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桜城址: |
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桜城の矢倉。 途中の社・駒岳大神。 鎌倉時代の流鏑馬の名手でもあり、歌人でもあった金刺盛久の歌碑。 木曽義仲・駒王丸が幼少の頃で、金刺氏にかくまわれていた時に、 この辺りで遊んだということで駒王坂とよばれている道を上ります。 枯葉で埋もれた旧坂は、足も滑ります。 しばらく上ると、山城・桜城の矢倉・武器庫の跡がありました。 やがて道は、別の方から上る一念坂と合流します。 そこには、一念石と呼ばれる碑が建っています。 平安末期の大祝で武将でもあった金刺盛澄が修業の場とした所だそうで、座禅を組んで精神統一をした所だとか。 そこには児玉社・湯泉社・秋葉社・天白社などの摂社もならんでいました。 |
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坂の合流点から、桜城へと向かいます。 ここからは、眺望が一気に開けます。 獣除けの扉を通って、城址へ到着です。 砦の様な、展望台がありました。 前方は木も伐採されており、眺望を楽しむ事ができます。 夜はイルミネーションも点くとか。 桜城は、金刺氏の山城ですが、三王台に霞城が造られた後で、 鎌倉末期になって、諏訪氏との確執も強まって来た頃に戦時の備えとして造られたものだそうです。 さらに奥には、山吹城があるとか。 城からの急坂を下ります。 こちらは、良く整備されており手摺もありました。 |
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唐糸・万寿姫五輪供養塔: |
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下って来ると一念坂に合流、案内板に従って、唐糸・万寿姫の供養塔へと向かいます。 供養塔へは、少し下って向かいの尾根へと上ります。 入口の人家の玄関前の庭に地蔵様がありました。 少し上った所に、山の神と供養塔がありました。 唐糸は、霞城の城主・手塚太郎光盛の娘で、琵琶と琴の名手で18歳の時鎌倉に召されて、 管弦の座をあずけられたそうですが、木曽義仲の命で 、頼朝を暗殺しようとしたが、失敗し囚われの身となったそうです。 唐糸の一人娘・万寿姫はこれを知り、頼朝の館に使え、 鶴岡八幡宮での舞の褒美に母の身代わりを願って、二人とも許され霞城へ戻ったそうです。 ここも眺めが良く、下に秋宮リンクが見えます。 リンクは、諏訪湖がスケートの中心地であった明治42年に、諏訪湖で滑れない時の為に作られたとか。 日本初のフイギュアーの競技会も開かれたとか。 |
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秋宮恵比寿社: |
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恵比寿社。秋宮本殿の脇を通って、甲州街道へと出ます。
今回は、秋宮に来てもあまり寄る事の無い恵比寿社によってみます。 社は、手前に大黒社、奥に恵比寿社があります。 社は昭和23年に、出雲大社から父神・大国主神を美保神社からは、 兄・事代主大神の分霊を受けて建てられたそうです。 |
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霞城: |
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霞城は下社大祝・金刺盛澄の弟て平安末期の武士・手塚光盛の居城だそうで 伝教大師・最澄が山王社を造ったとされる山王台にあります。 金刺氏は、神武天皇の第二皇子の流れをくむもので、科野・信濃国造家として 古墳時代には南長野のあたりが国造の中心だったそうですが、後に諏訪郡領として着任し、 初めは長地中屋の辺りに居を構え、後に東山田に移り、 春宮の祭神を務め横河川の洪水地帯から逃れ、秋宮を造って今の下諏訪中学校の辺りに居を構えて定着したそうです。 金刺氏は、下社の大祝で、霧ケ峰の御射山神事をとりしきっており、何れも流鏑馬の名手だった様です。 ここにある銅像は、何故か城主の光盛ではなく、兄の盛澄の方です。 木曽義仲と共に京へ上ったのは光盛の方で、盛澄の方は大社の行事があり引き返し戦には参戦しなかったそうです。 光盛は琵琶湖・粟津の戦いで頼朝軍に敗れ戦死したそうです。 頼朝は、義仲討伐後に盛澄を捕える様命じたが、梶原景時の取りなしで御前で流鏑馬の技を披露、 その見事さに頼朝の怒りもとけてこの地に戻ったそうです。 会長さんの説明を聞いて、秋宮の駐車場まで戻ります。 余談ですが、漫画家の手塚治虫氏の遠祖は、手塚光盛になるそうです。 最近、富部の鎌倉街道が整備された、ということでバスで移動、そちらの道を歩いてみる事になりました。
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若宮神社: | |
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バスは、こんな所通れるのという様な、細い急カーブのある坂道を上り、本郷六地蔵へと向かいます。 ここは、地元富部地区の地域自治会が主体となって平成23年から鎌倉街道調査復元整備を行って来た所だそうです。 急な石段を上った所に神社はありました。 御柱を引き上げるのは、かなり大変そうな坂です。 若宮神社は建御名方命の御子十三神を祀ったもので、大祝家の屋敷神とされたものだそうです。 ここ富部には、大祝他五官が住んでいた事があったそうです。
左手にちょっと離れて津島社がありました。 |
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鎌倉街道は、綺麗に整備されチップもひかれて、随分と歩きやすくなっていました。 やがて、すばらしい展望台に到着。 対岸の火灯山の灯りを見て、富部の女が泳いて通ったという民話の富部の地はこの辺りだつたとか、 会長さんの話を聞いて、対岸の火灯山わ探しましたが、 今日はあまりの陽気で、対岸ももやりどのあたりか良くわかりませんでした。 振り返ると、先ほど上った桜城の展望台もみえました。 眺めも十分楽しんだ所で、時間も間も無く昼となり、 甲州街道へと下った所でバスに迎えに来てもらい、食事にマリオさんへと戻ります。 |
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ちょっといっぷく:マリオ |
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昼食の前に、会長さんの説明で今回の旅のおさらいをして頂きました。 今回、秋宮では恵比寿社を見学しましたが、マリオさんの恵比寿社は升に入った、 大黒様と恵比寿様、益々繁盛との事でした。 ただ、建御名方命はお札なので、建御名方命は蒙古襲来の時撃退した神風でもあり、 風神を造って3人が治まるょうにしたいとの事でした。 午後からは、横山先生も参加していただけるとかで、食事会にも参加頂き、 表装が新しく出来あがったチベット仏画を見せて頂きました。 今回の旅では、鎌倉時代の下諏訪と少し対話出来た様な気分でした。 これで、午前の部は終わり、午後からは江戸の伝統芸術と現代への伝承について学ぶ事になりました。 |
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諏訪湖博物館: |
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下半田南組護王車: 午後は、諏訪湖博物館で、開館20周年記念特別展「立川尚富の彫刻そして現代」 が開かれておりそれを見学することになりました。 入口を入ると、下半田南組の山車・護王車がロビー一杯に展示されていました。 山車は、300点ほどの部品を南組のメンバー70人が来て、5時間ほどかけて組み上げたそうです。 館内には、立川尚富の彫刻4点、絵、立川流二代・富昌の山車壇箱、立木音四郎種清の下絵、 知多の立川流中野甚右衛門、現代の作家・間瀬恒祥氏の作品等が展示されていました。 横山先生の解説を聞きながら、じっくりと見学です。 江戸末期に諏訪で発展した立川流は大きくなるにしたがつて、大工方と彫刻方に分かれていつたそうです。 明治になつて神社等の建築も減り、特に彫刻方の仕事は無くなってしまい、 立川流三代・富重の長男・尚富は彫刻では生計も立たす、警察官として暮らしたそうです。 それで、素晴らしい腕を持っていたにもかかわらず、作品も彫刻では今回展示された4点しか見つかっていないそうです。 そんな、諏訪で途絶えた立川流の伝統技術も、知多の山車造りに、二代冨昌・三代冨重が招かれ、 その技法が知多の立川流にうけつがれ、初代彫常、そして現代の間瀬氏へと引き継がれて行ったそうです。 間瀬氏は、知多で立川流彫刻研究所を開き、伝統文化の継承に努められているそうです。 知多半島・半田市のはんだ山車祭りは、5年に一度3月下旬から5月にかけて行われるそうで、 10地区で31台の山車が出るそうです。 そのうち江戸時代から残っている山車は9台あるそうです。 江戸時代の山車は、立川流二代・和四郎冨昌、三代・富重、二代冨昌の長女の夫・常蔵昌敬の作品があるそうです。 今回展示された、下半田南組・護王車の前身は内海の回船問屋・前野小平治が 立川流三代目・富重に作らせたものだそうで、後にこれを下半田南組が購入、 現在の山車はこれを初代彫常が再現したものだそうです。 旧の護王車は、知多の布土上村に売却、布土地区祭例で他の2台の山車と共に活躍しているそうです。 時の流れと、伝統工芸の技術の伝承の大変さをちょっぴり感じた一日でした。 |
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