画像:富岡製糸場の繰糸所

画像:大坂紡績

   このお雇い外国人の導入は、官営鉱山だけでなく,民営鉱山もこれにならっている。尾去沢銅山のルイス・ジンジル(米),別子銅山のルイ・ラロック(仏),石見大森銀山のポール・サルダ(仏),山ヶ野金山のポール・オジエ(仏)などである。(出典)

富岡製糸場(群馬県富岡市) 

文 明 開 化 の 詳 細 (5)

1867年(慶應3年)     薩摩藩の顧問として博覧会で活躍したフランス人シャルル・ド・モンブラン伯爵が、鉱山技師フランソワ・コワニエを薩摩につれてきたが、コワニエは翌年には新政府に雇われ生野銀山開発を任される。


 大蔵卿大隈重信が,F・コワニーに対して官営鉱山の抜本的在り方を諮問した。F・コワニーは71年(明治41月,「すでに官営鉱山に指定されている生野 銀山,佐渡金山の他に,銀を含有する鉛鉱山と錫・石炭・鉄の各山のうち,もっとも有望な鉱山を選び計6ヶ山を官営鉱山の対象として,民営鉱山の模範にすべ きこと,ヨーロッパから学者=鉱山技師を数名雇い入れて,鉱坑関係に必要な一切の指導を行なわせるべきこと,そして,日本人に彼らの技術を学ばせること, その上で会社組織による経営を展開して大なる収益をあげるべき」などを骨子とする「日本国坑政の策12)」を策定建議した。・・・・・そしてこの結果77年(明治10)ごろまでにおいて,漸次無差別な指定の在り方が整序され,今日いうところの官営鉱山体制が確立した。 

画像:史跡生野銀山 ©2013 Google, ZENRIN

画像:鹿鳴館

画像:生野銀山鉱口前に建つジャン・フランシスク・コワニエの胸像

14. 鉱山開発      フランス

画像:於鹿鳴館貴婦人慈善会之図

画像:幕府の直轄鉱山として栄えた生野銀山

画像建築家ジョサイア・コンドルの建築作品コレクション
出典www.maroon.dti.ne.jp
東京帝室博物館本館 (1885)
上野博物館(東京帝室博物館本館)です。
関東大震災で崩壊してしまいました。

ジョサイア・コンドル

   
東京帝室博物館本館(1882)、宮内省本館(1882)、鹿鳴館(1883)など多数

画像新町紡績所 1877

官営模範工場の一つであり、明治5104日(1872114日)に操業を開始した。フランス・リヨンの商社、エシュト・リリアンタール商会の横浜駐在員であり、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入した。

15. 紡績 イギリスのちにフランス

日本紡績業の本格的なスタートは1882年(明治15年)に設立された大阪紡績ではじまった。同社は、民間有力者を株主とし資本金25万円、当時のイギリス紡績工場に匹敵するミュール紡績機15百錘を備え、蒸気機関を動力源とした本格的な国際規模の工場だった。大阪紡績設立の中心人物は第一銀行頭取の渋沢栄一である。新会社の中心人物として東京帝国大法学部卒業後イギリスに留学中の山辺丈夫に白羽の矢が立てられた。山辺は、留学の目的を急遽変更してマンチェスターの紡績工場で実習するなど周到な準備を行なった。彼は帰国すると直ちに設立後間もない大阪紡績の工務支配人となり、販売を除く事業全般の責任者として采配を振るった。事業は操業開始直後から高配当を行うなど予想を超える大成功となった。(出典


 1878年(明治11年)、政府は綿製品の輸入紡遏と国産綿栽培の保護育成をはかるため、広島と岡崎に官営紡績所の建設を決定した。1881(明治14)年、岡崎に官営愛知紡績所が完成し、模範工場としての役割を担うことになった。その後東海地域には、三重紡績(1882年)、名古屋紡績(1885年)、尾張紡績(1887年)などの大規模な民間紡績会社が次々と設立された。これら洋式紡績は、明治20年代には原料を国産綿や中国綿からインド綿へと転換することによって均質な細糸を量産するようになっていった。(出典
紡績    
新町紡績所(群馬県高崎市)

屑繭を紡績して絹糸(紡績絹糸)をつくる工場 佐々木長淳の献策により設置が決まり、基本的な設備はスイスとドイツから輸入された。1877年(明治10年)71日に操業を開始し、1020日には大久保利通、伊藤博文、大隈重信など当時の政府首脳がほとんど出席して開所式が挙行された。翌年には明治天皇が行幸し、自ら紡績機械を運転して確かめたという記録もある。

16. 建築 イギリス