19. 「お雇い外国人」
文 明 開 化 の 詳 細 (6)
このような基盤の上で、初期の軍事制度の確立に大きな貢献を果たしたのは、桂太郎と川上操六である。桂は、普仏戦争終結のころとその後数年間にわたってドイツに学んだ(1870年8月から1873年10月まで私費留学)。川上は、前後2回の留学により、ドイツ参謀本部で実際の勤務を体験し、モルトケ参謀総長の指導を受けた。そして、 1885(明治18)年、桂は陸軍省総務局長に、川上は参謀本部次長に任命され、日本の軍事制度は、それによってこれまでのフランス式からドイツ式に転換 されることになった。このように、山県が徴兵令によって国民皆兵を実現して軍隊の基盤をつくったとすれば、桂は、軍政面で活躍し、軍政・軍令の二元化によって天皇直属の軍隊の骨格を法制的に確立したことになる。また川上は、のちに大将・参謀総長となり、明治初期の軍令を代表する者となった。
明治初期における近代化は、先進諸外国の進んだ制度や思想を取り入れることによって進められ、主として視察や留学によった。軍事面では、 1869(明治2)年、山県有朋のフランス、プロシャ、イギリス、アメリカへの視察旅行が大きな意義をもっていた。すなわち、彼は、同道した西郷従道とともに明治の陸海軍の元老的な存在となり、西洋の新しい軍事制度を日本に導入したからである。
画像:川上操六
画像:Helmuth Karl Bernhard von Moltke,
© National Portrait Gallery, London
外務省記録の中には各省庁や府県が雇用した外国人(いわゆる「お雇い外国人」)に関する記録があります。
17. 陸軍 フランスのちにドイツ
以上。
徳川幕府も末期になり、いよいよアメリカのペリー提督が蒸気軍艦・黒船を率いて浦賀に来ると、海防の遅れを痛感した幕閣は直ちに嘉永6(1853)年9 月、長崎奉行・大沢定宅に命じオランダに軍艦、鉄砲、兵書を発注させた。2年後の安政2(1855)年8月25日オランダ国王は木造蒸気軍艦・スームビング号を幕府に寄贈し、大砲6門を装備した日本で初めての蒸気軍艦・観光丸が誕生し、日本で初めての海軍伝習が長崎で始まった。この時に、長崎海軍伝習所教授役に任じられたスームビング号艦長のペルス・ライケンとその部下たちが、上記のウイリアム・アダムスたちに次ぐ「お雇い」になった。
同様に、1882(明治15)年に陸軍大学校条例が制定され、翌83(明治16)年に参謀将校の養成機関として陸軍大学校が開校し た。陸軍大学校は、開校3年目の85(明治18)年にモルトケの推挙するメッケル少佐を教官に招き、当時のドイツの兵学を直接取り入れることとした。メッ ケルは3年間日本に滞在し、熱心に教育にあたった。この教育を受けた学生の数は約60人にのぼり、彼らの多くは、のちに日清(1894~95 年)と日露(1904~05年)の両戦争において枢要な地位にあって活躍した。メッケルの帰国後も、数名のドイツ人教官があいついで来日し、これは1895(明治 28)年まで続いた。
(以上:出典)
幕府の要請により西洋式陸軍の訓練のために、ジュール・ブリュネを団長とする第一次フランス軍事顧問団(1867-1868年)が派遣された。
また4年前に幕府が発注した大砲12門装備の軍艦・咸臨丸が、安政4年(1857)8月5日いよいよオランダから長崎に届けられ、長崎海軍伝習所に所属し、日本海軍の訓練に使われた。今度はカッテンディーケがペルス・ライケンの後任として長崎海軍伝習所教授役に任じられ、幕府のお雇いになった。
18. 海軍 オランダ
画像:『ビゴー素描コレクション』2 芳賀徹他、岩波書店 1989 P120
フランス帰り〔右〕とドイツ帰り〔左〕
明治15年に来日し、17年間日本に滞在したフランス人画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(1860-1927)が明治20年頃描いた独仏混合状態の日本陸軍
画像:陸軍大学校、国立国会図書館所蔵「日本陸海軍写真帖」(明36.7刊行)から © 2007 National Diet Library. Japan.
画像:桂太郎