引用:浮世絵太田記念美術館から
今ではすっかり行われなくなってしまいましたが、江戸時代には「二十六夜待」という、7月26日の夜に月が昇るのを待ってそれを拝む習慣がありました。二十六日の月ですので、月が昇るのは日の出直前の明け方頃。江戸っ子たちはわずかな時間だけ見えるこの月を眺めるために、夜更かしをして待ち続けていたのです。
図は、二十六夜待の名所の一つである、江戸湾に面した高輪の風景。月が出るまでおとなしく待っている江戸っ子たちではありません。海辺には大勢の人が集まり、わいわいとにぎやかに時間を過ごしています。それらの見物客を目当てにしてか、天ぷらや蕎麦、寿司、団子、お汁粉など、さまざまな屋台の店が立ち並んでおり、江戸時代の食生活の様子もうかがい知ることができます。
当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。これは鉄道発祥国イギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた、駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。翌1870年(明治3年)、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始まった。日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父。鉄道国有論者としても著名)が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わった。
文 明 開 化 の 詳 細 (2)
1851年、フランスの物理学者フーコーとフランスの光学機器メーカー;ジュール・デュボスクはこの電磁石と保持器の原理を使い、商業用アーク灯第一号を開発した。このアーク灯は自動制御装置の代わりに、カーボン棒を動かすための時計用ギア・メカニズムを使っている。このデュボスク灯は世界最初に作られた電灯であり、この時代のすべての教科書に図解例が示されている。長時間ランプを灯し続けるために必要な電流を発電するという第三の問題は、フランスの技術者グラム氏によるグラムダイナモが開発されるまでさらに24年間を要した。
1878年(明治10年)3月25日、虎ノ門の工部大学校でイギリス人教師W.R.Ayrtonの指導のもとでグローブ電池を用いてデュボスク式アーク灯(仏製)が点灯された。
1886年(明治19年)東京電灯会社(現・東京電力の前身)が開業
1887年(明治20年)東京電灯により東京・茅場町に日本初の火力発電所が誕生(出力25kW)。家庭配電(210V直流)を開始。
1886年(明治19年)東京電灯会社(現・東京電力の前身)が開業
(出典)
画像:デュボスクのアーク灯第一号(First Duboscq Arc Lamp)
鉄道建設
鉄道建設は、エドモンド・モレル。1872年(明治5年)、新橋(現・汐留)〜横浜(現・桜木町)間29キロ。
エドモンド・モレル「工部省設置についてのモレルの建議(明治3年4月)」『日本近代思想大系 8』岩波書店、1988年を参照せよ。
鉄道建設の決定は1870年(明治3年)5月28日。
民部大蔵大輔、 大隈重信
民部大蔵少輔兼会計官権判事、伊藤博文
そうしたことから、ホップが自生する土地で、ビール大麦の栽培にも適しており原料の自給自足が可能なこと、低温で発酵させるための氷が入手しやすいことなど、気候風土がビールづくりに適している北海道に、政府の勧農・殖産興業政策に合致するビール醸造事業が導入されることになりました。
注:『パークス伝』の記述を参照せよ。
6. 鉄道 イギリス
開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは1876(明治9)年に醸造所の建設から始まり、1877 (明治10) 年夏には、本場ドイツ(ベルリン「チボリティ」醸造所)で修業した日本人初のブラウマイスター中川清兵衛によって仕込まれた第1号商品冷製「札幌ビール」が、サッポロビールのトレードマー クである「五稜星」★が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって東京へと運ばれました。
引用:開拓使麦酒醸造所★物語
4. 麦酒醸造所 ドイツ
日本で初めて電灯が輝いたのは、1878年(明治11)3月25日(電気記念日)東京虎ノ門工部大学校(現:東大工学部)で開催された電信中央局開業祝賀晩餐会である。藤岡市助、中野初子らがグローブ電池で仏製デュボスク式アーク灯を点灯し人々を驚かせた。一方、白熱電球の日本初点灯は(1884年〔明治17年〕6月25日)上野・高崎間鉄道開通式で、この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・事業性の認識が高まっていく。1887年(明治20)東京電燈(現:東京電力)が設立され、産業に使用できる電力体系が整備されるが、白熱電球は米国・独製などの高価な外国製品に依存するしかなかった。
藤岡市助は、1884年(明治17)米国フィラデルフィア万国電気博覧会に国の使節として派遣され、エジソンと面会した。電気器具の国産化を指導され、白熱電球の国産化を決心したものの、いくつかの技術的ブレークスルーが必要だった。それはガラス管球を作ること、管球の中から空気を排出すること、フィラメントを作ることなどで、1889年(明治22)京橋の東京電燈の社宅で試作・研究を開始した。翌年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍屋町に設立した。最初は木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソンが日本の竹を用いたと聞き、竹フィラメントの炭素電球12個を日本で初めて製造した。
(出典)
基本計画
基本計画はリチャード・ブラントン。リチャード・ブラントン1868年(明治元年)2月24日に明治政府から採用。お雇い外国人としては第1号であった。灯台技師として採用されたが、灯台建設のほか、日本初の電信架設(1869年、東京・築地 - 横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し街路を整備した。また、日本最初の鉄道建設についての意見書を提出し、ローウェンホルスト・ムルデルらとともに大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出している。ほか、横浜公園の設計も委任された。)明治5年(1872年)9月に全通した新橋〜横浜間の日本最初の鉄道の基本計画は日本政府の諮問に応じてブラントンが作成したもの。
ロシアの南下政策への対抗策として1869 (明治2) 年に設置された開拓使は、殖産興業に燃える新政府の切り札として大いに期待され、外国人技師の招へいが行われて「開拓使麦酒醸造所」を含む30種以上の官営工場が開設されました。輸入品の「舶来ビール」や横浜の外国人技師が作る「居留地ビール」が発信源となって次第に認知度が高まっていたビールは新時代を象徴する飲み物で、国内消費や輸出向けの有望なマーケットが誕生する可能性を秘めていました。
なお、鉄道建設の外債条件については『伊藤博文伝』上(春畝公追頌会、昭和15年 P492~500)を参照せよ。
画像:1877(明治10)年、日本最初の缶詰工場、石狩缶詰所が出来た。
画像:『札幌ビール』のラベル (明治11年使用のラベル)
画像:村橋久成・中川清兵衛が中心となって建設された開拓使麦酒醸造所は、明治9年(1876)開業することとなった。翌年には開拓使のシンボルである北極星をマークとした冷製札幌ビールがはじめて世に送り出された。開拓使麦酒醸造所は現在の札幌フアクトリーで、この麦酒が現在のサッポロビールの発祥となっている。
画像:「東京汐留鉄道御開業祭礼図」 歌川広重三代 万屋孫兵衛
7. 電灯・アーク灯 フランス
画像:「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」 天保十二年 - 十三年(1841〜1842) 広重(初代)
鉄道が敷設される前の高輪海岸を題材としている。
石狩缶詰所
5. 缶詰 アメリカ