それはどこにでもあるような、極ありふれたお伽噺。
雪女の伝説は中でも指折りとも言えるのではないだろうか。
ただ、彼の語ったその伝説は小帆の知っていたものと、明らかに相違なるものだった。
……その昔、遭難した若い男性を凍結させようとした雪女がいたという。
そこまでは、なるほど絵本の絵にもありそうな一節であった。
だが、問題はその先である。
その旅人は薄れゆく意識の中で、凍った口を動かした。
「これを……村へ」
それだけ言うと、雪女が何もせずとも息絶えた。
旅人の手には小さな小さな火種があった。
この吹雪の風から、よくぞこんな小さな灯火を守り抜いたものだ。
と、雪女はなにより雪の猛威を知っているからこそ、感心してしまったという。
よほど大事な物なのだろう。
雪女はなんとなく、その赤く光る物体に手を伸ばした。
が、当然ながら雪の結晶の集まりであるあやかしの身体は、それに近付いただけでとろりと溶け落ちた。
雪女は息を呑んだ。
こんなもの、雪山にあってはいけない。
……怖い。
しかし、そう思うと同時に、なんと優しい光だろうとも思った。
これが、温かいということなのだろうか。
旅人はこれを村へ、と言っていた。
雪山のふもとにはなるほど、寂しい村というよりも、集落があった。
その集落は今、冬のはやり病で一族存亡の危機にさらされていると、雪の噂で知っていた。
こんな小さな明かりをそんな所へ持っていき、いったいどうするというのか。
彼女は考えた挙句、その身を人間の女の物に変え、火種を村へ持っていった。
男の遺言を聞いてやったわけではない。
自分自身の興味本意で判断したことなのだと、己に言い聞かせて。
村は彼女が思っていたよりも深刻な状態だった。
力のない老人や子供から次々と病魔のキバは襲い掛かった。
健常者は既に村の半分もいなかったのだ。
彼女が持ってきた小さな明かりを見るなり、人々は歓喜した。
それは病魔を追い払う聖火だったのだ。
ただちに祭典の準備が始められ、その夜彼女は人目を避け、火の熱の届かないところでその祭りの一部始終を見た。
病魔を驚かす太鼓の振動。
病魔に触れられぬ躍動ある体。
病魔の感覚を麻痺させる聖歌が歌われ、漆黒の夜に赤い花が咲いたように、一晩中その村の明かりが耐えることはなかった。
会場中央の大火はあの火種から膨れ上がった物だった。
その炎は病魔の喉を枯らし、干上がらせる。
なんとも優美な光。
その美しさの陰に隠れた炎のまがまがしさが、儚い雪しか知らなかった彼女を魅了した瞬間だった。
彼女は舞った。
雪の舞台の中でいつまでもいつまでも舞い続けた。
彼女は歌った。
ふもとの炎がたとえ己の喉を枯らそうとも、美声を絶やさなかった。
それこそ夜が明けるまで。
そして彼女は、己の汗にとけた。
その場に残ったのは一滴の凍った涙。
村は救われた。
病魔は去ったのだ。
そう。病魔は火に魅了され、火をあがめたがために、自らその身を滅ぼした。
それこそが、この祭りの意義だったのだから……。
「……なんか、悲しいお話ね」
「……せやな」
「でも、このお話と今回のこと……刹火のことと何の関係があるの?」
「今回のことと、この話の接点はその刹火という名前にある」
「名前?え?じゃ、まさかその雪女の名前も刹火っていうの?」
「正確にはその後、この事を歌った詩人が彼女の心を慰めるためにそう呼んだのだそうだ」
「刹火は女やったんか……」
翼宿がそれを聞いて、床から声を発した。
「確証はないが、な」
翼宿以外は皆、正座してその話を聞いたものだ。
そのうち上座にいた語り部が怪我人の問いに答えた。
その横に控えて、つい先ほど同じ話を上座のタンダと共に長老から聞いていた井宿などは、
既に何度も夕べの自分の記憶を辿っていた。
「確かにあれは、翼宿の言ったとおり髪の長い女性だったと思うのだ」
「刹火が本性を現したってこと?じゃあ、なに?
あの翼宿の姿ってやっぱりもともとああいうわけじゃなかったのね。
……よかった」
「あ!なんかひっかかんで、その安堵の仕方」
「当たり前じゃない。翼宿が本当に二人もいたら大変だもの。
にしても、口調までそのまま真似てたなんて、もしかして凄い演技派女優?刹火って人」
「そういう問題ともちゃうやろ……」
「なのだ。でも、これではっきりしたのだ」
「何がや?」
「その火妖鬼は書いて字の如く、火の使い手。それも、かつてこの氷雪の大地を支配していた程の妖力を持った、雪女。
そのどちらの力も強大なのだということが、とにかく昨日の今日でわかったのだ」
「……もしかして井宿、お前気にしてんとちゃうよな?」
「だ?」
「だ?やない。俺の怪我のことや。お前のことやから、もしかして自分が来るのが遅れたせいで、とか思ってんやったら……」
「あ……」
言われて、小帆もはっとそのことに気付いた仕種をする。
実は井宿が現われた時そのものは、さして後れをとったというわけでもない。
ただ、一瞬の状況判断がやや出遅れただけであって、それもまた仕方のないことだった。
あの状況下で炎を弾き返すことよりも、その標的を救い出すことを優先させただけでもたいした対応力だったはずである。
「あ、で、でもほら。ルークくんや私もそのお陰で無事だったし」
「俺はどうでもええんかい」
「翼宿の怪我だってたいしたことなかったじゃない」
「そやな〜。お前らがおもちゃにせんといてくれたら、もっと治りは早いと思うんやけどな」
「あのねぇ。背中のはともかく、その肩のほうの火傷は誰がなんと言おうと、翼宿が悪いんじゃないの」
それを言われると、翼宿の顔が渋った。
「しゃーないやろ?あんときは考えるより先に体が動いとったんや。それに、借りはちゃんと返したやんか」
「だ〜。翼宿はいつも何も考えないで動くのだ」
「じゃかわし。そこ!お前やっぱ俺のこの怪我自業自得と思ってんな」
「そこまでは思ってないのだ。第一、翼宿のあの行動がなかったら小帆ちゃんもルークくんも無事じゃ済まなかったのだ。
怪我した手前、それは褒められる行動とは言いがたいけど、翼宿のとっさの判断は間違ってなかったのだ。
それに、オイラの反応が遅れたのは……それとは別に理由があるのだ」
「どういうこと?」
「自分の失敗を棚に上げて言うつもりでもないのだが。でも、思い返せば思い返すほどそう思えて仕方がないのだ」
「せやからなんや聞いとるんや」
「あの髪の色が……ある人に似てたような気がして」
「……色?あの夜にそんなのまで見えてたの?」
小帆の質問も最もである。
「確かに暗くて正確に見えたわけではないのだが、でもあれは確かに柳宿の……」
「どえぇぇぇぇっっ!?」
「……翼宿、うるさいよぉ」
小帆の抗議は無視して彼は、絶対安静の身体はさておき、声だけで井宿に詰め寄った。
「ぬ、柳宿て……、お前、冗談も休み休み言えや!」
「冗談なんかじゃないのだ」
「柳宿って、もしかして朱雀七星士の?」
絶句した翼宿を尻目に、小帆はその彼から直に聞いていた話を思い出しながら、尋ねた。
「そうなのだ。かつて朱雀の巫女を守るためにともに戦った仲間のひとり……彼は、今もこの地に眠っているはずなのだ」
神座宝の手がかりを求めて、彼はひとり別行動中に山中にて敵と奮戦。
相打ちとなり、氷雪の地に散ったということだった。
「その柳宿さんが……なんで?」
「あんなぁ!それ聞きたいんはこっちやで。おい、まさかまた、今度はあの刹火が柳宿に化けたってことないやろな」
「有り得ないことじゃないかもね……。だって、あそこまで翼宿真似るような人だもの」
「だとしたら、急がないといけないのだ」
「え?」
「せやな。柳宿の怪力は使いようによっては俺よりたちが悪いで」
「違うのだ!仲間の姿でまた悪いことなんてさせるわけにいかないのだ」
「柳宿はもともと意地悪体質やったような気もせんでもないけどな」
「翼宿」
「わぁっとるて。しかし、これじゃまだ動けんよって。
誰かさんが回復すんの邪魔しとるしな……って!こらぁ!言っとるそばから近付くな。このガキ」
キャッキャッ言って楽しむ子供に、すかさずタンダが釘をさした。
「ルーク。ふざけるようなら出て行きなさい」
ルークがいつもより端的に厳しく言われたものだから、一瞬ビクッとなった。
「タンダさん。なにもそこまで」
「いや。ルークのために翼宿は怪我をしてしまったのだから、それをきちんとわからせないといけない。
ルーク、外に行って二頭の駿馬に頑丈な蹄鉄をつけてもらうよう、弟に言ってきてくれ」
「タンダさん?」
小帆が不思議そうな目をすると、彼は首を振った。
「これくらいの御礼は当然の物として受け取ってくれないか。
うちの駿馬といえば自慢の双肩でな。西国の汗血馬などより足は頑丈な上、早い。
平地でも、山道でもよほど起伏が激しくない限り大丈夫だ。
……先を急ぐんだろ?」
井宿たちは頭の下がる思いだった。
「あ。いや、でも俺、動けんで、今すぐはちょっと……」
「そうよ。だから大事な駿馬を下さるんでしょ?」
「さよか」
さらに、彼は少し待っていろと席を立った。
そうかからずに天幕にまた戻ってくると、その手には小さな小瓶が乗っていた。
「それは?」
井宿が尋ねると、タンダは小瓶の栓を取った。
「万能薬のようなものだ。どんな傷にも効く。
ただ、一年草のそれも珍しい類の花からわずかに取れる蜜でな、なかなか手に入らない。
何かあったときのためにと、みんなで集めていた物だ」
言うと、彼は小帆にそれを渡した。
「使ってもいいの?そんな大事な物」
「構わん。いや、できれば、持っていってくれないか?」
「え?」
「俺たちの分はまた集めればいい。これはあんたたちにやるよ」
「ほんまにええんか?」
「あぁ。それに特にお前みたいなのがいたんじゃ、いろいろと要りようだろ」
ガクッと翼宿の頭が下がった。
「なんや軫宿みたいこと言わんでくれや……」
「あははっ」
「こら、小帆!笑うな!」
と言っても無駄なのは本人もわかってはいた。
さらに、井宿や当のタンダまでも笑ってしまったものだから手に負えない。
「けっ」
彼はすっかりふてくされて布団に潜り込んだ。
が、しかし、背中に傷があることを失念していた彼は、その瞬間布団に背中がすれた痛みに激しくもだえたそうな。
翼宿がどうにか馬にまたがれる程回復するまでに、タンダたちは当初の南下の予定を中断して、
集落ごとある程度北上してくれていた。
そのお陰もあって、彼らと別れた翌日の今日には既に特烏蘭は目前だった。
参考までに例の雪女の伝説の発信地を訊いてみたところ、
この特烏蘭は北にそびえる氷雪の山、黒山だというではないか。
「あそこは昔……あぁ、そうか。あんたらがその当事者なんだよな。
朱雀七星士が玄武の神座宝を求めて、山頂の洞窟に入ったのを最後に、その後は誰も山頂には近付いていないそうだ。
ただ、最近になって妙な噂があってな。吹雪の夜になると、ときたまあの山に火の玉が現われるらしい。
こんなに風が吹いているのにって、みな町からその火を見るだけで恐ろしくて近づけないそうだ」
こんな事をタンダから聞いていたせいか、小帆はなんとなく表情が硬かった。
「例の雪女、つまり刹火がいるかもしれんってことやな」
「なのだ。つまりはあの山が刹火の根城というわけなのだ」
「……ねぇ、二人とも怖くないの?」
『え?』
なんで?という顔である。
「だって、ただ名前がたまたま同じで刹火かもしれないってだけで、
もしかしたら本当はまったく別人で、本当に本物の雪女かもしれないんだよ?」
「……そんときはそんときや」
「えぇ〜!?」
「じゃかわし。ホンマにホンマの雪女やったら、俺の炎で消し飛ばしたるわ」
半分嘘だったが。
翼宿が自分より弱い女性を相手に、本気で切りかかれるような無差別な男ではないことくらい小帆にもわかっている。
つまりは雪女、もとい刹火がが彼よりも実質弱ければこの発言は嘘になるといっていい。
でも、彼が小帆を安心させようとしていった言葉であることは、彼女にもわかっていた。
「ありがとう」
適当な宿を見つけた時点でも、まだ日は高かったため、
小帆と井宿とで町に出ることにした。
まだ、刹火や雪女に関する情報が曖昧だったためだ。
情報収集するのには現地人をあたるのが一番合理的である。
「じゃぁ、翼宿。行ってくるね」
「おう。なるべく早う帰ってこいよ。ここらへん、妙な奴がごろごろしとるさかい」
「大丈夫なのだ。オイラがついてるのだ」
「ある意味井宿じゃ、なんやかえって頼りない気するわ」
むかっ。
「じゃ、翼宿ならゴロツキに絡まれても騒ぎ起こさないというのだ?」
「いや。俺やったら騒ぎんなっとる前に、全員あの世に送ったる」
「ダメじゃん」
「やっぱ、オイラが行ったほうがいいのだ。
それに翼宿はまだ怪我が完治したわけじゃないのだ」
「なんや、人をずっとお荷物みたいに言いおって」
この時、小帆は彼の表情に嫌な予感を覚えた。
一方、井宿はどこ吹く風。
いつものことのように軽く対応した。
しかし、その話した内容がなにやら含んでいたのだが。
「しょうがないのだ。軫宿がいるわけじゃないんだし。翼宿は来ないほうがオイラも助かるのだ。
とにかく今日のところはおとなしく宿で待ってるのだ」
「おうおう!どうせ俺は荷物や。とっとと行ってまえ。できるんやったら二度と帰ってくんな」
子供のような捨て台詞を背に、井宿は無言で部屋を去った。
「あ。ちょ……まって!」
小帆も慌てて後を追う。
「ねぇ、井宿。あんなこと言ったら翼宿が逆上するの当たり前じゃない。いいの?」
「……いいのだ。小帆は気がつかなかったのだ?」
「え?」
井宿の顔はいつもの笑顔のまま、しかし、やれやれとでも言いたげな表情だった。
「馬に揺られて、だいぶ無理をしたのだ。翼宿の気が立っているのもそのせいなのだ」
「そういえば、この寒いのに汗かいてたような……」
「まぁ、この機会に少し頭を冷やすといいのだ」
「……なんか井宿、怖い」
「なのだ?」
やはり、彼らの口論は互いの心労がぶつかった結果だったのではないか。
小帆はなんとなくそんなことを思った。
しかし、それは違った。
この時、彼らの見えないところで既に何かが動いていたのだ。
それを微妙に感じ取っていたのはわずかにこの時冷静でいられた小帆だけ。
それというのも、その何かの目的というのが彼らの分散。
つまり、今の状況そのままだったのだから。
それは雪の魔性の誘いだったのか、はたまた炎の化身のなせる業だったのか。
なんにせよ、小帆の見ている前で唐突にそれは起こった。
おそらく、本人たちもなぜ自分たちがこんなに気が立っているのか、自分自身わからなかったに違いない。
しかし、こんなとき立ち直りの早いのも翼宿の長所だった。
「なんや、ああは言ったけど、ひとりんなると暇やなぁ〜」
井宿のやつも、なんやてあんな言い方したんやろ。
いつもやったらもっと何か考えて物言うと思っとったんやけどなぁ。
この思考からして、彼が数秒前の喧嘩を別段気にしているわけでもないのは明らかだったが。
「……つっ!?」
あかん、やっぱまだ治っとらん。
服にすれるだけでも痛いっちゅうに、ずっと馬に揺られてたからな。
前やったら、軫宿の術ですぐ治ったんやけど、流石に今はもうおらへんし。
……はぁ。と、ため息をついて、うつぶせに布団に伏した。
「……痛いけど、それ以上につまらん」
酒でも飲んだろか。
そうすりゃ、気がまぎれて少しは痛みマシになるんちゃうやろか。
不意にそんなことを思い、ついでにこの宿の下がちょっとした居酒屋だったこと思い出した。
「いかがなさいました?」
下へ降りていく途中、すれ違ったのはどうやらここの従業員のようだった。
まだ若い、というより幼さの残る団子頭の女性である。
「お連れ様は、たった今出て行きなさいましたよ」
「いや、それはええんや。俺は留守番やさかい。なぁ、酒貰えんか?」
「あぁ。はい。よろしゅうございますよ。お部屋にお持ちしますか?」
「おう。頼むで」
「……はい。では、後ほど」
片手を上げて元来た部屋のほうへ歩んでいく翼宿はこの時、
店の娘が頭を下げたその下で薄く笑っていたことを知る由もなかった。
「なかなか、集まんないわね。情報。結構いけると思ったのにな」
「まぁ、はじめはこんなもんなのだ。というか、ずっとこのままではどうもらちが明かない気もするのだが……」
情報が集まらないどころか、町民はどうも、
雪女や刹火という名を聞いただけで口を閉ざしているように見えるのだ。
「まいったな。このままだと日が暮れちゃうよ」
「なのだ。翼宿にああ言った手前、結局何もわかりませんでしたなんて言えないのだ」
「まぁ、ね……」
しかし、やはりこのままでは効率も悪い。
「ねぇ、井宿、いっそ手分けして情報集めない?」
しかし、
「ダメなのだ」
と、彼が言うのはなんとなく小帆もわかってはいた。
「ちぇ」
「口を尖らせてる暇があったら……」
井宿は言いかけて自分の手で口を塞いだ。
「……どうしたの?」
小帆が訊くと、井宿は眉をひそめた。
「なんかオイラおかしいのだ。今、小帆に強い口調で何か言いかけたのだ」
「そう?気にしてないけど……?」
「……」
やはり、宿の時といい、何か近くにいるのだ。
井宿は行き交う人を、ひとり残らずじっと忍び見た。
「……井宿?」
しかし、誰からも邪気は感じられない。
気のせい……なのか?
「……なんでもないのだ。さ、日が暮れてしまうのだ。頑張って情報集めるのだ〜!」
「だ〜!」
気合を入れなおしたその時である。
「なぁ、あんたらかい?雪女について訊いて回ってるってのは」
「え?」
小帆が振り向くと、三十代前後の人の良さそうな男性がいた。
「そうですが、なにか?」
小帆が答えているときに、井宿が警戒して彼女の手を掴んだ。
「あんた、保護者かい?ここらじゃ、見ない顔だね。旅の人かい。
だったら警戒するのも無理はないか。俺は近くの道具屋で働いてるカデルってんだ。
地元じゃ、情報屋って意味でカルフォって呼ばれてんだがな」
「はぁ……?」
「いや、早い話、例の雪女のことについて知りたいんだろう?」
「はぁ、まぁ……」
小帆は、さてどうしたものかと、井宿を見上げた。
井宿は、何も言わずカルフォという男の出方を窺っているように見えた。
「あらあら。俺ってそんなに怪しいかな?これでも風貌にゃ結構自信あんだけどなぁ〜」
いや、十分怪しいと思うんだけど。しかも、風貌って……そんなによくないんですが、あなた。
小帆は冷静に心の中でつっ込みを入れた。
しかし、そんなことなど知らないカルフォはまたなにやら言った。
「ねぇ?君はわかるよねぇ〜」
わかりませんって。
特別小帆に顔を近づけて言ったものだから、余計怪しさ大爆発である。
しかし、どうも彼の中で勝手に話は進んでいるようで、
「そうだよ。君はものわかりがいいから、君にだけ教えてあげるよ。ね?」
「え?」
カルフォはそういうなりガッと小帆の手を掴んだではないか。
「ちょっ!?なにす……」
「いいでしょ?ほら」
「嫌だ!ち、井宿……」
しかし、井宿が繋いでいた手が彼女を引き戻すでもなく、なんとあっさり放してしまったではないか。
「なっ!?」
な、なんで……!?井宿!?
このままじゃ、私連れてかれちゃうよ……っ。
小帆の心臓は高鳴った。
しかし、井宿は尚もその場を動こうとしなかった。
「無駄だよ……」
不意に耳に届いたのは、カルフォの低い声だった。
「え!?」
その口は薄気味悪い笑いが浮かんでいた。
「何を言っても彼は動けないさ」
小帆はぞっとなった。
さらにカルフォは井宿から手が届かないのを確認するように、立ち止まって振り返った。
小帆はその間もずっと助けを求めるように井宿のほうを見たままである。
カルフォは開いているほうの手をパチンと鳴らした。
すると、井宿の体がその場に崩れ落ちる。
「!?」
彼のその背中を見て、小帆ははじめて気がついた。
井宿の背に何か、ある。
「氷の矢……」
そして、それは透き通った血に染まっていて……。
絶句した小帆の反応を楽しんでいるのか、カルフォはくすくす笑った。
「教えてあげるよ。伝説の雪女は生きていたんだ。ただ、伝説どおり体はとけてしまった。
だから形はない。でも、いるんだよ。時には誰かの身体をのっとったり、真似て雪でこしらえた身体に入ったりしてね。
時には誰かの頭をコントロールしたりもするのさ」
しかし、小帆の耳はこの時機能していなかった。
井宿……。
嘘。
こんなの……うそだ。
「いやぁ !!」
崩れ落ちそうになった彼女の身体をカルフォは無理矢理起こした。
「ほれ、とっとと来い。火妖鬼様は巫女をご所望なんだから」
「やだ、やだ!井宿ぃ!!放してっ」
「こらっ。暴れるなって」
小帆はどうしても井宿に駆け寄りたくて、とっさに彼の手に噛み付いた。
「あだっ!?何しやがる!!」
男性の大きな拳が、小さな小帆の顔に降りかかったときである。
「そこまでなのだ!」
当たる前にその拳を受け止めた者がいた。
「なっ……」
次に絶句したのはカルフォのほうだった。
「井宿!?」
井宿は泣きじゃくった小帆の顔を見て、にこっと笑んだ。
しかし、それは一瞬のことで、井宿は放心したカルフォの手から小帆を引き離すと、自分は男のみぞおちを一打。
カルフォはその場に気絶した。
「ち、井宿……なの?え?どうして??」
混乱する小帆を尻目に、井宿は気を失ったカルフォの頭のところで印を組んだ。
「やっぱり。操られていたのだ」
「ねぇ!」
「だっ!?」
あんなに泣きじゃくった手前、突然現われた当の本人に無視され、小帆は若干ふくれた。
井宿は誤魔化すように頭をかいた。
「あ、あぁ……。ごめんなのだ。それは幻覚なのだ」
井宿が念を切ると、井宿の姿をして倒れたいた物は実はただの店のたて看板だったのだとわかった。
それに氷の矢が深々と突き刺さっていたのだ。
「あの男が現われた瞬間、空気が変わったので、隙をみて術を……」
「……」
「……だから、ごめんなさいなのだ〜……」
小帆は、しばらく井宿を睨んだ後、はぁっと息を吐いた。
「どうせ、敵を欺くにはまず味方からっていうんでしょ?」
「だから、ごめんって言ってるのだ……」
「もういいよ。……無事でよかった」
「小帆」
小帆は看板に刺さっていた矢をぐっと引き抜いた。
とんでもなく鋭く、長い矢先。
こんなものが本当に刺さっていたら、間違いなく心臓を貫いていたはずだ。
しかし、それは少しすると彼女の手の中で透き通った音を立てて弾け、消えてしまった。
「小帆、宿に帰るのだ」
「うん」
カルフォはあながち、その名を裏切ってはいなかった。
彼は確かに雪女の本性を教えてくれたのだから。
小帆と井宿の思い至った考えは同じだった。
自分たちに雪女の魔の手が降りかかったのである。
だとしたら、宿でひとりでいる翼宿などはもっと襲いやすいはずではないか。
……翼宿が危ない。
「お酒をお持ちしました」
「おう。すまんの」
(update:04.06.20)