国越えもいよいよ国境を過ぎると、北の気候の示すようになっていった。
四季のめぐりが歴然としている、比較的暖かい気候の紅南国と違い、
ここ北甲国は一年中寒い風が吹き、そのほとんどが氷雪に覆われている。
防寒着を重ねたところで、やはりいきなりの気候の変化というのは身体的に旅人の体力を奪った。
「……あかん。こんな気候の中で野宿したら死んでまう」
「どこかに旅商の集団か何か通っていないのだ?」
日も傾きかけ、そろそろ就寝場の心配をしなければならなかった。
「……寒い」
小帆ははぁっと息をかじかんだ手の中に吐いて温めた。
翼宿と井宿も同じく吐く息は白い。
雪こそ今は見かけないが、これから北へ行けばおのずと白い景色が見えてくるのはわかっていた。
しかし、おおかた町のひとつもここら辺にはなく、それもどうやら雪のある場所に限定されるらしかった。
ここはひたすら、青い草が冷風になびく大草原。
周りを見る限りでは、今日中に町のあるところまでたどり着くのは不可能だった。
「うぅ……。寒い。ねぇ、翼宿その鉄扇で火焚いて?」
「アホか。これは、んな事のためにあるんやない」
小帆はむーと頬を膨らませた。
そんな時、不意に遠くを見ていた井宿が言った。
「あ、あそこにテントがいくつか張ってあるのだ」
「ホンマけ!?いやぁ助かったわ」
「今夜はあそこになんとか泊めてもらえればいいのね」
「そういうことなのだ」
北甲国はこういう気候の国だから、旅人同士が自然と寄り集まって助け合うという習慣があった。
それが大きなキャラバンともなると、小さな旅商がいくつか集まった結果に出来た運命共同体。
旅は道ずれ世は情けというわけである。
最もこれは、年間を通して乾いた気候の続く西廊国でも、同じようなものだったが。
何にせよ、気候の厳しい国での旅に助けは要るもの。
こういうとき人の恩恵の有難さを感じるというものだ。
「よっしゃ。待っとれ。俺が先行って話つけたるさかい」
よほど野宿が嫌だったのだろう。
勇んで馬を走らせた彼を、しかし、井宿が呼びとめた。
「翼宿」
「なんや?」
「その顔で脅しちゃだめなのだ」
「誰が脅すか!!」
毎度の掛け合いも通例で、翼宿は「お前らはゆっくり来いや」と言い残すとそのまま地平線目掛けて走って行った。
「大丈夫かな」
「多分大丈夫なのだ。オイラたちはゆっくり行くとするのだ」
カッポカッポと井宿の操る馬の歩みはなるほど緩やかだった。
もともと旅の目的地ではなく、その過程を楽しむところのある井宿の物見遊山の癖に翼宿は付き合ってられないのだろう。
だから、彼は単身先へ行くと言い残して、久々に風を感じる爽快感を味わっていた。
「ったく。いちいち人相悪いやの、口が悪いやの言いおって。言われとるこっちの身にもなれっちゅうんじゃ」
風を切って走ってみると、はるか遠いと思っていた野営地は予想していたよりも早くに視界に展開した。
規模で言えば大体四、五世帯は一緒に旅をしているものと見た。
やや小さいほうであるが、これだけの規模があれば一晩くらいならば寝場所を提供してもらえる。
翼宿が馬足をやや緩め、井宿に言われたことを気にしてか一応顔を意識してその場に近付いていった。
すると、どれかの世帯の母親らしき中年の女性が、洗濯をしていた水瓶から視線をこちらに移した。
馬に乗ってこちらへやってくる翼宿に気付いたのだろう。手を休めて彼を見た。
「あの……」
しかし、翼宿が何か言う前に女性は、「ひっ」と短い悲鳴を上げたのだった。
「なっ……!?」
すると今度はテントの中から出てきたその夫らしき男が、やはり同じように彼を見て息を呑む。
「な、なんや……?」
そんなに怯えられるような顔はしてないだろう。と、翼宿は思いつつも居心地悪そうに馬を下りた。
しかし、翼宿が近付くと婦人は夫の影に隠れ、夫はそれを庇うように前に立って、なんと釜を持ち出したではないか。
「な、なんや!?俺まだ何も言うてへんぞ」
いくらなんでもこの反応は異常だと思った。
男の釜を持つ手は震えている。翼宿はわけがわからず、ただ呆然とその様を真っ向から対峙して見ているしかなかった。
ややあって、ようやく決心のついた男が、やはり震えた声でこう言った。
「ま、また、性懲りもなくき、きやがったな!!」
「……は?」
翼宿の目が点になるのも当然で、またもなにも今日彼はここに始めてきたのである。
「また……て俺は今日はじめてここに」
「う、うるさい!」
「ええから聞けや!俺は今日はじめてここに来たんや。あんたたちと会うたのもこれがはじめてや!」
「う、嘘つくな!!」
「嘘やない!!」
「こ、この間俺たちにしたこと、忘れたとは言わせないぞ」
「はぁ??」
あかん。何言うても聞く耳持たんわ。
「せやから……」
「は、早くここから立ち去れ!カヨーキ!!」
かよーき?
翼宿が頭に?を浮かべていたその時、井宿たちはまだ若干離れた場所にいた。
しかし、井宿は不意に野営地のほうに異様な雰囲気を感じ取った。
「小帆ちゃん、起きるのだ」
馬の蹄鉄の音が催眠効果をもたらしたのだろう。いつの間にか眠ってしまっていた小帆を起こした。
「ん?なに?どうしたの」
「ちょっと、走るのだ。なんか様子がおかしいのだ」
言うと、彼は翼宿が走って行ったのと同じ方向に馬を走らせた。
井宿たちが野営地に着くと、小帆の目に妙な光景が飛び込んだ。
「え?なにあれ」
「翼宿!これはどうしたのだ!?」
いくつかある世帯の大人がどうやら全員出てきたらしかった。
はじめに翼宿と対面した夫婦を筆頭に、十数人の男女がよってたかって武器を片手に、
翼宿をもと来たほうに追い詰めていたのである。
「どうしたもこうしたも。こいつら俺のこと見た途端武器持って集まってきおったんや」
「翼宿、何かしたのだ?」
翼宿の横で馬から下りながら、井宿は言った。
「アホ!何もしとらんわ!」
「でも、だったらなんで?」
小帆の問いに、しかし、翼宿にはさっぱりという顔をした。
「こいつら、なんや知らんけど、俺のことさっきからカヨーキ言うんや。
俺、そんな名前やないって何度も言うとるんやけど、全然聞く耳持たへんねん」
「カヨーキ?人違いなのだ」
「せやから、そうやって何度も言うてる言うとるやろ」
「それにしても妙なのだ。翼宿に似た人がそうそういるわけないと思うのだ」
「……それ、褒めてるんかけなしてるんかどっちや」
翼宿の文句を尻目に、井宿は釜や包丁といった日用品を武器に構える彼らのほうに歩み寄った。
「お、お前も仲間か!?く、くるな」
「すみませんが、人違いではないのですか?」
「人違い?」
「彼はカヨーキじゃなくて翼宿という名前で……」
「うるさい!!」
この中では一番気性の強そうな大男が、言った。
「間違えるわけないんだよ!二日前に突然やってきて、その背中のヘンな武器で火を出して、一瞬で俺んち灰にしたのはお前だ!!
お陰で今年三つになる俺の息子は顔に火傷負ったんだぞ。人違いでたまるか!」
『なっ……!?』
翼宿たちの息を呑む音が重なった。
「お、俺、そんなことしとらんぞ!?」
「で、でも、今あの人翼宿の鉄扇のことまで言い当てたよ……?」
すると、井宿も眉をひそめて彼を見た。
「あー!!こらぁっ!何お前まで俺のこと疑っとんねん!」
しかし、確かに男は翼宿の鉄扇の効力まで言い当てたが、二日前と言えば実際翼宿は井宿たちとともにまだ、
倶東国の道を旅していたころだ。そんな中、彼が遠く離れたこの地へやって来たなど有り得ないことだった。
「なのだ。やっぱり人違いなのだ」
「だったら、二日前に俺らのテント焼いてくれたあいつはどこだってんだ!!こいつに間違いない」
「だから、違うと言っているのだ」
しかし、こうなるとさらに妙だ。
二日前、ここに現われたという翼宿によく似たカヨーキという人物は、それだけに留まらず鉄扇まで使ったという。
世界のどこを探しても唯一無二のはずのこの武器をほかに扱える、否。それ以前に持っている人間など……。
そこまで三人は考えて、同時にある事実にたどり着いた。
「あ。まさか……」
小帆が言う。
「そのまさかかもしれんな」
翼宿が諦めたようにため息をついた。
いたのだ。今現在この世に思い当たる者がひとりだけ。
それは言うまでもなく、ただ似ているというのならまだしも、倶東国にいたころに襲ってきた翼宿の偽者。
奴は確かに翼宿を鏡に映したくらいにそっくりだった。武器までも同じ物を用い、口調も真似る徹底さである。
奴以外に考えられなかった。
まさかこんなところまで徹底して彼らの行くてを阻む敵であったとは。
「問題はそれを彼らにどうやってわかってもらうかなのだ」
「そうだね……どうしよう」
「くっそぉ。いったいなんやあいつ!俺をどうしたいっちゅうんじゃ」
自分によく似た人間が見えないところで悪さをはたらいたのである。
彼が頭をかきむしりたくなる気持ちもわからないでもない。
「とにかく、彼は二日前はまだ倶東国にいたのだ。オイラと小帆が証人なのだ」
「あんたたちに証言されてもなぁ。ここまでよく似てる人間がそうそういてたまるかよ」
「だから、それは偽者や」
「偽者だぁ?なんだってそんなもんがいるんだよ。もう少し気の利いた言い訳できないのか」
「言い訳やない。井宿、ええから説明したってくれ。俺が何言うても聞いてくれへん」
「仕方がないのだ……」
ここまで誤解されては、洗いざらい全てを話すしかないだろう。
全ては信じてもらえないとしても、このままにしてはおけないし、何より今夜の宿も諦めがたかった。
話し終えるとやはり反応は様々で、素直に受け止められない人間がほとんどだった。
それもそうだろう。少なくとも彼らの今見ているこの世界は、平和そのものなのだから。
いきなり、しかも彼らが南方朱雀七星士のうち二人なのだと言われて、すぐに信じろと言うほうが酷だ。
すると、野営地の中でも最も大きい屋根の天幕から、老人が出てきた。
皆はそれを見ると、「長老」と口を揃え驚いた顔になった。
なるほどこの一行の中では最年長なのだろう。それでも足腰がしっかりしているあたり、
さすが遊牧民の国といえた。しかし、それでも年のころはまだ六十そこらといったふうだった。
彼は皆をひとしきり見渡すと、おもむろに言った。
「その話、わしは信じよう」
途端、ざわざわと騒ぎ始めた彼らを尻目に、老人は翼宿たちの方へ歩み出た。
「翼宿どの。わしの親族が無礼をはたらいたようで申し訳ない」
「あ、あぁ……別に」
一礼すると、翼宿もつられて頭を下げた。
「お嬢ちゃんも長旅で疲れておるじゃろうて。無礼をはたらいたお詫びじゃ。今夜はここに泊まっていきなされ」
「え?」
「いいのですか!?」
井宿が驚いて言うと、老人はよいよいと手を振った。
「予備のテントがまだ残っているから、それを使うといい。ただ少し狭いがの」
「構いません。お心遣い、感謝しますのだ。翼宿もお礼を言うのだ」
「え、あ、おおきに」
続いて小帆も「ありがとうございます」と、この物分りの良い老人に感謝を述べた。
すると、彼のしわだらけの顔がほころんだ。
「本当に懐かしいのぉ。そうして、いつまでもあなたがたは変わらずにおられるのですな」
意味深な言葉を言い残し、有無を言わせる間もなく長老はそのまま天幕をぐくり、また中へ入っていってしまった。
例の大男がいても立ってもいられず、その後を追った。
「長老!良いのですか!?あいつは……」
「くどいぞタンダ!あの連中はそんなことをするような者たちではない」
「しかし」
「確かに翼宿どのは一見して強面じゃが、心の優しい青年じゃよ。彼らを信じて欲しい。これはわしの願いでもある」
男ははっとなった。
「そういえば、長老は昔子供の頃に朱雀七星士に会ったことがあるとか……」
長老はますます顔をほころばせる。
「彼らには言わないつもりじゃがな。おそらく覚えておらんじゃろうし。
それでも、こうしてまた巡り会えたのも何かの縁。少しでも役に立てるようにと思っとるよ」
「では、本当に彼らは」
「わしの記憶は確かじゃよ」
ここまで言われるとタンダと呼ばれた男も納得せざるを得なかった。
彼が認めると他の皆の理解も早く、なるほど老人が長老なら彼はこの集団を仕切る長なのだということがわかった。
不承不承ではあるが、お詫びだといって彼自身がテントを張ってやったのも、早急に誤解が解けた理由のひとつだった。
「なんや、すまんな」
「なんであんたが謝る必要がある?あんたは何もしてないんだろう」
「そやかて、俺の偽者がおったせいであんたの息子さんが」
「……それはあんたのせいじゃないだろう。幸い息子の火傷も軽い。焼失した財産もたいしてなかったしな」
「さよか……?」
「ただ、謝るくらいならあんたたち、俺の変わりにあいつを倒してくれないか?」
この時のタンダの目は、翼宿を仇としてではなく仇を討ってくれる人、
もしくは自分と同じようにその偽者とやらの被害者となった人として見ていた。
「あ、あぁ。俺かてあいつには借りがぎょうさんあんねん。今度会ったらただじゃおかん!」
「それを聞いて安心した。今夜はここでゆっくり休んでいってくれ。旅の健闘を祈るよ」
「おう。あんたも息子さん、大事にしたったれや」
「言われるまでもないさ」
タンダも話しているうちに、彼の本来の性格が見えてきたのだろう。
もう、あの時のような警戒心もなく、お互い手の甲をとんっと打ち合うまでに打ち解けていた。
「よかった。もう誤解は解けたみたいね」
「なのだ。でも、本当にけしからん奴なのだ。他人になりすまして悪事をはたらこうなんて」
カヨーキ。
発声がなまっているために正確にはわからないが、おそらくは今までの例からして四天王のひとりなのだろう。
わざわざ名乗っていったあたり、風殺鬼・功翔といい、これまたいい性格をしているとしか思えない。
今は、万全の態勢で奴を迎え撃つためにも、ここで休ませてもらえるのは嬉しいことだった。
小帆は女の子ということもあって、世帯を持たない女性だけが住まうテントのほうで休ませてもらうこととなった。
しかし、その晩彼女はどうしてか眠れなった。
昼間はあんなに眠れるのにな。
どうも最近自分の中で、昼夜の感覚がずれていることに気付いていた。
しかも寝たら寝たで、それがまた妙な夢を見る。
それは起きてしまうとやはり忘れているのだが、身体が異様な雰囲気だけ覚えているのである。
いつだったか、井宿の腕の中でうたた寝して、あまりにうなされるものだから心配になって彼が起こしてくれたこともあった。
しかし、夜は誰も起こしてくれない。
身体が無意識のうちに夜眠るのを拒んでいるように思えた。
考えて見ればはじめは野宿も怖かった。それこそ暗い闇の中で眠るなんて嫌だった。
けれど、翼宿や井宿がいてくれる。光がいてくれると思えたから……。
「……ダメだ」
どうしても寝付けない時に見る星は心を落ち着けてくれることを知っていた。
暗い闇でも、星が照らしてくれる夜は怖くない。
そう思えるから。
小帆は他の女性を起こさないように、そっと天幕をくぐって外に出た。
途端、冷たい夜風が肌を刺した。
「うわぁ……!!」
そんな中、空を見上げると見たこともないような満天の星。
一つ一つがやさしく地上を照らし出していた。
「綺麗……」
小帆は少し散歩しようと思った。
これだけ明るいなら怖くはない。
しばらく歩いて、小帆は翼宿たちの泊めてもらっている即席のテントのところに行き着いた。
中からは豪快ないびきが聞こえてきた。多分翼宿だ。
さぞかし井宿が迷惑こうむっているだろうと思うとおかしくなった。
そんな時、小帆は不意に水の滴る音を聞いた気がした。
こんなところに水なんてあったっけ……。
そう思い小帆は、確かひとり一騎の計算でこの集団と一緒に旅をしている十数頭の馬を繋いである、東側の林の事を思い出した。
自分たちの馬もここの木に繋いでもらってある。
確かその先に水汲みようの泉があると女性たちが言っていたっけ。
だいたいにして野営を張るときに水のないところでは不便なのだろう。
彼女は導かれるようにして、馬の中を林のほうへ入っていった。
そこに誰かがいる気がしたのだ。それは半ば直感のようなもので根拠はない。
でも、自分のよく知っている人がそこにいる。彼女は不思議とそう確信していた。
案の定、小さな泉のほとりで月明かりの下、毛布に包まっているひとつの影があった。
「小帆ちゃん……?」
こちらに気付き、少し驚いたように言った。
「井宿」
その時、翼宿の前例が小帆の中でふとよぎったが、どうやらその心配はないようだった。
彼のお面の笑顔を見て、小帆は心が落ち着くのがわかった。
「こんなに晩くにどうしたのだ?」
「それはこっちの台詞だよ。井宿こそどうしたの?……やっぱあれじゃ寝れなかったとか」
翼宿の寝相の事を言っているのだろうとはすぐに察しがついたのだろう。
井宿は「違うのだ」とだけ言った。
その泉を眺める横顔に何やら影がおりていたのを見て、小帆はとりあえず彼の横に腰を下ろした。
「ねぇ、どうかしたの?」
その身体が小刻みに震えているのを見て、今度は井宿が毛布を掛けてやる。
「なんでもないのだ。ただ、こんな夜に星を眺めるのが好きなのだ」
「あぁ……」
確かに今日の星はとても綺麗だった。
「小帆ちゃんも星好きなのだ?」
「うん。眠れない夜に星を見ると落ち着くから」
「……昼間あれだけ眠ってれば寝れなくてもおかしくないのだ」
「失礼ね。人を冬眠してるみたいに」
しかし、お互いここに来たのはそれだけでもないのだろうということは察していた。
さらにその察せられているのだろうなということを、お互いにわかっていた。
あまり心配をかけまいとしたのだろう。しばらく沈黙があった後、井宿のほうが先に切り出した。
「小帆は闇のことどう思ってるのだ?」
「闇……?」
「倶東国の悸家にいる時にオイラが話した闇のことなのだ」
「あぁ。剛郭って人可哀想だったね……。私、意識があったらきっと大泣きしてたよ」
「で、どう思うのだ?」
質問を変える気がないのはわかっていた。
だから、小帆は逆に問うてみた。
「井宿はどう思ってるの?」
さすがにこう来るとは思ってなかったらしく、井宿は「だっ」といって少し悩んだ。
「それって、本当は井宿自身に聞きたいんじゃないの?」
「そうかもしれないのだ」
ややあって彼は自嘲気味に笑んだ。
「オイラはまた側にいながら軫宿を守れなかったのだ」
「え、でも、それは……」
「わかってるのだ。剛郭の身体はもともと仮の物で、軫宿はただ今の自分の身体に戻っただけ。
でも、そう考えたら今度は、世話になっときながら剛郭をみすみす殺したようなもので……」
「井宿ってやさしいのね」
「そう思ってくれるのだ?」
「……うん」
小帆は空を見た。
「翼宿も井宿もとてもやさしい。だから、私ときどき怖くなるの」
「え?」
「だって、やさしくしてくれた人って大好きだよ。そのお陰で自分が少し好きになれる気がするから。
でも、好きだから余計に失ったときの事を考えちゃう。ある日突然いなくなったらどうしようって」
彼女は怖かった。日に日にやせ細っていく父の身体を見るたび、
次の瞬間にはどこかへいなくなってしまうんじゃないかと、毎日不安を抱えていた。
こんなことならいっそ、小さな頃のやさしい思い出なんてなければいいのにって。
そうすれば、少しは悲しくなくなるんじゃないかとそう信じて。
「好きな人を失うのは誰だって怖いのだ」
「……井宿」
彼はいつの間にか片方しかない瞳を見せていた。
はじめこそ驚いたが、小帆はこの瞳のやさしさが好きだった。
「オイラは昔、好いた人を二人も同時に失った。でも、好きだと、
こんなに本当は愛していたのだということに気付いたのは、既に失った後だった。
小帆は好いた人を好きだと認められる分、強いのだと思うのだ」
「強くないよ。私。……怖くて泣いてばっかいるもん」
「失うのが怖い。だったら好きにならなければいいと思って、ひとりで悩むからそうやって怖くなるのだ」
「だって……」
「好きになっていいのだ。誰かを失うのを怖がってひとりで悩んでる人を見たら、小帆はどう思うのだ?」
「助けてあげたいと思う」
「その人に好きになってもらえたとしたら?」
「……嬉しい」
「オイラたちもそうなのだ」
井宿は子供の小帆にもわかるように言ったのだった。
「助けが欲しい時は、助けを求めてもいいのだ」
あぁ。と、小帆は心の中で感嘆の声を漏らした。
そうか。自分も誰かの助けになりたい、誰かに必要として欲しいと思うように、
私の周りにいてくれる人もそう思っているんだ。
失うのが怖いなんて考える前に、自分が好いてもらえない、誰も好きになれないことのほうが何倍も悲しい。
「自分で自分を追い詰めるのは悲しいことなのだ。それくらいならまわりは頼って欲しいと思うだろうし、
誰かを失って好いた気持ちがなくなるというのなら、そのことのほうがよほど怖いと思うのだ。
でも小帆は誰かを好きになって、それを自分で認められる子だからそれはないと思うのだ」
そうだ。お父さんは大好き。
日本にいる時も片時も忘れなかった。
そして、お父さんはお母さんが好き。
小帆はここまで考えて、はっと心臓が高鳴ったのを感じた。
……そうか。そしてお母さんはそんなお父さんが好き。
だから、失うのが怖い。
それならいっそいい思い出がなければ、別れる時少しは怖くなくて済むんじゃないか。
お母さんがもしかしたら、自分と同じ事を考えていたのかもしれない。そう思うと、少し彼女を許せそうな気がしてきた。
お父さんはお母さんが好きだから、それがわかってて敢えて何も言わなかったんだ。
でも、反対にそれを第三者の目から見ていた私が母を嫌いになった。
お母さんがお父さんを嫌いになったのかと思って。でも、違ったんだ。
今ならそう信じられる。
私も今お母さんと同じこと考えてたから。
でも、そうだよ。見ている人は悲しいよ。そんなの。
助けが要るときは求めてもいいんだ。
お父さんがもしもある日突然いなくなってしまったら、悲しいのはお母さんだけじゃないんだよ。
私と一緒に残された時間をってどうして考えてくれなかったんだろう。
小帆は井宿にこれら全てを話した。
井宿はずっと聞いていた。
そして、最後の小帆の問いかけに答えてくれたのはやはり彼だった。
「それは多分、お母さんが小帆を好きだからだと思うのだ」
「お母さんが?」
「小帆はお母さんが嫌いなのだ?」
「嫌い」
「どうしてなのだ」
「水臭いもん。そんなにお父さんのこと好きならもっと、素直になればいいのに」
「失うのが怖いから素直になれないのだ。それに、それは今の小帆と同じじゃないのだ?」
「あ……」
「君は多分、まるで自分を見ているようで、お母さんが嫌いになってしまったのだと思うのだ。
でも、本当はとても好きだからこそそうなってしまったのだ。
失うのを怖いと思ってるのは二人とも同じなのだ。
そして、お母さんは君が好きだから心配かけたくなくて遠ざける。
そう思うから余計に互いの間で誤解が生まれてしまったのだ」
小帆は胸の中でとぐろを巻いていた慟哭が、すっきりほどけていくのを感じた。
二人とも父という人を愛している。ただそれだけのことだったのだ。
会いたい。
今ならきっと素直に話せる。
そんな気がした。
すると、井宿が言った。
「君にはもとの世界に戻ってやるべきことがまだたくさんあるのだね」
「うん」
返事を返した小帆の透き通った声は、まるでこの泉のようだった。
「オイラも……」
小帆が泉なら、井宿はそれに映った夜空とでも言おうか。彼もまた、晴れ晴れした顔だった。
「今の話を聞いてて、闇の正体が少しわかった気がしたのだ」
「え?どういうこと」
「きっと、君たち家族の間には闇なんてどこにもないのだ。お互いをとても愛し合っているのだから。
だから君がこの世界を救う巫女として今、ここにいるのだと思う。小帆ならきっとどんな闇にも負けないのだ」
誰より闇の怖さを知り、それに対抗する心を持っているのだから。
それだから今日に至るまでここまで悩みぬいてきたのだと。
「ありがとう井宿。なんかすっきりした」
「ひとりで悩むより、みんなで。なのだ」
「なんか、翼宿も同じようなこと言ってた」
「なのだ」
小帆は思った。
私、最後までお父さんを愛し続ける。
いなくなってもずっと。
だから、お母さんも一緒に。ね?
「……寒くなってきたのだ。そろそろ……」
井宿が言いかけたときである。
野営地のほうから馬のいななく声と共に、人のざわめく声が聞こえてきた。
「なに?どうしたの」
「様子がおかしいのだ」
二人は急いで皆が寝ているはずのほうへと走っていった。
林を抜け、興奮した馬に蹴られないように進むと、
まず始めに突き当たったのが自分たちのために、長直々に張ってくれた即席テントだった。
「あ!!お前らなにしとんねん!大変なことんなっとるっちゅう時に」
気持ちよく寝ていたところをたたき起こされたといったふうの翼宿は、それでもきちんと愛用の鉄扇を手に持っていた。
「どうしたの!?この騒ぎ」
「火事や。向こうのテントのほうやて。来おったで」
「まさか偽者が?」
「それしかないやろ」
冷たいはずの風が熱を帯びてきた。
「あ!あんたたち無事か」
「タンダさん、被害は?」
井宿が訊く。
「一番西に張ってあったのがやられた。俺の息子が今こっち側の皆を起こして回ってる」
「あいつが来たんやな」
「あぁ、今男連中が迎え撃って……」
聞くが早いか三人は西へ駆けて行った。
その後からタンダも続く。
偽者はここに本人がいるのを知って知らずか、何にせよ性懲りもなく彼らの前に姿を現したのだ。
四人が着くと、燃え落ちてゆくテントを背景に、よく知った顔がいた。
背後の炎と区別がつかないほどに、その燃えるような色の髪が熱風の中でなびいていた。
その下には翼宿本人を見て、嫌味な笑みが浮かんだ。
「へっ。性懲りもなくのこのこ現われおって。こっちがお前のせいでどんだけ被害こうむったか。
きっちりおとしまえつけさせてもらうで」
鉄扇を構えた翼宿の前で、偽者が同じく鉄扇を構えた。
「それはこっちの台詞や」
「なんやと!?」
「倶東国の雪辱戦といこうやないか」
「なっ。あんなぁ、それて逃げたお前が言う台詞とちゃうやろが」
「うるさい!この火妖鬼(かようき)、刹火(せっか)の劫火に皆焼かれてまえや!!」
言うと、刹火はまだタンダたちの家族がいるテント全てを目掛けて、鉄扇を大きく振り下ろしたのだった。
(update:04.05.09)