「あんたは……」
井宿の質問には答えず、その人物は守るように抱きかかえていた小帆の身体を、
やさしく地面に預けると、そのまま井宿の脇に来て宙吊りになっていた翼宿の身体を引き上げようとした。
井宿はその時、彼の背中の赤い色を見て取って、はっと我に返った。
「やめろ!そんなことしたら傷が」
「いいから。早く彼を引き上げるんだ」
別段声量が大きいわけでもないのに、有無を言わせない威圧感がその声にはあった。
「お前も限界のはずだろう」
図星なだけに何も逆らえず、井宿は黙って最後の力を振り絞った。
引き上げられた翼宿もまた不思議そうな目で、はじめて見る顔を覗き見た。
「あんた誰や」
しかし、その質問に答えたのは本人ではなく、何故か痺れた両腕を抱えて座り込んだ井宿だった。
「地業鬼。地の剛郭。四天王のひとりなのだ」
「なっ!!」
翼宿が二の句を繋げる前に、剛郭は負傷した身体を引きずり、再び小帆に近付いた。
「っおい!!お前、小帆に触んな!」
四天王と聞いただけで、嫌な感覚があった。
功翔のようなものがほかに三人いると思っただけで、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えるのである。
無理もないことだ。
その剛郭を井宿が手で制した。
「……」
やや警戒するような井宿の表情を見てか、剛郭は一言。
「……心配するな」
と、だけ言った。
すると、何故か井宿はたったその一言で、翼宿の見ている前でおとなしく引き下がったではないか。
「井宿!」
「オイラは彼に助けてもらったのだ」
「なん……やて!?」
剛郭は小帆の脈をとる。弱々しいが、呼吸もしていた。
「どう……なんや?」
なんだかんだ言って翼宿も小帆が心配なのだ。
剛郭への警戒を完全に解いたわけではないが、手際よく少女の容態を診る彼に訊いた。
「命に関わる大きな傷は見られない。だが、子供の身体だ。これだけの傷となると出血量が……」
言い終える前に剛郭はうずくまった。
「なっ!!あんたやって凄い傷やんけ。人の心配してる場合とちゃうでこれ!!」
「いや、彼女を治すのが先決だ……」
治す。
その言い方の意味するところに、彼らがすぐに行き着くことはなかった。
その前に、功翔が声を張り上げたのだ。
「地業鬼め!この裏切り者!!ただでは済まさんぞ」
といっても、満身創痍のこの状況で裏切り者とはいえ、
四天王に並べられるほどの自分と対等の実力者と戦う程、彼もおろかではない。
さらに今、戦線復帰した翼宿と井宿と渡り合うだけの力ももはや残ってはいない。
功翔逃亡を図るのはわかりきったことであった。
「逃がすか!!井宿!」
「むんっ!」
井宿が印を組むと功翔の身体が金縛りにかけられた。
「前のお返しや!もう逃げられんで」
「くっ!!」
「おとなしゅうお縄につけや。そうすりゃ命だけは……」
だが、功翔の目が光ったのを翼宿は見た。
しかし、眼力で発動させようとした彼の術は、思わぬ横入れによって未然に防がれたのである。
ビシッ
「うっ!?」
彼の眉間に横から小石が当たった。
きっと睨むと魁俊がいつのまにやら立ち直り、左手に乗せた石を右手で弾いた姿勢のままこちらを見ていた。
「小僧!!」
「ガキなんはそっちや!!引き際もわからんようやな」
「はっ!」
「烈火っ神焔!!」
翼宿の劫火は心悪しき者には容赦ない。
散々人の心をもてあそび、おもちゃにした史上最悪のお子様は大火の中に消えていった。
「剛郭。もういいのだ。小帆はオイラが診るから」
「いや。俺のは手遅れだが、彼女はまだ間に合う」
井宿が小帆を抱えるが、剛郭はそう言ってきかない。
「手遅れじゃないのだ。オイラの術で二人を医者のところへ……」
「それでは、遅い。俺が治療する」
「あんた医者なんか?」
「いや、医者ではない」
「ほんだら、なんで……」
剛郭は翼宿の質問に口答しなかった。
その代わり、目を閉じると井宿の腕の中の小帆の身体に、その右手をかざした。
口で言うより行動で示したほうが早かった。
井宿と翼宿の表情が固まった。
人の心を和ませる緑の光が、彼の右手から発せられ、小帆の傷だらけの身体に照射された。
彼女の無数の傷は見る見るうちに塞がっていき、ふたつからひとつへとその数は減っていった。
ついにはボロボロになった服はそのままだが、彼女の肌は傷ひとつない健康的な白い皮膚に包まれていた。
「今の……」
その場に立ち尽くした翼宿と小帆を抱えて座っていた井宿が顔を見合わせる。
そんな彼らをよそに、剛郭は安らかな吐息で呼吸し出した小帆を見て、
ほっと安堵の表情をみせた。
その右掌には“軫”の文字。
「あんた……!まさか」
「俺は生まれたばかりの頃に、風邪が悪化して生死の境を彷徨ったことがあった」
剛郭は右手を眺めて言った。
「その時俺の親は、金もないのに隣町から診療に来ていたある若手の医者にすがりついた。
医者は優しい人で、俺をすぐさま診療台に上げてくれた。金は要らないからと。
だが、俺はほとんど手遅れの状態だったらしい。
その医者は出来る限りの事をした。けれど赤ん坊は一向に良くならない。
そんな時、医者が俺に右手をかざした。どうしてそうしたのか、親は不思議がった。
だが、結果としてそのことが俺の命を救うことになった。俺はその医者に命を貰った。
この手は生まれつきかと思っていたが、両親が別れ際に話してくれたこの話で全てに納得がいった」
「その医者……名前は覚えてないのか?」
井宿が訊くが、剛郭は弱々しく首を振った。
「名前は……。だが、姓は徐といった」
徐氏。徐長生の名が二人の脳裏をよぎった。
しかし、なんでまた剛郭が彼の力を持っているというのだ。
「剛郭。その医者は、今どこにおんねん」
「知らない。だが、どこかの村に腰を据えているとは聞いた」
かつての仲間の転生した姿が長生。彼があのまま健やかに育っていたのだとしたら、今は五十過ぎ。
この世界のどこかに必ずいるはずなのである。
「なんで剛郭がそんな力を……」
「今言ったように俺のこの力も文字も後天的なものだ。その医者から……授かったのだと俺は信じている」
「まさか……」
「なんや井宿」
「オイラたちはもともとこうなるべくして、あの戦いを生き抜いたのかもしれない。
けれど、他の仲間は既に転生して七星士としてもう戦うことはないはずだった。
なのに彼が文字を持ったのは、なんでか?翼宿わかるのだ?」
翼宿は難しい顔になった。
どうして井宿がそのような訊き方をしたのか、彼にはまるで理解不能だ。
だが、訊き方からして彼がどこか核心をついているのだということはわかった。
井宿は剛郭の目を見て言った。
「軫宿、オイラたちが転生を拒み、かつての力を望んだように、
お前もかつての力を望んだのだ……」
その時、剛郭の目が大きく開かれた。
井宿がその名で彼を呼んだ瞬間、まるで何かが弾けたような音がした。
「井宿……」
声が変わった。
「お……おい。嘘やろ?お前、軫宿……か?」
「翼宿……」
教えもしないのに名を呼んだ。
しかも、とんでもなく懐かしいその声で、である。
だが、その余韻に浸っていたのもつかの間、
「うぅっ……」
彼の身体が崩れた。
「軫宿!ダメなのだ。今からオイラが医者につれて……」
だが井宿のその手を、剛郭の姿の彼が止めた。
「無駄だ。もともと、この身体はここで役目を終えている」
「……どういうことなのだ?」
「俺はこの身体に封印された物を、お前たちに届けるために、魂の分離を決意したんだ」
「魂の分離……やて!?」
「やっぱり、軫宿。これは全てお前の意思だったのだ」
「おい!井宿。なんやようわからん。もっとわかるように説明したってくれ」
「つまり今現在、転生後の姿でいる軫宿のあの長生の身体には、前世の軫宿の部分が欠落した魂が宿っているのだ」
「……魂の分離」
軫宿はそれを望んだというのだ。
新たな闇の予兆を、長生の身体にいるときから感じ取っていた魂が、意図的に当時助けた赤ん坊に乗り移った。
それがこの剛郭という男だった。
「俺は……魂がもとの身体に戻るだけだ。心配ない」
「せやかて……」
まさかこの時になってまで、仲間の死を看取ることになろうとは予想だにしなんだ。
「これを届けるのが俺の役目だった。それだけのことだ。
役目で言うなら、お前たちのほうがよっぽど辛い役目を担っているんじゃないのか?」
「そんなこと……ないのだ。軫宿……俺はお前がまた俺の目の前でいなくなるこの瞬間のほうが……よほど辛い」
「井宿。お前は闇の正体を見ただろう」
井宿が息を呑んだ。
「あれをこれ以上のさばらせては駄目だ。わかるよな?」
「……あぁ」
「俺はもとの長生の身体に戻る。だが、闇との決戦はそんな簡単なものじゃないと思ってる。
最後になって俺の力が要るときになったら呼べ。今は四神の封印を早く解くことだけ考えるんだ」
「封印された四神……?」
井宿の横で翼宿がすぐにはっとなった。
昨日彼が亢宿たちから預かった宝玉の正体が、彼の言葉で裏づけされたのである。
「わかった。軫宿。俺らに任しとき。必ず四神をたたき起こしたるわ」
「あぁ」
それを聞いて安心したのか、彼は痛みを我慢することをやめた。
声にならないうめきをもらし、その場に倒れた。
「軫宿!!」
「しっかりせぇ!」
しかし、彼は苦しそうに暑い息を吐き続ける。
「兄貴……」
それまで黙ってみていた双子の兄弟が、倒れた青年を見かねて顔を見合わせた。
紅可が何も言わず、笛を吹いた。
鎮魂曲は傷の痛みもやわらげる。
そして、軫宿はそんな彼らが見守る中、遠く離れた本来の自分の身体へと還っていった。
残された剛郭の亡骸がその場に寂しく横たわる。
「井宿……泣いとるんか?心配すんなや。あいつ、自分の身体戻るだけやって言っとったやろ」
そういう翼宿の目も濡れている。
これは完全にデジャヴだった。
軫宿はまたこんな形で彼らの前から去ったのだ。
しかし、彼の言っていた、この身体に封印された物とはいったいなんだったのか。
二人同時にそんなことを思った瞬間だった。
カッと眩しい閃光が剛郭の身体から発せられたかと思うと、
『!?』
彼の身体は消え、かわりに一枚の赤い羽根がその場に落ちていた。
それはまるで燃えるような真紅で、見ているだけで熱い気持ちがこみ上げてきた。
「軫宿が渡したかったもんって、これのことやったんか」
青龍の紺碧の宝玉、朱雀の真紅の羽のふたつが今、この場に揃ったのである。
翼宿たちは精神的にも体力的にも大きな打撃を受けた。
例の丘は神翔郷を見下ろす山々を繋ぐ丘陵地であることがわかった。
井宿の術で悸家へ帰還したまでは良かったのだが、その有様を見て悸氏は驚いたものだ。
翼宿が抱いていた小帆の服はボロボロ。それは息子を初めとする男衆も同じで、
ところどころ擦り傷や切り傷だらけ。
集団で転んだのでないのなら、いったい何があったのかと思うような光景だったのである。
悸氏は敢えて自分から聞くことはしなかった。
彼らの表情がことごとく重かったせいでもある。
それになにより、いつもなら元気良くおはようといってくれるはずの、
兄弟の口から何一つ言葉が発せられなかった。
母親と言うのは偉大だった。
彼らを家の中へ入れてやり、テキパキと指示をした。
互いの介抱はやってもらうにしても、ボロボロになった服の補正は専ら彼女の仕事となるのは必至だった。
とりあえず、落ち着くまではせめていつもと変わらず、明るく接し続けていてあげよう。
小帆が目覚めてから。
全ての再進行はそれからのような気がしていた。
そんな中、ふいに井宿が翼宿を家の外に呼び出した。
「なんや。封印云々やったら、小帆が目覚ましてからにしてくれんか?
小帆にもまだちゃんと説明しとらんかったしな」
「そうじゃない」
語尾に特徴ある響きがなかった。
そのことが疲労困憊して粗暴になっていた彼の態度を正した。
翼宿はまだお面をつけていない彼の顔を、直視した。
「せやったら手短に頼むで」
まるで、井宿が何を言うかわかっていたような口調である。
井宿は切り出した。
「翼宿、俺を殴れ」
しかし、流石にこの台詞は予想していなかったのか、翼宿の表情がそのまま固まる。
「……は?今なんておっしゃいました」
「俺を殴れと言った」
「せやから、なんで!?」
「自分のしたことにけじめがつけられないほど、俺は愚かじゃない。
翼宿の気持ちはよくわかってるつもりだ。気が済むまで殴ってくれて構わない」
「……ほんまにええんか?」
井宿が躊躇うことなく頷く。
ためしに翼宿が右手で拳を作って見せると、井宿はそのまま目を閉じた。
翼宿は彼の顔と自分の手を見比べた。
「アホ」
ややあって、ため息混じりに彼の頬を打ったのはそんな言葉だった。
「そんなんできるかい。なんやお前殴って俺になんか得でもあるんか」
「いや、そうでは……なくて」
「ほんだらやめや。バカらしいでこんなん」
「でも、それじゃ俺の気がおさまら……」
尚も食い下がる井宿の鼻先に翼宿はある物を突きつけた。
「それは……」
「軫宿が俺らに預けた朱雀の羽や」
「朱雀の……」
「まぁ、説明やったら後でしたるけど、とにかくこれは朱雀の羽に間違いあらへん。
そんなに言うんやったら、これは井宿、お前が持っとき」
井宿は何も言わず、それを受け取った。
「お前はこれを手に入れるために敵の手中に飛び込んだんや。そう思えば、少しは気が楽やろ」
「翼宿」
「けどな!!小帆にはきっちり謝ってもらうで!」
「……」
「あいつがお前のことでどんだけ傷付いたか知らんわけでもないから、今こうして俺に殴れなんて言うたんやろ。
お前のことやから俺に一発やられて、小帆に謝ってそんだけで済むようなもんでもないて、ちゃんと自覚しとるんやろ。
ほんだらもうそれでええやん。……せやな、そのうちたこ焼きでもおごってくれたら全部チャラにしたる」
「たこ焼き……」
「ん?なんや嫌とは言わせんで。それとも、ほんまのほんまにこの俺様に力いっぱい殴ってほしいんか?」
「いや……遠慮しとくのだ」
いつもの調子が戻ってきた。
そんな安堵感からか、どちらともなくふっと笑みがこぼれた。
いろいろあったが、とりあえず四天王は残すところあと二人。
紆余曲折あって剛郭と知り合ったが、他の二人に関してはまったく皆無である。
とはいえ、井宿のほうにも彼らに教え伝えるべきことは多々あった。
どうやら今日という日は、とことん長い一日になりそうだった。
「なんや。ほんまに疲れたな」
「オイラも疲れたのだ〜」
「あー!お前いつの間にお面装着したんや!」
「早業なのだ。慣れたもんなのだ」
飄々とした彼の顔を見て、翼宿は改めて井宿が帰ってきたことを実感する。
「今日は小帆が目覚ますまで昼寝や昼寝!」
「まだ朝なのだ」
「じゃかわし。いろんなことありすぎて、そんなんまだ今日一日があるやなんて考えたくもないわ」
「これからもっとハードな毎日になると思うのだ」
「あーもう!!せやから今はそんなん言っとる時とちゃうねん。しっかり休養とってやな。
んでもってそれから……」
「それから?」
「どこ行けばええの?」
「だ〜!!」
次に彼らが目差す先は北国。
玄武の守護する北甲国だった。
無論、そこでも様々な困難が案の定彼らを待ち受けているわけであるが、
まずそこまで行くだけでも苦労しそうな、前途多難な彼らの旅路である。
北を受け持っているのは、火か水か……。
どちらにせよ、苦しい戦闘となる。
それと同時に、北の選ばれし二十八宿のうち二つはなんだというのだろう。という期待感のようなものもこみ上げてきた。
東の亢宿、角宿は一緒にこれない。それが少し残念であった。
「せやけど、戦う時はみんな一緒や」
どうやら星を先導するのは翼宿の役目らしかった。
しゃくだと言っておきながらも魁俊こと角宿もしぶしぶ彼には従っているところがある。
だから、次の四天王が彼に目をつけたとしてもなんら不思議はなかったのである。
翼宿は春にもかかわらず、まるで氷に触れられたような感覚に一瞬ぞおっと背筋をこわばらせた。
この時から既に、彼は雪の呪縛に捕らわれていたのかもしれない。
出発の朝までついにその寒気がおさまることはなかった。
(update:04.04.25)