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専女の欅: | |
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次にやってきたのは、秋宮の前の広場(専女社内)にある大欅・専女の欅です。 秋宮の前にも大欅が有ったそうですが、枯れてしまったそうで今は切り株だけが残っていました。 欅は町の文化財になっているそうですが、木の中は黒くくすんでいます。 中で火を焚いたものが居て、焦げたのだそうです。 |
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天龍道人の墓: | |
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土田墓地へと向かいます。 途中、高遠藩の家老の内藤家の跡を通ります。 内藤家は、内藤新宿一帯の持ち主で、新宿御苑は内藤氏の中屋敷跡だそうです。 えらい土地持ちが居たものですが、小野にはさらに広い横浜全体を持っていた人がいるそうです。 等の話しを聞きながら坂を下って行くと、土田墓地へと着きます。 入り口では、六地蔵さんが迎えてくれます。 左の地蔵さまの持っているのは、釈杖と宝珠、右のお地蔵さまが持っているのは、 左手は宝珠、右手で摘んでいるのは、骨だそうです。 六地蔵さまの奥に、弥勒菩薩の像がありました。 ちょっと人間くさい顔の菩薩さまですが、弥勒春芳が武田勝頼の命を受けて、 下社神宮寺の千手堂の再建の折、弥勒堂に願をかけて奉納したものだそうで、 室町時代に造られたものだそうです。 明治の廃仏毀釈にともない、神宮寺が取り壊された時、ここにうつされたものだそうです。 九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部家に生まれた天龍道人は、 もう一人の諏訪に住んだ文化人・松平忠輝公、同様90才過ぎまで生きたそうですが、 この墓石の字は自筆の書によるものだそうです。 天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していたそうですが、 天龍道人の墓を囲む渋川家の墓は、その子孫のものだそうです。 ここで、しばし先人を偲び、最後の承知川へと向かいます。 |
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承知橋: | |
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坂を下ってしばらく行くと、石垣に埋め込まれた大きな輝石安山岩の橋石があります。 承知川はさらにその先です。 橋のふもとで、先生に承知川のいわれについて話していただきます。 武田信玄が川中島の合戦からの帰り道、この橋まで来たところで、 馬がひっくり返って先へは進まなくなったそうです。 信玄は戦の前に、諏訪大明神に戦勝祈願に約束したがまだ社殿建替えの約束を 果たしていなかったことを思い出し、神のお告げ承知仕り候と言った所、 馬も動き出して帰国できたのだそうです。 それ以来、川は承知川と呼ばれているそうです。 又橋石の上には、アミダクジの様な模様が書かれていますが、これは翌年になって、 信玄が社殿を建替えようとしたが、まだ新しかったので金を奉納したのだそうです。 その時の千両を埋めた位置を記したものだとも言われているそうです。 さらに、「朝日さし、夕日輝く榎の元に、黄金千両、朱千両」という歌も残っている そうですが、四百年もたった今もまだ、お宝は見つかっていないそうです。 承知川のサンシュの木。 蕾も膨らんできました。 |
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天領道人の鷹の絵3題。 上の絵は夜鷹だそうです。 本日の昼食は、天龍道人の絵に囲まれての豪華な食事会となりました。 最初に会長さんから、今井さんが出版された天龍道人の絵が百数点のっているという 本をもとに、天龍道人につていの話をしていただきました。 その後は、ワインで乾杯しての食事会となりました。 来月は先生も喜寿のお祝いだとか、天龍道人は91歳まで活躍されたそうですから、 先生もこれからますますお元気で、マリオ倶楽部のご指導よろしくお願いいたします。 天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、 鷹の方は少ないそうです。 そういえば、茅野の江音寺で見せていただいた屏風絵も葡萄でした。 山水画の方はもっと少ないそうです。 天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫だそうで、江戸時代中期の人だそうです。 19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていたそうですが、 時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な下諏訪に住み着いたのだそうです。 54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは天龍川にちなんで、天龍道人と号したのだそうです。 |
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