文 明 開 化 の 詳 細 (1)
ちなみに世界最初の切手は、
樺太を視察した黒田は「現状では樺太は3年もたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。
明治7年(1874年)に長官となった黒田は、米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。
アメリカ合衆国政府で農務局長であったホーレス・ケプロンは、1871年、渡米していた黒田清隆に懇願され来日、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。
麦作を奨励、道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設、札幌-室蘭間、森-函館間までの馬車道が整備された(室蘭-森間は航路)。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。
蝦夷地・北海道の開拓に関連して、今でも良く名前が知られているのは、
開拓使顧問・ホーレス・ケプロン(1871年)
札幌農学校初代教頭・ウィリアム・クラーク
(1876年)
画像: 明治9年に開校した札幌農学校(現北海道大学)は、W.S.クラークの指導によって開校とほぼ同時に広大な農場を開き、北海道への移住者に未経験の近代的な大規模有畜農業を採り入れる拠点を作った。
このクラーク構想は、マサチューセッツ農科大学での教え子であるW.P.ブルックスらに引き継がれ、北海道開拓に適する作物や農機具の輸入と選定、栽培や経営法の指導を行って北海道農法の構築に貢献した。
ここ札幌農学校第二農場は、明治10年に建設されたW.ホイラー設計の模範家畜房、W.P.ブルックスが設計した穀物庫を中心とした一連の畜産経営の施設を備えて、一軒の畜産農家を模した実績・模範農場として発足した。
それらの農場施設はバルーン・フレーム(風船構造)と言われる建築様式で、当時のアメリカの中世部の開拓地に広まった軽木骨造りの実用的な建物。
特に模範家畜房は1階が家畜舎、広々した2階は干草置場となっており、北海道の風土にあった酪農業を進めるためのモデルでもありました。
また、大正元年に建設された緑飼貯蔵庫は道内最古のサイロと伝えられ、他の施設とともに当時の酪農経営の形態を知る上で大変貴重な建築物となっています。
3. 僻地開拓 アメリカ
開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
明治3年(1870年)に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じた。
明治2 年(1869年)8月、横浜・元弁天の燈明台役所と上部機関である神奈川裁判所との間に電信を布設し通信を開始しています。ブラントンが架設したもので、官庁用電信の第一号となりました。
また明治2年(1869年)12月に東京〜横浜間32kmで公衆電報の取り扱いが始まりましたが、この電信もブラントンの斡旋、援助によって完成しています。
海外との電信線開通は1871年11月。詳しくは次。
前島密により1871年(明治4年)4月20日にイギリスより導入され、東京〜大阪間で開始された。
彼は、明治3年、租税権正となり駅逓権正を兼任し、この時に、郵便事業の立案をしました。その後、租税権正として渡英し、イギリスで郵政事業を学んだ。
明治4年、新式郵便制度が開始され、明治4年8月イギリスから帰国した前島密は、駅逓頭に任命されました。この時から明治14年に退官するまで、郵政の長官として事業の基礎を築いた。(出典)