち明けなかった。
旅行直前ということもあって、彼は少しでも憂いはないほうが良いと考えたのだ。
さらに、昨日の夜、つまり今朝見た夢がまた妙なものだったのも、彼が沈黙を決めた要因のひとつである。
「金色の……光」
眩しいほどの金色の中に、人影があった。
でも、それだけ。それ以外に記憶に特別残っているわけでもない。
それが夢ならば、よくあることだ。
しかし、彼は言い表せぬ不快感を感じていた。
光そのものは、なるほど色の期待を裏切らない温かさを確かに持っていた。
なのに、問題はその人影のさらに奥にわずかに見えた暗雲。それが彼に言いようのない不安を与えていた。
黒い雲はまるで生き物のように、人影ごと金色の光を呑み込もうとしていた。
あれは……一体。
「……り?ひかり?」
「あ……」
「どうしたのぼおっとして。気分悪いの?」
「ううん。大丈夫だよ。なんでもないよ、昨日ちょっと興奮して眠れなかったんだ」
「そ?ならいいんだけど、飛行機に乗ったら眠れるからそれまで待てる?」
「うん。でも寝てなんかいられないよ!やっと小帆に会えるんだって思うと興奮しちゃってさ」
「光、気をつけて行くんだぞ。お母さんを守ってやれ」
「うん!」
「ちょっと、魏。それって、普通子供の光じゃなくて母親の私に言うんじゃないの?」
「だって、お前。うまそうな飲食店とか見つけて理性保ってられないだろ?」
「うっ!」
「流石に十何年と一緒にいるとわかってるねぇ。魏は」
「お兄ちゃん!」
「あはは……!」
「まっかせてよ!この俺が命に代えてもサイフの緒は守ってみせるから!!」
「よし!それでこそ、この俺の息子だ」
「もう!みんなしてひどいよぉ。私、……そんなに食いしん坊じゃないんだから」
「どうだかなぁ」
そんな掛け合いも、後数分したら当分できなくなってしまう。
今日から、親子の二人旅が始まるのだ。
光にとっては初めての海外。美朱については、新婚旅行に加え、光が生まれた後に一度中国へ唯と一緒に訪れている。
つまり、これが初めての中国ではないわけなのだが、美朱は光の様子がなんとなくおかしいことに気付いていた。
しかし、美朱もかつてそうだったように、光が初めての飛行機ということもあってやや緊張しているのだろうとしか思わなかった。
明日の今頃には西安に向かっている途中であろう。そのうち光の緊張も解け、初めての海外に興奮するであろう様を垣間見て美朱は微笑んだ。
「じゃ、もう行くね。魏、今日の晩御飯は冷蔵庫に入ってるから、ちゃんと残さず食べてよね」
「お、おう。最近はよく成功するほうだしな」
「何か言った?」
「……美朱、本当に気をつけて行ってこいよ」
黙ってしまった魏の代わりに、唯を初めとする一同を代弁して奎介が言った。
「うん」
「いってきまぁす!!」
美朱に手を引かれた光が大きく開いているほうの手を振った。
見えなくなるまでずっと……。
このとき、魏と奎介は同時に顔を見合わせた。
「帰りに一杯やってくか、魏」
「昼間からですか?……俺はちょっと」
「なんだ。なんか用事か?」
「会社がない日はバイトって決めてるんですよ」
「はぁ、相変わらずお前らしいな。そんなんで本当に大丈夫なのか?無理すんなよ、貧乏性」
「いえ!奎介さんの浮気性には敵いませんよ」
「なんだとぉ!これじゃまるで俺が……って、こら !!帰るな っ」
その頃西安では、小帆がひとり、途方にくれていた。
中庭全部を見渡せる小高い丘から流れる白い石の階段。その上の端でうずくまる。
しかし、何故か彼女は顔を覆うとした両手を、目前で止めた。
その手にはあかぎれ、まめ、擦り傷や切り傷……。
およそ、10歳の子供の手には見かけられないものが全て、その小さな手に凝縮されてた。
中国に帰ってからいいことなんてひとつもなかった。
父病気すぐ帰れ。たったそれだけの内容の手紙が届いたとき、日本の祖父母は自分たちも息子の身を案じて一緒に来たいと言った。
けれど、私がそれを頑なに拒んだ。
何故って、そんなの決まってる。
私は働くために中国に返されるのだと、わかっていたから。
うちは貧乏になった。だから、母方の祖母までもが昼間内職をして稼ぎ、母は父が倒れた時から前にも増して忙しく家をあけるようなった。
私は、昼間は学校に行き、帰ってすぐ父の世話に追われる。そして夕食を作り、休む間もなくバイト(主に配り物の)に行かされ、
帰る頃には疲労で目も開かない状態となる。当然、宿題は朝になってから学校へ早く行ってやるしかない。
その前に、祖母の内職を手伝ったり、朝食を作ったりもする。
この国に限ったことではないだろうが、一家の大黒柱を失った打撃は思ったよりも大きい。
父は、申し訳ないとしか言わないけれど、優しい人だから、病気のことでなにひとつ私に話しをしない。
それが、陰にその重さを告げていることを、あの優しいお父さんは気付いているのだろうか。
日本語しか知らない父方の祖父母が来てくれたところで、客人優遇してやれるだけの余裕はないし、働いてもらうにしても酷というものだ。
私の日本留学の資金は専ら、二人のお陰で実現できたようなもの。恩をあだで返すことはできない。
当然、これだけ忙しければ、友達を作る暇もない。
日本に行く前に仲が良かった子も自然と離れていってしまった。正確には、帰国したときにはもう以前と同じ付き合いが出来なかった。
もともと不器用な私だから、しょうがないと思う反面、やっぱり辛かった。
日本の友達でまだ交流があるのは、宿南光ただひとり。
それだけが心の支えだった。
彼は、こんな醜い私を知らないから……。
だから、ずっとこのままでいたいと思ったのに。
どうして……。
ごめんなさい。光。私、あなたを歓迎できない……。
できないよ……できるわけないじゃない。
日本にいた頃に戻りたい。
あんなに幸せだった日々。もう戻っては来ない。
また、桜を見ようねって言って別れたのが最後だと思ってた。
嬉しいはずなのに、ここで会うことが彼女を揺らしている原因だなどと、光は知る由もないのだが……。
まるで、おとぎ話のような毎日だった。
きっと、また私が日本に行くことはないのだろう。
あれはまるで夢だった……。
光もずっと、私だけの夢であってほしいなんて、我侭なんだ。きっと。
そういえば、昨日夢を見たっけ。
なんだったか。よくは思い出せないけど、幸せ……だったかな。
誰だったんだろう。周りに沢山の人がいたのだけは覚えてる……。
日本のことばかり夢見てるから、あんな夢みちゃったのかな。
「……そうだ」
帰りにちょっとだけ寄り道しよう。
日本に行く前、小帆が毎日のように通っていた場所、図書館。
彼女はそこで日本の資料を見ては、第二の故郷日本への望郷の念を強めるのだった。
しかし、その時がもっとも心の安らぐ時間でもある。
光、あんたが日本に帰るまで私どっかに隠れたいよ。
それがダメなら、日本へ……光、あんたの故郷へ連れてってくれる?
日本じゃなくてもいい。ここじゃないなら、どこでも。
ここより悪い場所なんてきっとないから……。
でも、もしかしたら光も今の私の姿見て、嫌いになっちゃうかもね。
こんな私なんて、見せたくないのに。
なんで来るのよ……!!嘘だって言ってよ。
しかし、小帆の思いとは裏腹に、光の胸は激しく高鳴っていた。
早く小帆に会いに行くんだ。
今、彼の心にあるのはその思いただひとつなのである。
その顔がまるで、父親とそっくりなのにはやはりそれなりの理由があったのだ。とは、奎介の談である。
この時既に運命の歯車は狂い始めていたのかもしれない。
誰が知るわけでもないのに、既に当事者の一人がそれとなく不安を感じ取っていたのは事実。
しかし、それだけだ。
ここにはもう、新たな話の幕開けを予感させる要因は確かに欠けることなく揃っているのである。
それは敢えて言うこともないだろう。
ここで明言したところで、既に狂ったまま回り始めた歯車を止めるすべはないのだから。
事が起これば、自然と答えは見えてくる。
そのようにして何かを乗り越えてきた人間は確かに、すぐ近くにいたことを小さな二人の子供はまだ、知らない。
(update;04.03.30)