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真田邸:国史跡・松代城跡附新御殿跡 |
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次に真田邸に向かいます。 途中に恩田杢民親の銅像が立つていました。 松代藩も三代・幸道ぐらいからは幕府の賦役も増えて、 そこに大火が発生復興に幕府から一万両の借財をすることになったそうです。 四代信弘は倹約で財政も持ち直したが、 五代信安の時に洪水で千曲川が氾濫、河川改修に再度幕府から一万両の借財をする事になったそうです。 六代藩主幸弘は家老の恩田杢民親を勝手方に据えて財政の建て直しを図ったそうです。 5年間の在任中には、目覚ましい成果は得られなかったが、 藩士・領民の意識改革は進んだそうで、著書の日暮硯は人気が有ったそうです。 名前の杢は官名で木工寮・宮内省被官の事だそうです。 鎌倉時代以降は金銭と引き換えで官名を武士に与えた事があり、後には自官が定着したとか。 |
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新御殿は九代藩主・幸教の時参勤交代の制度が緩和され藩主の妻子が国元へ帰る事が許された時、 義母・貞松院の為に建てたそうです。 しかし、2ケ月住んだだけで、参勤交代制度がもとに戻り、再度江戸に戻ったそうです。 新御殿は、その後藩主の座をしりぞいた幸教の隠居所として使われたそうです。 造りは二条城と同じ御殿造りで、公務で使われる表と日常生活の場となる奥があるそうですが 、新御殿は奥に重点が置かれた造りになつているそうです。 御玄関と小玄関が並んでいますが、今回は御玄関から入れてもらいました。 釘隠・貞松院・の親元・松平柳沢家の花菱。 |
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御三の間・女性の間からは、奥の台所へと続く通路になつています。 前方廊下の竹節欄間からは、奥になるそうです。 御化粧之間の天井は壁紙が張られ、機密性も良くなるので、隅に通気孔がもうけられていました。 釘隠しもちょっとお洒落な巾着になっていました。 花菱の壁紙。 |
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お庭は、座って眺める池泉庭園だそうです。 お庭の奥には、隋護稲荷が祀られていました。 前方の小高い山は象山だそうです。 |
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文武学校:国指定史跡 |
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次の訪問先は文武学校です。 途中に江戸中期に造られた、旧樋口家住宅がありました。 上級武士の公舎だそうです。 今回は見学せずに通過します。 幕末になつて、各藩でも藩校が造られる様になつたそうですが、 八代藩主・幸貫は水戸・弘道館を参考に佐久間象山らの意見も入れて蘭学・西洋医学・砲術等もとりこんだ 藩校建設を計画、九代藩主・幸教が引き継ぎ開校したそうです。 受講出来るのは、中級以上の藩士の子供で8〜14歳までは文芸を15歳異常は武芸を学んだそうです。 武芸は、剣術・槍術・柔術・弓術だそうです。 腰掛建物・家来の待合所。 東序・教室。 向かいに西序があります。 弓術所。 藩主の座が左側にあります。 弓を射る人が、殿に尻を向けない為だそうです。 |
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槍術所・文武学校で最初に出来た建物だそうで、藩主の居館が焼失した時は仮りの御用部屋とされたそうです。 また明治5年に長国寺が焼失した時は庫裏に転用されたそうですが、 平成8年文武学校復元の折に戻されたものだそうです。 明治4年には、廃藩の為閉校、明治6年からは松代学校校舎として使用されたそうです。 |
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旧白井家表門:市指定文化財 |
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旧白井家表門。 中級武士の長屋門形式の門だそうです。 平成12年に表柴町から移築されたものだそうです。 中は休憩所になっており、ボランテイアの方がお茶を御馳走して下さいました。 ここで、午前の部は終了、バスで昼食の場所に向かいます。 近くに、真田勘解由家・国登録有形文化財がありました。 二代信政の長男だったが、大名を好まず末弟の幸道に三代を譲ったそうです。 江戸後期の上級武士の邸宅で、花の丸の長局を移築したものだとか。 ここは、見学出来るのかわかりませんが、とりあえず今回は通過。 |
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ちょっといっぷく:そば蔵 |
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松代の町中の竹風堂さんは今日はお休みだとか、ちょっと川中島の方へ戻って・そば蔵長野店さんで昼食を頂きました。 事前注文で栗おこわもお願い出来るとか。 ビールで喉をうるおして、注文の栗おこわと蕎麦をいただきました。 文武学校を見学する頃から、チラチラと小雪が舞い出しましたが、 晴れていればここそば蔵さんの二階からは、北信五岳が良く見えただろうにとちょっと残念でした。 午後の見学は、長国寺からです。 |
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真田山長國寺:曹洞宗 |
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長國寺さんに行く道は細く、バスで行くには大変そうなので、 広い道を途中まで行ってそこから歩く事になりました。 下りた所に八代藩主・幸貫の祐筆を務めた、関山仙太夫という囲碁の素人日本一が居たそうで、 晩年に行った本因坊秀策との二十番碁を行った場所を示す碑が建っていました。 長國寺は、真田幸隆が松尾城内に真田山長谷寺を建て真田家の菩提寺にしたのが始まりだそうで、 真田信之の松代移封によつて、現在地に移転し名前も長國寺となったのだそうです。 長谷寺としては、その後上田に再建され残っているそうです。 総門を入ると正面にどっしりとした本堂が見えてきます。 本堂は明治5年に焼失し明治19年に再建されたそうです。 鯱鉾はその時海津城から移されたものだそうです。 庫裏は、文武学校の槍術所を移築して使っていたそうですが、平成8年に返却、 9年に古庫裏の復元を行ったものだそうです。 本堂向拝の彫刻は北村喜代松父子の作だそうです。 庫裏を入ると正面に、烏枢沙摩明王の像が立っていました。 禅寺の東司(トイレ)の神様だとか、行く前にお参りして行くと良いことがあるそうです。 庫裏には大きな魚鼓がさがっていました。 禅寺では食事の合図に鳴らす為、僧堂にかかっているそうです。 |
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初代藩主・信之公の御霊屋。 本堂脇を通って裏に回ると、本堂に続く形で開山堂(県宝)がありました。 これは、三代藩主・幸道公の霊屋だったものを明治19年の本堂再建の折に、開山堂として移築したものだそうです。 真田家の御霊屋は、初代・信之公、二代・信政公と側室・松寿院、三代・幸道公、四代・信弘公の五宇並んでおり、 火災からも無事にまぬがれたそうです。 その後三代・幸道公の霊屋は開山堂とし、側室の霊屋は孝養寺(向陽寺)本堂として移築されたが 明治24年に焼失してしまったそうです。 二代・信政公の霊屋と表門は昭和27年に林正寺本堂として移築され現在も残っているそうです。 五代藩主の時には洪水発生、それ以降は藩財政が厳しく、御霊屋は造られなかったそうです。 初代藩主・信之公の御霊屋。 宝殿と表門が国指定重要文化財だそうです。 宝殿は入母屋造りで正面は千鳥破風、軒唐破風、黒漆塗の立派なものです。 松代藩は日光東照宮の普請を受け持っており、関わった職人も何人かおりその人達によって造られたものだそうです。 二代藩主・信政公は父の信之公の少し先に亡くなっており、二つの霊屋は信之の死亡2年後に同時につくられたそうで、 造りはほぼ同じだそうです。 ただ、長國寺に残っている、初代・四代の霊屋の屋根は杮葺なのに対し、 移築されたニ代、三代の霊屋の屋根は桟瓦葺きで、当初の屋根はどちらだったのでしょうか。 |
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