「翼宿!」
「翼宿どこ!?」
宿に戻り、いきおいよく戸を開けたふたりだったが、その中をみて愕然とした。
小帆が一度部屋を出て、再度自分たちの借りた部屋であることを確認するほど、
できれば信じたくないできごと。
それが、自分たちが留守にしているほんの少しの間に起こった。
「まだ温かいのだ」
かと言って、部屋の内部が荒れていたかというとそうではない。
極めて閑散とした部屋の中央に一対の机と椅子。
椅子の温みを確かめ、井宿は呟いた。
小帆は念のため、隣に借りていた自分の部屋のほうへ言ってみる。
が、やはりそこによく見知った人物の影はない。
「きっとまだそんなに遠くへは行ってないのだ」
しかし、少なくとも、この宿にはいない。
小帆の目から、涙がつたった。
「小帆?」
一瞬面食らった顔になった井宿だが、そこはそれ。慣れたように彼女の肩を温めた。
「大丈夫なのだ。鉄扇も残ってないし、翼宿が持っていった証拠なのだ。
今頃どこかで戦っているかもしれないのだ。だから、泣いてる暇はないのだ。
はやいところ、翼宿を助けに行くのだ。ね?」
「うん……」
むせび泣く彼女の嗚咽が、ただ静かな部屋に吸い込まれた。
尚も泣きやむ気配のない彼女に、困ったような表情になったのは、
実は井宿だけではなかった。
「小帆、翼宿は無事ね!」
「にゃ、娘娘!?」
これに驚いたのは、娘娘の入っている首飾りをつけていた小帆ではなく、
突然双方の間に割って入った娘娘を見て目を丸くした井宿であった。
「娘娘……、今のほんと?」
「ホントね。それより、娘娘しばらく留守にして悪かったね」
留守。
そういえば、確かに彼女の声を小帆は随分と久しぶりに聞いた気がした。
時間にして、倶東国を出て以来かもしれない。
ほっと、自分の心が落ち着くのがわかった。
それは一重に娘娘のもたらした翼宿の無事の報せと、彼女の声そのものの効果だった。
「娘娘がどうしてこんなとこにいるのだ?」
そんな中、諸事情により太極山へ赴いたメンバーではなかった井宿ただひとりが、
なんとなく蚊帳の外にされた。
「あ。井宿、戻ったね。娘娘、信じてたね」
やや、時差のある会話になりそうだったので、井宿はそれを苦笑して受け流した。
「娘娘、もしかして翼宿のいる場所わかるのだ?」
井宿の問いにはっとなったのは、小帆だった。
娘娘は小さな口をにこっと曲がらせる。
「娘娘、今まで太極山にいたね。だから、そこから見てたね。
ふたりとも今すぐ黒山に行くね!翼宿はそこね」
「小帆!」
井宿が声をかけたときには、小帆の涙は引っ込んでいた。
「うん。はやく行かないと!」
「なのだ!」
「そうじゃないと、また何言われるかわかったもんじゃないもんね」
「なのだ〜……」
彼らの中で、翼宿に会ったときの彼の第一声がなんなのか、はっきりした。
おのれら何しとったんじゃ!遅いわ、ボケェ!
これに限る。
時間にして井宿らが街中で奇襲を受ける数刻前、場所は宿。
翼宿は丁度、店の娘に酌をしてもらっていた。
無論、ひとりで酒をあおりたかったわけであるから、そう言ったのだが、
彼女は叱られますのでの一点張り。
接待を仕事としている身である娘に、これ以上強くいえるわけもなく、
女将にとやかく言われるとなれば、同情の余地もあった。
「一杯つきおうてくれればそれでええからな。今日はひとりになりたい気分なんや」
「何があったかはお聞き致しませんが、そういきり立っていては、
美味なる酒も不味くなりましょうに」
「ええやん。やけ酒や。たまにはこういう酒も美味いんや」
「左様でございますか」
「あんた見たところまだ子供やな。大人ぶっとるけど、所詮十四、五才やろ?
この味は、大人になってみんことにはわからんて」
「まぁ。でも、お酒は飲んでも呑まれるな。とも言いますけれど?」
「その年で結構言いよんな〜。ま、そういうアホもおるってこっちゃ。
俺はそんなんちゃうけどな」
「そう……でございますか?」
「そうや!」
クスクスと笑う娘の仕種は、なんとも可愛らしいものだった。
「ん?なんや、この酒生ぬるいやんか」
「あら。どうしましょう。熱燗がよろしゅうございますか?」
「いや、ええわ。まだ日も暮れとらんし、あつ〜いんは、こう……夜にくっとやるのが一番なんや。
今は冷たいのを一気にかっこみたい気分なんやけどな」
「あらあら。こんな寒い日に珍しいこと」
「……ええやん。俺の勝手やろ」
「わかりました。失礼します」
娘は椅子に座った翼宿の後ろに回ると、なんや?といった顔の彼の肩の上に顔を出し、
彼の持った酒にふうっとふうっと一息。
「アホ。そんなんで冷めるかい」
「冷めましたよ」
「……あ。ホンマや。ちょうどええくらいやな」
そして、彼女はまたクスクスと笑う。
しかし、今度のはなんとなく大人のそれのようで、しとやかだったように見えたが、
翼宿からはその手の陰に隠れた口の端が、極めて極端につりあがったことをうかがい知ることはできなかった。
「もうええやろ。また、酒なくなったら呼ぶよって」
「ええ。そうですね。そろそろよいころかと」
その言い方に含みがあったのに、翼宿は一瞬気付くのが遅れた。
娘の顔は消えゆく寸前、勝ち誇ったように笑んだのだった。
頭が痛い。まるで二日酔いのそれのようだ。
こういうとき起きるのがことのほか面倒なのだが。
「……っつぅ〜!」
やはり、起き上がった拍子に頭の中で波が起こる。
これといってどこが痛いのか、わからないままに後頭部を半ば反射的におさえた。
頭の痛みとは裏腹に、視界と記憶がしばらくあやふやにめぐった。
ふわふわ浮かんだような感覚の中で、かろうじて呟いた。
「あ、あの女。酒になにか入れおったな……」
やられた。と彼は思った。
考えてみれば、特烏蘭は天敵の根拠地ではなかったか。
正確にはまだ掴めてないにしろ、奴がこの地に根城を構えていることはおおかた見当のついていたことである。
さらに、それよりもまたはっきりしていたことが、ひとつ。
奴の狙いは当初から巫女ではあったが、その実、この自分を目の仇にしていたふしがある。
雪女の伝説を聞いてからは尚のこと、その理由が見え隠れし始めた。
そんな折に、何故自分は自らひとりとなるようなことをしたのか。
あんな喧嘩、いつもなら軽く受け流すものだったはずなのだが。
いずれにせよ、翼宿はむしろ、自分が危険であることに気がついて尚、
今心で思ったのは、小帆たちの身に何か起こってないかということ。
事実、標的である己の身には、これこの通りその“何か”というのは既に起こってしまっている。
だが、自分の事と違い、今目に見えぬ仲間の安否が気遣われた。
それは、彼にとっては極当たり前のことであるが。
……にしても、真っ暗やんけ。
視界どころか、自分の身体さえも闇の衣を纏っている。
慣れてきてもせいぜい、一寸内が見れれば良い程度。
それに、なぜかここはひどく空気がこもっていた。
湿り気がないのがせめてもの救いであるが、
なんとなくどこにでもあるような牢屋を連想させる雰囲気だ。
ふいに背中に手をやると、慣れた感触。
「!」
なんや、鉄扇あるやん。気ぃつかんかったのかいな。
普通ならば武器になりそうなものは、根こそぎとられていても不思議はないはずなのだが。
「まぁ、ええわ。烈火神焔っ」
松明程度に炎を展開した。
すると、やはり始めに輪郭をあらわにしたのは岩のごつごつとした表面だった。
思ったとおり、ここは少なくとも先ほどまでいた宿などではなく、
見る限りどこかの洞穴のようだった。
その証拠に松明代わりの鉄扇を様々な方向にやってみると、目の前にはこれまた大きな岩。
そして、自分の真後ろは案外奥いきがありそうな岩の道が続いていた。
なるほど、洞穴に俺を放り入れ、出口を塞いで閉じ込めたっちゅうわけかい。
「へんっ。みとれよ!こんな岩、俺の烈火神焔で粉々に砕いたるわ!!」
言うが早いか、彼はそのまま岩に向かって構えると、松明の炎の火力を上げた。
「烈火っ神焔!!」
今更彼の炎の威力は言うまでもなく、凄まじいいきおいで岩を覆っていく。
しかし、岩は直径にして彼の軽く三倍はあったのだ。
流石に、ちょっとやそっと火であぶったくらいではびくともしない。
「くそぉ!」
尚も諦めず、火力を上げようとすると、翼宿ははっと顔をこわばらせた。
空気が……。
残念ながら、この洞穴はさほど大きくもないらしい。
奥いきがありそうだと睨んでの炎だったのだが、
出入り口がこの岩のはめ込まれたここただ一箇所だとしたら、
炎を起こしたことにより、酸欠になるのは必至。
翼宿は仕方なく、手を下ろした。
はぁ……。はぁ……。
汗もさることながら、この状況で酸素が足りないのはもはや命取りになりかねなかった。
「くそ……どないしたらええんじゃ」
こんな大岩、掘って進んだら何年かかるか。
やはり、おとなしく井宿たちが無事でいるのを祈り、
自分を助けに来てくれるのをただひたすら待っていることしかできないのだろうか。
半ば、諦めかけていたときである。
「いったいどこのどいつだ?この洞穴で火を焚いたバカは!」
奥からの声だった。
「!?」
翼宿は警戒して、とっさに岩陰に隠れた。
しかし、奥から歩いてきたのは雪女ではない。
手には酸素消費に支障ない程度のランプが、赤々とあたりを照らしていた。
人間……、それも男。
「あつっ!なんだよこの異常に蒸したような空気は〜……」
もうひとり粗暴な口調。しかし、こちらはひどくキーの高い声だが。
じっと見ていると、次第に輪郭がハッキリし始めた。
そのうち手前のひとりを、どこかで見た気がして、一瞬翼宿が油断したときだった。
「誰だ!!」
奥から来ていたもうひとり、声の高いほうが自分のいるほうを向いた。
同時に刃物が飛んできたかのような、一陣の烈風が翼宿の目の一寸先をかすめたものだから、
「どわっ!?なにすんじゃい!」
岩陰からとび出してしまった。
しかし、間髪いれず文句を言ったあたり流石といえよう。
「それはこっちの台詞だ。お前、こんなところで何してる!?」
近付いてきてわかったが、このどうも口ぶりが似合わない声の持ち主は、
どうやら女のようだった。
「おい?どうしたんだ?」
ランプを持った男も駆け寄ってきた。
すると、
「あ !!」
なんとも酸素を削るような絶叫をあげたものである。
「うっるせな!なんなんだ?こいつ知り合い?」
男は目を丸くしたまま頷いた。
一瞬遅れて翼宿もようやく、
「あ !!」
と、同じく声をあげたものだから、女は痛そうに耳を塞いだ。
「お、お前まさか」
男が言うと、はやり翼宿も言った。
「あ ……あんた誰や?」
ガクッ
男の体が崩れ落ちた。
「あのなぁ!お前、確か朱雀七星士だろ!?俺は虚宿だ」
「あぁ!あ……あ〜。あ??」
「……ダメだこりゃ」
「あぁ!!」
「思い出したか!?」
「おお!思い出したで!そうや、お前いつか黒山で会った……」
「うんうん」
いいぞ!っという感じで虚宿が頷くが、
「そうや!むっつりすけべ……」
最後まで言わせず、無言で矢を射た。
「俺は助平じゃない!!」
「……軽いジョークやんけ」
矢は、翼宿一寸横の岩に突き刺さりビィーンと、上下に揺れていた。
「つまり、あんた朱雀七星士のひとり翼宿なんだな」
「せや。……えっと」
「……女宿だ」
「女宿、お前さんも玄武七星士のひとりなんやな」
「そうだ」
「あ、おい。ひとこと言っとくけど、こいつに女に対する礼儀は不要だぜ?」
「なんでや?まぁ、女にしてはやけに乱暴な言葉やけどな」
「なんででもだ。そんなことより、朱雀のお前がなんでこんなとこにまた来たんだよ。
もう、神座宝だって渡しただろ?それに、時間的に考えたってお前がまだ生きてること自体、
おかしいじゃないか!」
「それ言ったら、こっちかてそうや。なんで、お前がまだこんなことおんねん?
もうとっくに成仏したはずやろが。しかもなんや見慣れん奴まで一緒におるし」
「そんなの俺だって訊きたいね」
「なんやそれ」
「とにかくお前の話、先に聞かせてもらおうじゃないか」
「なんや、えっらそうにいいおってからに。なんやったら、
そこのねーちゃんにあんときのこと詳しく教えたってもええねんで?」
「え……?」
翼宿は言うなり、女宿のほうへいくと、あることないこと……。
当の女宿も、それに面白そうにのったものだから、
「わかったわかった!!わかったから!あることないこと吹き込むのはやめろ〜っ!!
俺のイメージに関わる!!」
とうとう彼が先に折れたのだった。
話ははやり五十年前に遡った。
理由はわからないが、あの時成仏して後、斗宿はやはり転生し、自分も転生したはずだったのだが、
前世の魂だけが今夢遊病のように抜け出して、ここに姿を現しているのだという。
「なんや、軫宿んときと同じやな。そんなら、お前は?」
「俺は……よくわからない。目が覚めたらここにいたんだ。
でも、転生したっていう漠然とした記憶はあるから……やっぱ、虚宿と同じなんだと思うが」
「なんやはっきりせんな」
「そういうお前はどうなんだよ」
虚宿に言われ、翼宿は今日この日まで道々何度も説明してきたことを、また話した。
話しながら、彼はもしかしたらと思った。
彼らが今ここにいる不思議を、なにより知っているのは翼宿だった。
「……じゃ、もしかしたら、その巫女を守る四方の二宿のうち、北の二つは俺たちかもな」
一通り聞いてから女宿が言った言葉を、誰も否定しなかった。
「小帆はさみしい子供やった。……けど、今は頑張ってるんやで。
ここまで何度も泣いたりしてきたけどな。どんどん強うなってくのがわかるんや」
虚宿と、女宿は顔を見合わせた。
ふたりとも同じ物を連想して懐かしそうに笑んだ。
「わかってるさ。俺たちだって、もう昔話になっちまうけど、お前たちと同じように旅してまわったんだ」
「巫女を守るために、巫女と一緒に、な」
「俺も巫女守りたいって必死やった」
三人の顔が不意に合い、お互いにふっと照れくさそうに笑んだ。
「!?」
そのとき、翼宿は急に立ち上がった。
「どうし……」
「来た。小帆と、井宿の気や!」
「お前を探してか?」
「せや。せやったわ!ここ、いったいどこなんや?」
「どこってお前、ここは黒山にあるもうひとつの小さな洞穴で……」
「黒山?黒山やて!?虚宿、ホンマかそれ!」
「あぁ、俺たちも気付いたらここにいて……まさか、お前が目が覚めたのと、
俺たちが目覚ましたのって……」
「あぁ。同時やったかもしれんな」
「雪女……」
不意に女宿が、先ほど翼宿から聞いた言葉を呟いた。
「なんや!?お前知っとるんか雪女のこと!」
「……確証はないけどな。けど、話はここを抜けて、お前の仲間とやらに合流してからにしようぜ」
「おい、でも女宿、俺こんな大岩砕く自信ないぜ」
「俺も神焔でやってみたけど、案外しぶといでこいつ」
「あぁ、俺の風も流石にこの厚さじゃ一筋縄ではいかないだろうな」
虚宿は「?」という顔になるが、女宿は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「俺にいい考えがある。俺たち三人でないとできないことだ」
言い換えれば、この三人ならではということか。
何にせよ、小帆や井宿、これは補足だが娘娘もこの黒山の頂上に近付いていたことに間違いはない。
刹火という名かもしれない、雪女という存在は、このときわずかに軋んだ雪山の音になんともいえぬ快楽を覚えた。
その笑みは、冷たい氷のようでいて、人で遊ぶ快楽と優越感に満ち満ちた笑みであった。
第二十一話に続く。
(update:04.07.25)