「魏か?今、張から電話があったんだけどさ」
「あぁ。はい。知ってます」
「え?なんで」
「……えっと、まぁいろいろと」
「は?……まぁ、いいや。なんかさ、あっちでもやっぱヘンなことになってるみたいでさ」
電話の向こうの奎介の声は心底疲労していた。
しかし、それは魏のほうも同じで、それというのも今までずっと念信を続けていたからに他ならなかった。
美朱との交信は写真を媒介にできるけれど、あちらの世界とのつながりが彼にはない。
どうしたものか。しかし、自分は朱雀七星士。井宿や翼宿がまた現われてくれたということが、逆に彼を焦らせる結果となった。
「魏、唯ちゃんから連絡は?」
「いえ、何も」
「そうか。張の話だと本はどうやら国籍を変えたらしいな」
「……冗談のつもりですか」
「バカ。そんなんじゃない。これがどういうことか、お前わかってるのか?」
「今回俺たちは何もできないと、そういいたいんでしょう」
「わかってるじゃないか」
しかし、魏は諦める気など毛頭ない。
口ではこういっているが、それは奎介のほうも同じだ。
「真夜がさ、私にも何か出来ないかって訊いて来るんだ」
「真夜が?」
「だからさ、俺なんとか頭ひねってみるよ。絶対俺たちにも出来ることがあるはずだって」
「そうですね。俺も……」
薄暗がりの部屋の中、いつもなら家族三人夕食を囲んで賑やかな風景があるはずだが、
今日は魏がひとり電話の前で一枚の写真を睨んでいた。
「俺は今も七星士のひとりですから。光を、小帆を守ってやります」
「気を付けて行くんだよ」
「お世話になりましたのだ。その上、郷長さんから馬まで頂けるように取り合っていただいて」
「なに、これくらいお安いご用さ。あんたたちのボロボロになった服を、しかも五人前一晩で補整する所業に比べたらね」
「お袋、それは言わない約束だぜ」
やや顔を赤くして魁俊が思わず悸氏の肩をつつく。
「本当何があったのか知らないけど、無茶だけはよしとくれよ。これは、あんたたちにも言えることだからね。
特にうちの魁俊とそっくりなそこのキバくんはね」
「キバ言うなや。俺は翼宿やって何べん言うたらわかるんじゃい」
「キバだってさ」
魁俊がにやにや顔を崩すと、馬の鞍の調子を見ていた翼宿が吠えた。
「そういうお前はくそ生意気な小ジャリやんけ!」
「何だと!?おいこら!行く前にやっぱ一度ケリつけてけ!」
「おうおう!望むところじゃ」
「はいはい。そこまでなのだ」
昨日まではいなかった仲裁役が帰還したことで、今日は彼らの頭にまな板が飛んでくることはなかった。
「ちっ。今日のところは井宿に免じて許したる。けど、次会うたときまたそんな口きいたら、
今度こそ足腰立たんようにしてもうたるさかい、覚悟しときや」
「へんっ!そりゃこっちの台詞だっての」
「こら、魁俊。別れ際にそんな言い方もないだろう」
それまで傍観、否。先程から一言も発してない小帆の頭を撫でてやっていた紅可が言った。
「小帆ちゃん。また会えるから」
「うん。きっとだよ。ふたりとも」
「あぁ。な?魁俊」
「お、おう。またな」
神の戯れる地、神翔郷。
ある日の明け方早くに、その中でも働き者の兄弟がいると噂に名高い悸家から、
旅人はそんな彼らのやさしい手に見送られ、旅立った。
馬は二頭。先を行くのが翼宿で、次に井宿と小帆の乗った馬が続いた。
昨日一日でいろんなことが一気に起こりすぎたせいもあるのだろう。
まだ眠たそうな小帆の背中を支えてやる形で井宿は手綱を握っていた。
「井宿」
目を擦りながら小帆が言った。
「どうしたのだ?」
「昨日の話。本当なの?この世界で孤児が増えてるって」
「それだけじゃないのだ。平和の中で善悪がまるで同時進行しているかのように、
子供たちを囲む環境で言ったらもしかしたら、前の紅南国のほうがまだいくらかマシだったかもしれないのだ」
「なんやそれ。今よか戦時中のほうがまだよかったっちゅうんかい?」
「そういうわけじゃないのだ。でも、剛郭が言っていたようにこの現状も確かに見ないで済むというわけにもいかないのだ」
「……」
小帆は不謹慎にもその時、この世界と向こうの世界の共通点を見つけたことにやや興奮していた。
ここも同じだ。向こうとなんら変わらない。
しかし、それはまた悪い意味でも良い意味でも同じだけの興奮を彼女にもたらした。
「私頑張る」
「小帆ちゃん?」
「私、頑張るから」
それしか言わなかった。
けれど、彼らには彼女の決意が如何程のものか、今はっきりと伝わったのだった。
井宿がまだよくわからないけど。と前置きした後、説明してくれた闇の正体。
それは、良くもなれば悪いものとなる。
今の彼女にはそこまでしか理解できなかったが、それで十分だった。
自分がここにいる以上、自分にしかできないことをしよう。
そう、決意できるまでに彼女はここまででいろんなものに触れてきたのだ。
そして、これからもまた困難で前途多難な運命が待ち受けているのだろう。
「でも、小帆ちゃん、今は休むといいのだ。疲れているときに無理して頑張っても、いい結果がでるとは限らないのだ」
「せや。北甲国に行く前にまたなんや起こらんとも限らんしな」
「……うん」
小帆は身体を井宿に預けて寝入った。
しかし、彼女が寝息を立てている間も会話は続いていたのだった。
「翼宿、出発する前に感じてたっていう悪寒はもうやんだのだ?」
「それや!」
翼宿は話の本題に触れられたかのように、しかし、道中馬の足は止めずに声だけ張り上げた。
「なんや、嫌な予感とかいうんやったら覚えあるんやけど、これはちゃうねん。まぁ、今はそんなんでもないけどな」
「翼宿、冬はもう終わったのだ」
「アホか!そんなんちゃう言うてるやろ」
悪寒には違いないが、何故か彼にだけまとわりついて一向に放してくれないのだ。
「何にせよ、気をつけたほうがいいのだ。北甲国へはまだ遠い。これから何が起こるかわからないのだ」
「いつかの女誠国なんちゅうとこにまた、迷い込まんように祈ってるわ」
「それがいいのだ」
その日は野宿だった。
翼宿やことに井宿などは慣れたものだったが、考えてみればこれが小帆にとって初めての野外就寝だった。
馬を手ごろな木に繋ぎ、翼宿が素早くそこらから枯れ枝を集め火をたいた。
井宿は流石はもと流浪の旅人といったところで、常備の非常食収集は旅の道中忘れない。
今夜の献立は、今朝悸氏が気を利かせて持たせておいてくれた貴重なお米と、
井宿がここまでの道中に、これは食べれるなどといっていくつか採取しておいてくれた木の果実。
材料さえ揃うと、小帆もやはり日頃の手際のよさでありあわせの道具で米を炊き、実を炒めた。
それを見て感心したのは、翼宿と井宿だ。
「どうしたの?」
あまり不思議そうな目で見つめられるので、小帆は訊いたのだが。
「小帆お前、ホンマに巫女か?」
「なんで?」
「いや、巫女っちゅうんはもっと……」
「もしかして翼宿、美朱さんのこと考えてるでしょう?」
「うん」
「美朱さんは美朱さん。私は私だよ?ただ、美朱さんのほうが人としていいところいっぱい持ってる。
私に出来ることって言ったらこれくらいだもの」
「でも、それだけできてれば十分立派だと思うのだ」
「え?そ、そうかな」
まんざらでもない顔で照れた矢先である。
「あ!熱っ」
「大丈夫なのだ!?」
「あかん。やっぱ変わらんわ」
幸い小帆は爆ぜた枝で、指を軽く火傷しただけだったが。
「ごめん。冷やしてくる」
確かこの少し山へ入ったほうに、小川が流れていたはずである。
「ええけど、あまり遅うなるとメシなくなるで」
「私が作ったんだよ?」
とはいいつつ、食べてくれるというのが嬉しくない料理人はいないもので、顔ははにかむ。
彼らから離れ、小川にたどり着くと早速右手の小指を浸した。
「……ふう」
こうしていると、まるでキャンプのようだ。と思った。
小帆は、楽しみにしていた光の学校の五年生の行事であるキャンプに、参加できずに中国帰国を余儀なくされた。
本当なら今頃、何ヶ月か先に控えたその行事を光と一緒になって楽しみにしているはずだったのである。
しかし、形は違えど彼女の小さな夢のひとつは思いがけず叶ったといえばそうなるのだった。
「光、きっとあの巻物読んでるんだろうな。ねぇ、私の声届いてる……?」
半ばだめもとで呟いてみた。
光が恋しい。あの顔、あの声、あの言葉。
今まで気付かなかったことが、この世界では開放的なくらいによく気づくようになっていた。
『……ほ、小帆』
だから、この時わずかな時間だけ光の声が聞けたのも、そんな彼女へ誰かがご褒美をくれたのかもしれなかった。
「光!?光なのね」
『小帆、聞こえてるよ。君の声ちゃんと届いてるから』
考えてみればこの時はじめて小帆は彼の一年ぶりの声を、落ち着いた心境で聞けたのだった。
その声は前よりずっと大人びていて、さらに前のやさしい響きはそのままに、彼女の心だけにその声は届いた。
「光、ずっと見ていてくれたの?」
『うん。怪我、もう大丈夫?』
「火傷のこと?」
『違うよ。えと、おととい?のあの……』
光が言いたいのは一昨日、功翔に無残に裂かれた小帆の身体の傷のことだった。
「大丈夫。もうなんともないよ。……よく覚えてないんだけどさ、あの時温かい光を感じたの。
翼宿たちに後で聞いたんだけど、軫宿って人が助けてくれたんだって。少しだけ聞こえたあの声、
とてもやさしそうだったのは覚えてる」
『よかった。なんかさ、眠たそうにしてたから、まだ体力が回復しきれてないんじゃないかと思ってさ』
「ううん。大丈夫だよ」
思えば、彼女は悸家にはじめに泊まった日といい、今日といい、眠ることが多くなっていた。
疲れているのだろうと、周りはたいして気にもとめなかったがこの時光だけは、
もしかしたらこの隠された事の重大さに気付いていたのかもしれなかった。
事実それは、この先の未来に大きく関わってくることになるのである。
だが、今は誰もそこまで知りえはしなかった。
「光、ずっと見ててくれるよね」
『うん。でも、俺、できればもっと小帆の近くで守ってやりたかった』
「ううん。そんなことない。光は今も私の一番近くにいてくれてるよ。
……あの時はごめんなさい。逃げたりして」
『……やっぱあれって逃げたの?』
「……」
図書館で彼と思いがけず再会を果たし、頭の中が混乱したままだった彼女は、
思わず彼の前から逃げるように走り去ってしまった。
「光に嫌われたくなかったから」
『え?』
「こんな私を見たら光はきっと私を嫌いになるって、そう思って」
『え、ちょ、ちょっと待ってよ』
光は巻物の前であたふたと手を動かした。
『嫌わないよ!なんでそんなこと言うの』
「ほんと?」
『ほんともなにも、どうして俺が今ここにいると思ってるんだよ』
私に会うため……。
小川の流れに一滴の塩水が加わった。
光は私にあうために冒険してきてくれた。
「……じゃあ今度は、私の番だね」
『え?』
「今度は私が光に会うために、旅をするの」
そうだ。いつまで私はイジイジしているつもりだったのだろう。
自信なんてなくていい。
いつか美朱さんが、日本人と上手く付き合えないことで悩んでいた私に言ってくれた言葉。
ありのままの自分を見せて、それでも相手が好きって言ってくれたら、
その時、人ははじめて自分を好きになれるんじゃないかな。
自信はそこから生まれてくるのよ。
そして今度はその自信が、人を守る勇気に変わってくの。
その勇気が誰かを好きになるってこと。
そして、その誰かがまた勇気付けられる。
人と人との関わり。
それが、情。愛というものなのだということを、小帆は理解していた。
『うん。待ってる。ずっと見てるから』
「うん」
『小帆、どんなことが起きても絶対諦めないで』
「……うん」
その言葉がどうやら最後のようだった。
途端に寂しくなった暗闇の中で小帆は、しかし、心は至って晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
好きな人に会うための旅路。
それが彼女にとっての巫女としての役目なのだ。
「小帆」
小川のほとりで、光の声の余韻に浸っていた彼女を呼ぶ声があった。
翼宿だ。
「あ、ごめん。もう大丈夫だから、戻るね」
「いや、ええよ」
「え?」
「井宿のやつ、これからどの道行こかて図面とにらめっこしとるさかい、一緒におってもおもろないで」
「そ、そうなの?」
「メシ持って来たったで、一緒に食わんか」
「え?ここで?」
何故だろう。
小帆はいつになく彼に対して無意識のうちに他人行儀をとっていた。
まるではじめて会うような違和感。
月明かりに照らされている彼の顔は、もう十分すぎるくらい見知ったものであるのに。
この時、彼女はどうしてか、いつもの心の底からくる安堵感を感じえずにいたのだ。
「そっか。せやな。ここじゃ、寒いか」
「う、うん。そうだね。やっぱ火のあるところで食べようよ。
井宿もきっと焚き火のところで待ってるはずだから、戻ろう?」
「いや。戻る必要あらへん」
「え?」
小帆の目の前まで来て、彼は慣れたふうに自分の背中に手を回した。
取り出したのはいつもの鉄扇。
しかし、小帆はそれにさえ異様な気配を感じた。
なんで、今まで翼宿が使い、自分の身を守ってくれていた鉄扇に、こうも恐怖心を抱くのだろう。
「これで今、火ぃ付けたるさかい。冷えた身体もすぐ温めたる」
「!!」
翼宿は言葉ではやさしく言い、しかし、突然がっとその腕を小帆に伸ばした。
右腕をきつくつかまれ、顔が歪む。
「た、たす……き?」
ヘンだ。
翼宿の顔が呆然とする小帆の前で、にやりと嫌な笑いを浮かべた。
違う!翼宿じゃない!!
彼の笑みに恐怖を覚え、小帆がきつく目を閉じた時だ。
「小帆!!そいつから離れぇ」
同じ声。しかし、小帆のよく知った響きのある声が、焚き火のある方向から聞こえてきた。
小帆はとっさにその声に従い、掴まれた腕を必死に振りほどこうとしたのだが、
「ちっ」
と、舌打ちすると、小帆を捕まえていた翼宿は強引に彼女を自分のほうへ引き寄せた。
「偽者!?」
井宿の驚く声もやはり例の方向から駆けつけた。
かくて、小帆を人質にとった偽翼宿と、駆けつけた翼宿井宿の両者が夜の林の中で対峙する形となった。
「翼宿!井宿!」
逃げようと試みるが、偽者といえど翼宿の力に子供がいくらあがいたところで意味はない。
「うえっ。俺とそっくりやん。きしょっ!」
「その手を離すのだ!」
しかし、偽者は小帆に鉄扇を突きつけた姿勢のまま譲る気配はまったくない。
「俺の偽者たぁ、ええ度胸しとるやないかい。自分とは戦えんとでも思ったんか知らんけどな。
小帆になんかしてみぃ。許さへんぞ」
偽者と同じく鉄扇を取り出した。しかし、こちらは小帆にとって凶器ではなく翼宿の相棒であるため、
向けられたところで彼女に恐怖はなかった。
「そうなのだ。翼宿みたいのが二人もいたら大変なのだ」
「あー!こら!どさくさにまぎれて何ぬかしとんじゃ、おのれは!?」
しかし言った言葉はともかくとしても、両者の間の緊迫感は一向に静まる気配を見せない。
「井宿。ここは俺にまかしとき。おのれの偽者の処理くらいおのれでやったる。その代わり小帆を頼んだで」
「わかったのだ」
返答を聞くが早いか翼宿はキンッと、鉄扇を持つ手に力を込めた。
「烈火っ神焔!!!」
しかし、
「烈火っ神焔!!!」
まったく同じ動作同じ声音で、二つの炎が林を下から熱く照らし出した。
だがやはり、小帆に気を取られている分わずかに偽者のほうの火力が弱い。
それは翼宿のほうも同じで、しかし、彼には信じる仲間がいたことがひとえにこの勝負の勝敗を分けた。
「むん!」
井宿が術を発動させると、偽者と小帆の間に小さな稲光がはしった。
「なっ!?」
「きゃあっ!?」
二人の身体が離れたその隙に、井宿が瞬間移動し小帆を見事奪還して再び瞬間移動で翼宿の後ろへ逃れる。
その間も炎の摩擦は続いていたわけである。
当然わずかに気を乱された偽者のほうが、無意識にその威力が弱まった。
「いっけぇ!!」
ここぞとばかりに翼宿が鉄扇に気を込めると、形勢は一気に傾いた。
「くっ!!」
この時偽者と翼宿本人の間に、決定的な相違が見られた。
偽者は炎が自分に届く寸前、その場から神隠しのように突然消えうせたのである。
当然ながら本物にそのような芸当はできない。
「逃がしたか……」
少し息を切らせて熱風の過ぎ去った川のほとりを睨み、翼宿が悔しそうに呟く。
「ありがとう翼宿」
「おう。怪我ないか?」
「大丈夫みたいなのだ」
小帆の様子を見て、二人はほっと安堵する。
「にしても、後味悪いな。自分を焼くっちゅうんは。……まぁ、逃げられたけどな」
「小帆ちゃん、顔の怖いお兄さんについてったら危ないのだ」
「なんやその言い方、なんか引っかかるで」
「うん。今度からよく気をつける」
「あ、こら!お前もなんかフォローせいや」
幸い怪我もなく、損害も翼宿本人のの精神的苦痛以外は何もなかった。
「くっそぉ。今度会うたら慰謝料請求したるさかい覚悟しとけよ〜!!」
この場はこれににておさまったが、実は例の偽者というのがこれまたえらく厄介な相手だったのである。
今回はいわば、牽制のつもりで彼らの前に姿を現したのだろう。しかし、その正体はまだ彼らには知り得ないことだ。
旅は順調に馬をとばせば、そう何日とかからないだろう。
陸路を行けば遠いのだろうとも思っていた北甲国は実はもうすぐそこなのだ。
この先降りかかるであろう災難を覚悟してか、その時の彼らの決心に満ちた表情を形容する適当な言葉は見つからない。
ただ、その目が白い雪を映したのは、北甲国入りしてからもうひと騒動あってからの話であったのだが。
(update:04.05.04)