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千鳥破風雌雄の鶴は左甚五郎の作だとか。 | |
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天井絵は狩野探幽の作だそうです。 | |
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中央は釈迦牟尼佛。 向かって左に、正室・大蓮院(小松姫)の位牌、右には信之公の位牌があるそうです。 大蓮院の御霊屋は菩提寺の大英寺の本堂となつているそうです。 彫物は、獣の王の麒麟と鳥の王の鳳凰が多くありました。 |
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初代・信之公宝篋印塔。 四代藩主・信弘公の御霊屋。 方三間宝形造り。(県宝) 三代の時の大火から、四代はかなりの財政建て直しがはかられたとは言え、 初代と比べるとかなり質素な造りになつています。 二代藩主・信政公の宝篋印塔。 初代と同じく立派なものでした。 御霊屋の奥に真田家の墓所(国指定文化財)がありました。 宝篋印塔21基、地蔵型塔2基があるそうです。 初代・信之公の鳥居の向かいに、父・昌幸公、弟・幸村公等の供養塔が建っていました。 藩政も終わり大正になってから建てられたものだそうです。 歴代藩主夫人の墓は別の寺にあるそうです。 |
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祝神社:国登録有形文化財 |
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次の目的地・旧横田家住宅に向かう途中で、ちょっと気になる神社が有ったのでよってみました。 拝殿の脇に二本の御柱が立った祝神社です。 祝神社は、この地が開拓された頃からの古社の様で、本宮は東条山で当社は里宮・名前も波布離神社だったとか、 松平忠輝が海津城城内の鎮守として祀られた建御名方命・八坂斗売命の2神と東条から生魂命を合祀て神社を再建、 総鎮守としたのだそうです。 松代初代藩主・信之も信仰深く神社を再建されたとか、 五代藩主・信安の時、隣の屋代にあった須々岐水神社から、延喜式神名帳にものっている祝神社の名前を名乗る事を許可され、 それ以降は祝神社となったのだそうです。 2度の火災で焼失し、現在の建物は1812年に建てられたものだそうです。 境内には多くの摂社がありますが、明治以降に移築されたものだそうです。 |
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旧横田家住宅:国指定重要文化財 |
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旧横田家に向かう途中に、松代藩御用商人の八田家がありました。 今回はここは通過、横田家へと向かいます。 表の長屋門の前で、午後の部のガイドもお願いした宮澤さんがすでに待っておられました。 表の長屋門は、10畳と8畳の2室がついているそうです。 横田家は、中級藩士の公舎で、現在の建物は江戸末期に建てられたものだそうです。 重要文化財に指定されたのは、主屋、表門、隠居屋、土蔵二棟だそうです。 武家屋敷の特徴は、門と玄関・床の間にあるそうです。 入口は、公務の時に使用される式台付玄関と日常使われる土間の大戸口がありました。 来客用の座敷には床の間・棚・仏壇がもうけられていました。 釘隠しは、新御殿と同じものが使われており、これが公務の部屋のしきたりなのでしょうか。 床柱は竹の子削りとちょっとしゃれていました。 他の座敷にも床の間が付いており、床の間の多いのも武家屋敷の特徴だとか。 |
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茶の間。 家族が使用する部屋だそうです。 15畳の茶の間の天井は吹き抜けになつています。 |
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浄化用の泉水升。 隠居屋。 松代の典型的な隠居屋だそうで、幕末に建てられたものて後に移築されたものだとか。 主屋とは直接繋がっていません。 板の間と座敷2室があります。 土間に続いた勝手。 浄化用の泉水升。 泉水と泉水は繋がっており、水は食器洗いや洗面にも使われていたそうです。 そのため所々に泉水路水質浄化施設がもうけられたとか。 屋敷内に、浄化施設が復元されていました。 |
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象山記念館: |
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今日最後の訪問先は、象山神社です。 幕末の大先覚者・佐久間象山、名前の呼び方はゾウザン・ショウザンの2通りあるそうですが、 漢読みではショウザン、オランダ語のサインでもショウザンがあつたとか、 しかし長野県とここ松代では、故郷の山・象山にちなんで、ゾウザンと呼ぶ事になつたそうです。 まずは象山記念館で、象山についてビテオで勉強をします。 象山記念館は象山の遺墨、遺品を公開する施設として地元有志で企画、 昭和40年に建設され、市に譲渡され昭和42年から開館されたのだそうです。 ペリー来航により、南北戦争で不要になつた鉄砲も大量に日本に持ち込まれ、 戊辰戦争の折にはこういった銃が使われたそうです。 象山は多才で、武芸にも優れ、元は漢学者だったが、蘭学・洋学・科学等の知識を身に付けたそうです。 江戸時代の科学者としては、平賀源内が有名だが、象山も電信の実験をするとか色々な試みもやつたそうです。 文武の知識も豊富で改革の志も強かった、八代藩主・幸貫(松平定信の二男)が水野忠邦による天保の改革の時、 老中となり改革の推進に関わる事になつたそうです。 幸貫は老中海防掛となり、海防係顧問として象山を登用、 象山は海外の事情を研究し海防八策をまとめ幕府に献策したが、その時は受け入れられず、 幕府も後になつて献策の様に行わざるをえなくなつたそうです。 天保の改革は失敗に終わり、幸貫も老中を辞して帰藩し、 その後佐久間象山を江戸から松代に戻らせ、殖産振興に当たらせたそうです。 松代焼もこの時に広められたのだそうです。 その後、マグニチュード7.4の直下型地震・善光寺地震が発生、千曲川も塞き止められダムが出来たそうです。 象山は災害を予想してダムの爆破を進言したが、費用がなくそのままでいたらついに決壊し 川中島の穀倉地帯は洪水の被害を受けたそうです。 象山が41歳になって、江戸居住が許され、木挽町に五月塾をつくり、砲術と経書を教えたそうです。 この塾の門下生には新時代で活躍する若者・勝麟太郎・吉田松陰・橋本左内・坂本龍馬等の人材を多く輩出したそうです。 この時、勝麟太郎の妹・順は、学者との結婚を望み、象山の妻となつたのだそうです。 松代藩主も九代・幸教に代わり、ペリー来航の時は幸教は象山の意見で御殿山の警備を申し出ようとしたが、 藩内の反対で取りやめ、翌年の2度目の来航の時は横浜の警備を申し使ったそうです。 この時、吉田松陰が密航を試み失敗、象山はこれに加担したとして松代に蟄居の身となつたそうです。 幸教が御所南門の警備の命を受けた頃、象山は幕府・将軍家茂の命で自論の公武合体・開国を進める為に京へ上ったそうですが、 ニケ月ほどで尊王攘夷派によって暗殺されてしまったそうです。 |
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象山神社: |
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象山神社。 象山神社は、先ほど見学した横田家の元大審院長・横田秀雄氏の音頭で神社建設の検討が始まり、 昭和13年に祭神を佐久間象山とた神社を県社として建設したものだそうです。 神社に入ってすぐにある池の脇の道を奥に進むと、佐久間象山宅跡(県指定史跡)がありました。 佐久間家は下級武士だつたそうで、敷地面積も先ほどの中級武士の横田家に比べて狭いものになっていました。 京での象山暗殺の後は、松代藩も尊王攘夷派に傾き、 佐久間家は断絶、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊されてしまったそうです。 その後、妻・佐久間順のはたらきかけもあり、佐久間家は明治になってから再興されたそうです。 |
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煙雨亭。 京都での象山の住居・煙雨楼に有った茶室だそうで、昭和56年に移築されたそうです。 高義亭・松代での蟄居中の来客との面会の場。 |
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ちょっとよりみち: |
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帰り路でも、北アルプスは雲の中で見えませんでしたが、南アルプスの山並みはくっきりと見る事が出来ました。
地元に戻って、市立岡谷美術考古館が、昨年11月に童画館通りにオープンし、 そこで会員の方も出品されている「つるし雛展」をやっていると言う事でよってみる事になりました。 旅の最後は、マリオさんに戻ってお雛様を眺めてお開きです。 今日の松代は、日中に小雪もちらつく寒い一日でしたが、 こうして最後にお雛様を見ると、春の近い事をつくづくと感じます。 今回も、盛り沢山の内容の一日でしたが、ボランティアガイドの宮澤さんの名ガイドもあって、 従実した一日をすごす事が出来ました。 感謝・感謝です。 |
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