わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟 |
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりふね 6字決まり |
作者は参議篁。小野篁さんです。この方は才能に満ち溢れていた方のようで、漢詩文も書も非凡、正確は気骨があって曲がったことが大っ嫌いという方だったようです。 遣唐副使を命ぜられたのですが、その時に大使と争い乗船しなかったために勅命(天皇の命令)に従わなかったということで、隠岐の島に流されてしまいました。争いの背景には訳のわからない理不尽な駆け引きやらなんやら色んな事があったとされています。当然そういうわけの判らないことが大っ嫌いだった彼は、妙な権力と真っ向勝負して、無念の気持ちで島流しを受け入れます。 この歌はその時の歌なんですね。いつ京の都へ戻れるのか、生きて再び戻ることが出来るのか何もわからないそんな不安の中、実に堂々とした風情のある歌だと思います。 『はるかな大海原に、あまたの島々が浮かんでいる。島から島へ舟を漕ぎながら、私は罪人として流人島に追われていったと、都の愛するあの人に伝えてはくれないか、つり舟の漁師達よ。』 2年後、篁はその才能を惜しまれて都に無事戻ることが出来ました。そして『参議』…今で言うと政府の閣僚クラスにまで、順調に進むことが出来たのです。 純粋無垢な大男だったという篁さん、あまりに純粋すぎて逆に変な逸話が残ってしまったようです。純粋で気骨があって…最近そんな男性はトンと見かけなくなったような??? (ちょうど時節柄、田中真紀子外務大臣の更迭劇を思い出してしまいました。「変な男の変な声…」これに立ち向かう篁さんのような人が一人くらい外務省にいてもいいように思うのは、私だけでしょうか?) |
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ |
あまつかぜ くものかよいじ ふきとじよ おとめのすがた しばしとどめん 3字決まり |
作者は僧上遍昭。古今集の「五節(ごせち)の舞姫を見て詠める」という詞書からも判るとおり、宮中の大きな儀式である豊明節会(とよあかりのせちえ)で行なわれる「五節の舞」を踊っている舞姫たちを見立てて、詠んだ歌です。いわゆる『見立て』という技法が使われています。 『天空を吹く風よ、天に通じる雲の中の通り道を吹いて閉ざしておくれ。舞姫たちの美しい姿をもう少しここにとどめておきたいから…』 遍昭さんはもともとは、左近の少将という身分の若者でした。人柄は洒脱で明朗、おまけに美男ということでたいそうもてた方だったようです。あの小野小町のボーイフレンドだったようです。仁明天皇に寵愛されておりましたが、天皇が崩御、その大葬の夜から姿が見えなくなりました。その時34歳。出家したのでした。出家後は苦しい修行に耐え、僧上の位にまで上ったということです。 |
筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる |
つくばねの みねよりおつる みなのがわ こいぞつもりて ふちとなりぬる 2字決まり |
作者は陽成院。この歌は陽成院の妃、つまり奥さんに捧げた恋歌だそうです。ところでこの陽成院さん、お脳に病があり時々大変なお振る舞いがあった天皇さんだったという事で、成長するに及んでそこに凶暴性が加わったそうです。そのため17歳で皇位を追われてしまいます。退位後も粗暴なお振舞いは続いたようです。その後82歳まで長生きされたそうですが、廃帝の憤懣を抱えたままの生涯はいかがなものだったのでしょうか。 ということで陽成院さんがどんな方だったかを知った上でこの歌を詠むと、とてもそんな凶暴な方の姿はなく、優しい純粋無垢な少年の心が歌われていて、天皇という身分でなければこの方はもっと幸せな生涯を送れたのではないかと、哀れな感じです。 奥様はどうやら年上の方だったらしく、この歌は幼心になんとなく好きだったお姉さんのような人への憧れが、成長するに従って恋になったという歌ではないかという説があります。 『東国の筑波山の峰から流れ落ちるわずかな流れが積もり積もって深いよどみとなり、男女(みな)の川となるように、私の小さな憧れはいつの間にかどんどん積もって恋心となり、深い物思いの淵となりました』 上の句で展開される自然描写が、下の句の恋への比喩となっている所が、とても技巧的ですが、その技巧を感じさせない味わい深い一首です。 |