日本で最初の近代工廠である横須賀海軍工廠は1865年,
フランス人の技術者、レオンス・ヴェルニーによって作られた。
フランス人のルイ=エミール・ベルタンは艦艇設計技師の第一人者であり、1886年から1890年の4年間 7隻の主力艦と22隻の水雷艇を設計、建造し、呉と佐世保の工廠と佐世保造船廠を建設した。日本での建設:巡洋艦「橋立」が横須賀で建造され、小型巡洋艦としては、横須賀で建造された1,800トンの「八重山」、フリゲート、横須賀建造の「高雄」、1,600トンほか。
画像:橋立 (防護巡洋艦)。起工は1888年(明治21年)、完成は1894年(明治27年)。
蒸気船 琵琶湖には1869(明治2)年3月からすでに蒸気船が運航されていて、その後に鉄道・東湖線(現在の東海道本線)が東岸を通るまで物流の中心となっていた。
1877年 東京医学校と東京開成学校を合わせて、東京大学となる。即ち、幕末期の種痘所と蕃書調所が、明治維新後の東京大学の基礎となり、学問の府として、外来文化の受容、和魂洋才で国策遂行、技術者養成を行った。
ドイツ本国の医学隆盛は第一次世界大戦の頃まで続き、明治時代にドイツ医学を模範としたのは得策だった。
デイヴィッド・モルレーDavid Murray
ラトガース大学教授のデイヴィッド・モルレーDavid Murrayも、明治6(1873)年、日本政府に招聘され、6年間にわたり文部省顧問の役職に就き、明治の教育制度と教育法整備に大いに貢献した。
ウィリアム・グリフィス(当時27歳)
1870年12月29日(明治3年11月8日)に来日。福井に行き、廃藩置県の後東京に戻り、合計3年7ヶ月あまりの間日本に滞在する。1872年大学南校(東京大学の前身)で、正式に化学、生理学、比較言語学を教える事から始めた。グリフィスの担当教科が次第に拡大し、物理学、化学、地理学、生理学、文学、法学にまで及んだ。
1871(明治4)年9月には文部省ができ、大木喬任が初代文部卿に就任し、多くの近代的な教育制度が出来始めた。当時、アメリカや欧州を視察した岩倉使節団に文部省を代表する理事として参加して帰国した、田中不二麿(ふじまろ)が文部大輔(たいふ)として文部卿に次ぐ中心人物だった。
1874(明治7)年夏までの日本滞在が合意できた。
横須賀海軍工廠
画像:
幕府は安政2年10月24日(1855年12月3日)に長崎海軍伝習所を開いたが、総監の永井尚志は幕府に大型船造修所建設の必要性があることを説いた。しかし、幕府からの指示がなかったため、永井はオランダに対し、独断で建設要員の派遣要請と機械類・資材の発注を行った。安政4年6月には資材が到着、続いて8月5日(1857年9月22日)には、ヤーパン号(咸臨丸)と共にヘンドリック・ハルデスを始めとする建設要員11人も到着した。同年8月23日(10月10日)に、長崎・浦上村淵字飽の浦の9040坪の土地に建設が始められ、文久元年3月25日(1861年5月4日)に完成した。25馬力の蒸気機関で、工作機械約20台を稼動させた。幕府の意図としては兵器生産などに必要な製鉄所としての機能を期待したのであるが、実際には艦船の修理を行う造船所としての機能が大きかった。なお、工作機械や製鉄機能を有する造船所としては、幕府のものは長崎製鉄所のほか横須賀製鉄所が造られた。
11. 工学 いろいろ
画像:注:Benjamin Carl Leopold Müller
1869年(明治2年)日本政府はドイツ医学の導入を決定し、翌年3月18日ドイツ北部連邦公使マックス・フォン・ブラントとの間に、医学教師2名を3年間招聘する契約が結ばれた。当時日本では医師の社会的地位が低く、フォン・ブラントは軍医でなければ主導的地位に受け入れられないと判断した。ミュルレルはハイチで同様の任を務めていたことから派遣を打診され、テオドール・ホフマンとともに応諾する。普仏戦争のため来日が遅れたが、1871年6月3日にブレーメンを出航し、船便の都合でアメリカに1ヶ月滞在した後、8月23日に横浜港へ到着した。
契約で初代文部卿大木喬任の直属となり大学東校の全権を委ねられたため、抜本的な改革が可能となった。解剖学・外科・婦人科・眼科を担当した。また医師と独立した薬剤師の必要性を説いて製薬学科の設立に関わった。日本滞在中の1872年に軍医少佐(Oberstabsarzt 1. Klasse)に昇進している。
1874年に3年間の契約が満了する際に日本人の指揮下に入る条件で契約更新を打診されるが、それでは改革は実行できないとしてこれを断る。後任者との引き継ぎを行うまでの間は宮内省でいわば侍医として雇われることになる。1875年11月25日に横浜からサンフランシスコ経由で帰国の途に就き、1976年4月8日にベルリンへ到着する。帰国後の1876年4月に廃兵院の院長、1887年には陸軍第1病院の院長となる。1893年9月13日病死。
10. 医学 ドイツ
画像:吉家定夫著、玉川大学出版部 (1998/01)。
ニュージャージー州のラトガース大学でアメリカ駐在日本公使の代表との質疑応答をしたところ岩倉使節団の目にとまり、明治6年(1873年)に来日し文部省の役職に就いた。東京大学、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)と同附属幼稚園、東京学士会院創立・開設・整備に貢献した。
文 明 開 化 の 詳 細 (4)
9. 大学 アメリカ
13. 造船 オランダ、フランス
1871年〈明治4年〉、工部省に工学寮が設置された。1873年〈明治6年〉に大学が置かれ、1877年1月 (明治10年)には工部大学校に改称した。
1885年、工部省の廃止に伴い文部省に移管され、
1886年の帝国大学令により東京大学工芸学部と合併、帝国大学工科大学となった。
画像:南校全職員生徒写真。場所は南校構内(現在の如水会館から共立女子大学にかけての区域)。
1869年(明治2年) 医学所が大学東校に改称。
1870年(明治3年)に明治政府はドイツ医学の採用を決めた(相良知安)
明治4年(1871年)7月、「東校」への改称後、プロイセンより(陸軍軍医であったミュレル(少佐)とホフマン(少尉))レオポルト・ミュルレル、ホフマンらが招聘され教授として着任した。(引用)
1873年に東京医学校となる。
一方、1856年設立の幕府の藩書調所が、1862年に洋書調所、更に1863年に開成所、1869年に大学南校、1873年に東京開成学校となる。