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第五十七回自然と歴史探訪[諏訪のお寺めぐり[・来迎寺] |
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引接山来迎寺:浄土宗 | |
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今日の最初の訪問先は、近く(下諏訪)にある来迎寺さんです。 出かける前に、今日訪問する天龍道人の墓にちなんで、横山先生所蔵のお宝の、 天龍道人の掛け軸を見せていただいてからの出発です。 天気は今日も上天気バスで来迎寺の駐車場まで運んでもらいます。 来迎寺さんの参道には、立派な門柱が立っています。 これは向陽高校の近くで取れる安山岩の門柱だそうで、六方石と同じものだそうです。 このお寺は、銕焼地蔵で有名だそうで、門前で先生に銕焼地蔵の話をしていただきました。 銕焼地蔵尊は、山門を入って右手のお堂の中に祀られており、 厨子入りの秘仏で町指定の文化財になっているそうです。 4月の24日が御開帳になるそうで、お姿を拝めるのはそれまでお預けです。 銕焼地蔵の話を聞きます。 来迎寺という名は阿弥陀仏の来迎に由来するもので浄土宗に多いそうです。 地蔵堂と和泉式部の五輪搭、それと「かね」さんと、お地蔵様の像がありました。 なんでここで平安の歌人和泉式部が出てくるのか、近くに居ても知りませんでした。 ここで、銕焼地蔵の話しですが、平安の頃でしょう、金子で生まれた娘・かねさんは 小さい時に両親をなくし、下諏訪の湯屋別当方に幼女として奉公していたのだそうです。 かねさんは優しい子で、畑の途中にあるお地蔵様に弁当の一部をいつもお供えしていたのだそうです。 いじめは何時でもある様で、それを見ていた近所の人が、別当の妻に言いつけたところ、 妻は怒って焼け火箸でかねの額をたたいたのだそうです。 かねの額は切れて血が流れ、痛さに耐えかねて地蔵様の所までやって来て、 お地蔵様を見るとお地蔵様の額から血がながれており、 痛みがとれたかねさんは、水鏡で自分の顔をうつしてみると、 傷もすっかりなおって美しい顔になっていたのだそうです。(横山先生昔話。) この話には続きがある様で、その後かねさんは、都から来た越前守・大江雅致が 養女として都につれて行き書道・歌道をならい宮中に仕えたのだそうです。 その後、和泉守橋道点と結ばれ、平安中期の情熱的な歌人、和泉式部となったのだそうです。 和泉式部は姫を授かり、小式部としてこちらも歌人として活躍したそうですが、 17歳で早世してしまい、これを悲しんだ和泉式部はこの地蔵尊を守り本尊として都に勧清し、 庵を結んで尼となったのだそうです。 和泉式部の没後、鎌倉時代に入り最明寺(北条)時頼がこの庵に泊まった際に、 地蔵のお告げにより下諏訪のこの地に背負って来たのだそうです。 式部伝説は、各地にもあるそうですが、この下諏訪に出てくるとは、昔の街道の繁栄が思いやられます。
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