この日はいつにも増して朝露の多い朝だった。
清々しい春の陽気がまるで嘘のように、湿り気を帯びた空気に翼宿の冷や汗が蒸発することはなかった。
それを敢えて拭うこともせずに彼はそのままその場で絶句していた。
もしかしたら、己の危惧していたことが起こってしまったのかもしれないという不安と、
いやまだ間に合う。違うんだ。きっと何かの間違いだ。といって自分を諭そうという拒絶反応が同時に押し寄せた。
「井宿……というと、朱雀のひとりじゃねぇか」
「なんで、その人が?」
井宿はおろか、他の一切の記憶を転生の際に封じている魁俊と紅可などは、翼宿の発した言葉自体の理解に苦しんだ。
その二人の間に挟まれるようにして、驚愕の表情で立っていた小帆は、
心臓の激しい動悸を抱えたまま、震える足で一歩前に踏み出した。
「ち……ちちり、だよね?」
だが、
「……」
答えは返ってこないどころか、井宿は敵が動きを見せたことに警戒して身構えた。
「!?」
小帆はそれで全てを悟った。
彼は今、自分に敵対している。
そう思った途端浮かんできたのは、はじめてあった時のあの屈託のない笑顔。
しかし、今、目の前の彼の表情はそんなやさしいものではない。
お面の有無に関係なく、彼の表情には仲間をすべからく安堵させる、何か超越したものがあった。
なのに彼は、なぜ。
なぜ、今、自分たちを敵を見るような目で見るのか……。
「うそや……そんなはずない」
ふと小帆が一歩踏み出したことで真横の位置にいた翼宿の詰まったような声。
「翼宿……知ってたの」
「……」
「ねぇ!!」
小帆が何を言っても彼は一切答えないに違いない。
自分でも信じられなかった。
小帆にいらぬ心配をかけまいと、だからこそ自分が信じているほうにかけたのだ。
結果、それが嘘となってしまった。
「知ってて、なんで!な……んで!!」
「小帆」
「なんで言ってくれなかったの!?」
小帆は翼宿の裾にすがりつくようにして泣いた。
「小帆ちゃん、こっちに……」
紅可がその場で崩れ落ちそうになった小帆の身体を支える。
そのまま後方に控えた魁俊のほうへ彼女を戦線からさげた。
本来なら翼宿が支え、後ろにいた彼らに小帆を預けていただろう。
しかし、それは相手がはじめから功翔だった場合で、だ。
だが、今まさに自分と戦闘を開始しようとしているのは、本来の敵ではなく、仲間であるはずの井宿。
翼宿とて衝撃はかなりのものだったのだ。
「いやだよ!……井宿!!」
小帆が紅可と魁俊の腕の中から、遠く離れた井宿のほうへ涙にぬれた手を伸ばした。
「無駄だ」
それを否定したのは、功翔の冷たい声だった。
「こいつの心は既に闇に侵されている。私の術によってな」
「……ざけんな」
「私以外の奴の言うことなど聞きはしないさ。転生さえ拒んだこの生粋の魂は今後、永遠に私だけの人形となるのだ。
新たな巫女を守ろうとして転生を諦めてまで復活したというのに、逆に自分が敵にまわることになろうとは。
なんとも皮肉な結果だったな」
「ふざけんな!!!」
心底楽しそうに状況説明する口に、翼宿は一発拳を叩き込まなければ気がすまなかった。
丘の丘陵を駆け下り、一気に功翔のそれへと迫った。
こいつだけは許せん……!!
しかし、彼の拳が功翔にあたることはなかった。
その寸前に一瞬鋭い閃光が彼らの間にはしったかと思うと、
「なっ!?」
ふりかかっていったはずの翼宿のほうが、もと来たほうへ大きく跳ね返されてしまった。
しかし、功翔が一切防御したわけではないことは、すぐに判明することだった。
「……井宿」
井宿が彼らの間に割って入っていた。
功翔はさも当然のように、その後ろで余裕満面の構えを見せている。
今、俺を弾き飛ばしたのは……。
紛れもなく井宿の所業だった。
「……」
井宿は何も言わない。
身体を戦闘態勢に保ったまま、主を傷つけようとした敵をただ黙って見下すのみ。
その目には感情さえ窺わせない威圧が兼ね備えられていた。
尻餅をついた姿勢のまま、喉を凍らせていた翼宿の表情が変わった。
「……上等やんけ」
唇が切れたのだろう。手の甲で口の端をぬぐった。
「俺が何も知らんとでも思っとるんやろ?」
「……」
「あのババに聞いてはじめは信じられんかったけど……。今、はっきりしたわ」
「翼宿!?」
小帆の悲痛な声が語尾に重なるが、彼は敢えて聞こえなかったことにした。
「俺はもし、お前がそんなことなっとったら絶対許せんて思ってたんや。……俺が殴ってでも正気に戻したるて、そう思ってた」
「ほう。なかなか物分りがいいじゃないか。翼宿とやらをどうやら私は少々みくびっていたようだよ。
まさか自分から開戦宣言してくれるとは思っても見なかった。どうしてもダメなようなら、
そこの巫女をこの男に殺させてみるのもいいと思っていたくらいだ」
「けっ。ご大層な趣味で結構やな。そのすかしたツラも長くはもたんで」
「ははは……。本当に君は私を楽しませるようなことを言ってくれる」
功翔が馬鹿笑いをしてる間に、翼宿は立ち上がり、態勢を整えた。
「翼宿!!だめ!!」
「あ!小帆」
少年たちの手を振りほどき、小帆は今まさに開始されようとしている戦いの仲介に入ろうとした。
だめだよ!二人が戦うなんて……。
だが、功翔が何事か井宿に吹き込んだのを翼宿はこの時、小帆を振り返っていた横目で確かに確認した。
「あかん!!来るな!」
言うのが早いか彼の身体は小帆に向かって疾走する。
小帆は酔いそうなくらい激しい場面の移り変わりの中で、翼宿の喉の音を思っていたよりずっと近くで聞いた気がした。
「くっ……!」
少女が悲鳴を上げる暇さえ与えてくれなかった衝撃波は、一気に二人を跳ね飛ばした。
丘の頂点にあったいびつな巨木に、とっさに小帆を庇った翼宿の背中が強打された。
「翼宿さん!!」
「小帆!!」
「俺は平気や……。お前ら、小帆を頼むで」
打ち所が悪ければ気絶していたかもしれない。それ程の衝撃があったにも関わらず、
翼宿は平気を装い、それでもなお戦おうとする姿勢を崩さなかった。
「……め。だめだよ。翼宿ぃ」
自分でも恐ろしくなるくらい涙が止まらない。
お願い……。
「小帆……すまんな。嫌やったら少し目、閉じててくれ」
しかし、翼宿は彼女の願いを聞き届けてはくれなかった。
「俺、ぶちキレとんねん……。あいつはあん時、自分ひとりならなんとかなる言うて、俺らを逃がした。
どのツラ下げて現われる気かって思ってた。少なくともへらへらして戻ってきた時には、一発は、
あんなことした代償にくらわせてやるつもりやったん。そやのに、あいつは敵の手に堕ちたんやで。
あの言葉信じて、逃げた俺がバカみたいやんか。井宿ははじめから、自分は逃げられんてこと知っとったんや。
せやから、俺らだけでもって……。絶対に許せん」
小帆は翼宿のこの言葉でわかった。
彼が許せないのは、なにより仲間を守れなかった自分自身なのだと。
鉄扇が鋭い音を立てて、背中の鞘から抜ける。
翼宿はそれを構えつつ、吹き飛ばされた距離を戻り、井宿のほうへ歩んで行った。
「大丈夫……」
その時、ふいに小帆の右にいた少年の口からそんな言葉が漏れた。
「兄貴?」
小帆と弟が不思議がる中、紅可は彼らをまるで遠くを見るような目で見て呟いた。
「彼らは強い人たちだから」
かつて自分が憧れさえ抱いた、固い結束とやさしい心が存在する朱雀七星士という名の仲間たち。
何があってもくじけることのない強い心。
それは自分に自信があるとか、勇気があるとかそんなんじゃなくて。
ただ互いを思いやる気持ちがどこまでも自分の心を強くしてくれるんだって、
それを気付かせてくれたのはあなたたちですよ。
「……兄貴?」
「紅可くん……」
小帆は心の中で続けた。
ありがとう。と。
「戦うのは君ひとりかい?井宿の力を知らないわけでもないだろうに」
歩みながら翼宿は口の端を吊り上げた顔で応答する。
「生憎、お前なんぞの手に堕ちるようなアホには俺は負けんよってな。
お前の相手も俺ひとりで十分や」
「言ってくれるな」
とは言いつつ、功翔の顔はなおも楽しそうで、この状況を面白がっているとしか思えない。
功翔がその場から引き下がるように、丘のふもとの森林の前まで風に乗って移動すると、
翼宿の前に立ちはだかったのは井宿だった。
「烈火っ神焔!!!」
先手必勝。有無を言わせる間もなく、翼宿は鉄扇を振りかざした。
しかし、己の行動パターンを知り尽くした相手というのは、なかなか一筋縄でいくものでもない。
井宿は印を組み、防壁をつくり大火からその身を守った。
途端、風圧と風圧が激しくこすりあう音だけがその場を支配する。
だが、相手の手の内を知り尽くしているのはこちらも同じこと。
翼宿は第一刀がはじかれることなど、百も承知だ。
なんと、鉄扇から発生した猛炎の中へ彼はその方向から飛び込んでいった。
「!?」
接近戦に持ち込まれると不利なのは井宿のほうだ。
間合いを一気につめられ、焦って防壁に費やしていた力を解いた。
炎の余韻が残る中で翼宿の鉄扇が、井宿の腹を横なぎに襲った。
だが、彼はそれを紙一重でかわす。
間髪いれず返す刀でまた来た攻撃を、今度は大きく後転して避ける。
翼宿の俊足はその後を半ば、反射的に追い、やや態勢を崩した井宿の真上から再び愛刀を振り下ろした。
井宿は瞬時に錫杖を呼び寄せ、真横にして自分の額にかざした。
金属と金属がこすれる嫌な音が響いた。
間に錫杖がなければ、翼宿の鉄扇が彼に届いていたところだ。
だが、鍔迫り合いが長く続かないだろうことは互いにわかっていたことである。
案の定、井宿のほうにその力の均衡は傾いていく。
しかし翼宿はその時、両手で錫杖を力いっぱい掲げていた井宿の右手の指の形が目に入って、とっさにその場を退いた。
離れなければ、彼お得意の術が発動していたところだったろう。
互いに間合いを保ち、序幕はそこで終わった。
「なかなかやるやんけ。接近戦に持ち込めば勝てると思ったんやけどな」
「生憎、自分の弱点をそのままにしておく程、戦歴は浅くないからな」
はじめて口を利いた彼のその口調は、なるほどこの場の緊張感をいつものように軽く受け流してはくれなかった。
だが、何故かそれを聞いて口の端を吊り上げたのは、功翔ではなく翼宿だった。
「せやな。ほんだら次ははそううまくいかんで。覚悟しい」
「それはこっちの台詞だ」
第二幕幕開けというわけである。
「亢宿!角宿!小帆とそっから離れとれ」
「ここにいたら俺らも巻き込まれるってか」
「そうらしいな。まだ子供で力も半減している僕たちの出る幕じゃない」
「なんかしゃくだけどな」
双子のそんな会話など聞き取れなかった翼宿は、素直に丘の上から子供たちが退去したのを見て取り、
気を取り直して戦闘に戻った。
これからが本番だ。
お互い、丘ひとつ吹き飛ばすくらいの力は所持しているのである。
全盛期と比べ力が衰えているとはいえ、今の彼らのそれは着実に以前に戻りつつあることを今の短い戦闘が物語っていた。
しかし、派手な攻防こそ繰り広げられるが、一向にどちらかに形勢が傾いた様子は見られなかった。
「井宿!何を遊んでいる!そんな小僧とっとと片付けてしまえ」
はじめの頃こそ迫力ある戦闘観賞を楽しんでいたが、二幕中盤そろそろ興ざめしたのだろう。
痺れを切らせた功翔がふもとから叱咤した。
その時彼らの戦場は丘の頂点に運んでいた。
小帆たちは功翔とは対象側のふもとで彼らを見上げていた。一歩間違えば、反対側はかなりな崖だったはずである。
井宿が功翔の言葉を耳にしてか、崖のほうに翼宿を追い詰めるようにして彼は錫杖を大きく薙いだ。
「くっ!」
しかし、やはり彼もそう簡単には引き下がらない。
すれすれで踏みとどまり、その位置をなんとか保った。
井宿の次々繰り出される錫杖の払いを、器用に狭い場所でかわし続ける。
何をしている!そんなもの術で跳ね除ければ一発だろうに。
功翔の苛立ちはやや離れた小帆にも感じ取れるほどだった。
さらに、もともと肉弾戦向きではない彼の攻撃の一瞬の隙を突き、
翼宿がその懐に飛び込んで場所が入れ替わった。
今度は井宿が、崖の上にさらされる形となったわけだ。
そんな時、ふいに小帆が気配を感じて功翔のほうを振り返った。
功翔が何事か呟いたかと思うと、その両手の中で見覚えのある風の渦が形成される。
小帆ははっと顔をこわばらせた。
「翼宿!!井宿!!」
しかし、気付いた時にはもはや遅かった。
功翔は翼宿を狙ったつもりだったのだろう。
だが、彼が呪文を唱えている間に形成が大きく変わった。
翼宿のいた場所に井宿がいたのである。
当然、功翔の陣風が目差す先には、思いがけない横入れに一瞬驚き、
寸前までの翼宿との戦闘で大きく反応が遅れた井宿がいた。
「井宿!!」
翼宿が叫ぶ前を風が過ぎる。
井宿はなんとかその直撃は避けた。だが、問題はその足場だった。
「!?」
「ちちり!!」
崖の上の石を踏み外し、ガクンッと彼の体が下にいった。
翼宿がとっさに手を伸ばし、はっしと彼の虚空に伸ばされた手を掴んだ。
一気に引き戻そうとして、翼宿は一瞬我を忘れた。
遠心力の関係で、まるで示し合わせたかのように彼らの身体は空中で入れ替わったのである。
勢いあまった翼宿の身体が、引っ張り上げられた井宿の変わりに宙に放り出された。
「たすき 」
今度は井宿が翼宿と同じ事をした。
だが、井宿はとっさに丘の上の巨木を錫杖を放った右手で掴んだ。
「……くぅっ!!」
途端、一気にあわせて二人分の体重が彼の右手にかかった。
「ち、井宿……!?」
井宿のその身体こそ、翼宿のお陰もあってなんとか丘の上に留まっているが、
当人のほうが逆に完全に空中に放られていた。
「……お前」
翼宿の身体は井宿の腕一本で、なんとかその場でぶらさがっていた。
だが、彼がいつまでも翼宿を支えていられるとも限らない。
「りょ……両手が塞がっていて、印が組めないのだ!」
「なっ!?……んなもん、組まんでも力発動できるように普段から修行しとけや!使えんやっちゃな」
「……落としてもいいのだ?」
「嘘です。ごめんなさい」
井宿だった。
紛れもない。翼宿のよく知る彼がここにいたのである。
「へ……へへっ」
なんや。……そやったんか。
へへっ。そんなことやと思っとったで……。
「こんなときに何笑ってるのだ!?」
不謹慎なのは自分でもよくわかっていたが、ここで笑わないでいたら最後まで自分を許せなかったに違いない。
よかった……。
今の彼の心にはその言葉ひとつしか浮かばなかった。
「……この演技派」
誤魔化しに出た言葉が照れ隠しなのは、井宿にもわかっている。
「主演男優賞もらえるのだ」
「けっ。人の気も知らんと」
だが、そんな会話もこの状況では長くは続かなかった。
「な……なぜだ!?ちちり!!」
功翔の逆上した声が空を裂く。
「オイラは仲間を裏切るようなことはしないのだ」
左手で翼宿を、右手で掴んだ巨木によってそれに加え自分の身体まで、丘の上に留めた姿勢のまま振り向かずに答えた。
「私の術が不完全だったというのか……。くそっ」
今までのは全て演技だとでもいうのか。舐めた真似を……!!
「危なかったのは事実なのだ。でも、翼宿ならたとえオイラが敵になっても、小帆を守って戦うと思ってたのだ。
同時にオイラを正気に戻してくれることも。彼ならオイラを助けてくれると信じてたのだ」
「上手いこと言うて、結局はじめから騙しておったくせに」
「敵を欺くにはまず味方からとも言うのだ」
だが、正直、井宿は真実を明かすタイミングを外したと思っていた。
実際、この態勢では、功翔に殺してくださいと言っているようなものだ。
今、要の井宿が攻撃をまともに受ければ、翼宿ともども奈落の底に放り出されるのは目に見えていた。
「ふざけるな!もう許せん!!そもそもお前なんぞの力を取り込もうとしたのが、俺の甘さだったのだ」
一人称が変わると人格も変わるらしかった。
功翔の表情はいつになく血管が浮いたものとなっている。
「二人仲良くあの世に行け!!」
『!?』
「だめぇ っ!!!」
功翔の言葉に二人の顔がこわばったその時である。
甲高い少女の悲鳴が上がった。
「あ!小帆!?」
とっさに止めた魁俊の腕を強引に振り払い、小帆はなりふり構わず走った。
その瞬間、風の中で弓なりになったかまいたちなるものが無数に彼の両手から迸り出た。
その時既に、小帆は巨木の後方までたどり着いていた。
無数の陣風はその先の井宿と翼宿を目標にしていたのである。
当然、彼らの手前に立ちはだかった者は容赦なく切り刻んだ。
両手を広げた全身を、形のない刃が非情にも目標をそれへと変えて包み込んだ。
肌肉を残酷な音ともに切り刻まれ、声にならない悲鳴を上げた。
『小帆!!!』
翼宿の位置からは丘の上の様子がわからない。
だが、小帆の身に何かあった。そのことが、彼の逆鱗に触れるには十分すぎる理由だったのである。
「井宿!!しっかり掴んどれ!」
「!!」
井宿の握力が強くなったのを感じるのが早いか、彼は宙に浮かんだ不安定な状態のまま鉄扇を大きく振った。
「烈火神焔!!!」
途端、ほとばしり出た炎が突き出た丘の土の上を這うようにして、劫火の如くまっすぐ功翔を焼いた。
「くっ!!」
思わぬところからの攻撃に一瞬面くらい、出遅れたがやはりそこは四天王だけあって、
一筋縄ではいかなかった。
その軌道に風の障壁を設け、とっさに炎の威力を半減させていたのである。
といってもダメージは相当のものようで、火傷だらけの身体はその場にガクリと膝をついた。
「小帆!!いけるか!」
「小帆……!!」
「井宿!小帆、どないしたんや!?大丈夫なんやろ……?」
だが、その時翼宿の鼻をついたのは血のにおいだった。
「小帆!!」
小帆は井宿の目の前で傷だらけの身体を横たえていた。
緑のはずの草が、彼女の周りだけまるですすり泣くように転々と赤く染まっていった。
「小帆……」
井宿にはどうすることもできなかった。
気を失った彼女の無残に切り裂かれた身体を、その目で見ていながら駆け寄って触れてやることすら。
だが、翼宿に至ってもそれは同じで、状況が見て取れない分余計にそのやるせなさは募る。
『小帆!!』
その場で唯一動きが自由だった紅可と魁俊に功翔が気付き、
「させるか!!」
走った彼らを得意の風圧で吹き飛ばした。
丘の周りを囲うようにしてあった森林の木に背中を強打し、二人はうずくまった。
「くぅ……!!」
「痛っ……!!」
「ふざけやがって。黄龍の巫女。目障りだ!消えろ!!」
「やめろ!功翔 !!」
井宿が悲痛な声を上げるが、風は一度あらぶれば大地を巻き上げる大蛇と化す。
第二陣は弓なりに伸びた大きな曲刀。
それで彼女のこの小さな身体を一刀両断しようというのか。
井宿は動きさえ取れれば、自分が身代わりに裂かれてもいいと思った。
それは翼宿も同じだ。だのに、どうして運命はこうまでして彼らを苦しめたがるのか。
目の前で少女が無残に裂かれる瞬間を、このまま手をこまねいて見ているしかないのか!!
小帆はその時浅い意識の中で、微かな夢を見ていた。
とても、幸せな夢……。
光。出来ることなら私、あなたと一緒に日本で幸せに暮らしたかった……。
彼女の意識はここで途切れた。
しかし、
「なにっ!!?」
功翔は息を呑んだ。
巫女の身体は彼の思ったとおりの結果にはならなかったのである。
しかし、その場には確かに、以前にも増してむせ返るような血の匂いが充満していた。
「……ぐぅっ!!」
小帆を、その身を挺して守った者がいたのだ。
でもそれは、井宿でもなければ翼宿でもない。
まして、距離を隔てていた紅可と魁俊が走ったところで、そのようなことができるはずなかった。
その場の全員の顔が驚愕に満ちる中、井宿だけがその表情のまま口を開いた。
「あんたは……」
(update:04.04.25)