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左、毘沙門天。 (市指定文化財) 本堂脇段の牡丹の絵は、日本画家藤森青芸氏の作だとか。 岩瀬さんが小さい頃画いているのをみたそうです。 裏堂の壁には、彫金の八相成仏度衆生の図がありました。 釈迦の人間の姿での一生を描いたものだそうで、左下の絵から上へぐるりと見ていくのだそうです。 中央が仏足跡、下に向いているのは皆の方に向いているからだそうです。 和尚さんの熱弁はさらに続きます。 |
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本堂から一旦外に出て、お庭を眺め次に案内されたのは、忠輝公関連の部屋です。 庫裏から続くこの大広間には、藤森青芸の大掛け軸の前に、徳川の御朱印状を運んだ時のお籠が置かれていました。 これは、五代将軍綱吉が忠輝の永代供養料として30石の寄進が有った時のものだそうで、それ以後 将軍家の菩提所の一院となったのだそうです。 中段の間の襖絵もみごとでした。床の間には、忠輝公が使われたのか、お茶を挽く石臼が飾ってありました。 中段の間のさらに奥の上段の間に上げて頂きました。 そこには、代16代徳川家当主(慶喜公の後)家達公の書がかかり、床の間には忠輝公が使われたという 茶釜が置かれていました。 和尚さんお話はまだまだ続きそうですが、時間がなくなりここで見学も終了です。 平敦盛が使っていた青葉の笛が、織田信長に伝わり、さらに家康から忠輝に使わされたという 乃可勢の笛は見る事は出来ませんでしたが、いろいろ盛り沢山の見学でした。 最後に、忠輝公の改易は、当山和尚の助力で昭和59年に徳川本家より解かれたそうで、 くしくもその数年後にガリレオの宗教裁判の罪もローマ教皇ヨハネ・パウロ2世 によって解かれたということがあったそうです。 |
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愛宕山地蔵寺:曹洞宗 |
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地蔵寺本堂。 | |
本日二番目に訪れたのは、双葉高校の前にある地蔵寺です。 素敵な石段に導かれ山門をくぐります。 地蔵寺山門。 曹洞宗は禅宗なので三門かな。 まず本堂脇の潜り門を通って庭を見せていただきます。 |
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貞松院さんでちょっと時間をとり過ぎて遅刻してしまい、和尚さんを探せど見当たらず 急遽奥様に案内をお願いしました。 説明が始まろうとした所で、和尚さまの登場、選手交代となりました。 地蔵寺は、最初は金子城の鬼門鎮護寺として中州に造られたそうですが、 城が現在の高島城に移され、三代藩主諏訪忠晴の時に、高島城鬼門鎮護寺として丑寅(東北)の 方向の現在の場所に地蔵寺が建てられたのだそうです。 このあたりは水が無かったのだそうですが、開山にあたり露山恵白大和尚が願掛けをした所 水も湧き出し、現在の素晴しい庭園も出来たのだそうです。 庭園は開山当時の築庭で池泉鑑賞兼回遊式の庭園で、日本百名園の一つにあげられているそうです。 池には諏訪湖で良い鯉が捕れた時にはここに持ってきて放したので、鯉も沢山おり『鯉の寺』 とも、また近くにある清陵生と二葉校の生徒の『恋の寺』とも言われるそうです。 諏訪高島藩の祈願所である地蔵寺の御本尊は、延命地蔵大菩薩だそうで脇本尊は千手観音菩薩だそうです。 平安時代には地域では地蔵信仰が流行ったそうで、奥の院にあたる愛宕山大権現の火防守護の 勝軍地蔵(馬に乗った地蔵)も祀られているそうです。 この太鼓は、高島城の門の開閉の合図に使われたものだそうです。 本堂のガラスには、高島藩祈願所ということで梶の葉が描かれていました。 本堂中央の欄間は、上社神宮寺の普言堂に有った欄間だそうで、立派な龍の彫刻がありました。 立川流で普言堂といえば、初代立川和四郎富棟の作品かもしれませんね。 (横山先生が居られればすぐにわかる所でした。)
天龍道人の額は、下社神宮寺から移されたものだそうです。
出山釈迦像。 禅における仏陀の姿(禅境)を描いたものだそうです。 最後に皆さんお参りして、ありがたい御札を頂きました。 その後で、殿様が休まれたという部屋に案内して頂ました。 ここでも、色々と教えていただきました。 和尚さんありがとうございました。 天気はちょっと崩れそうでしたが、無事に最後までもちました。 昼食にはちょつと遅くなりましたが、急いでマリオさんに戻ります。 今日の昼食は、桜の咲く頃という事でさくら鍋です。 お目当ての貞松院さんの桜はまだ咲き始めでこれがでしたが、ここのさくらはちょつと冷えた体 に丁度良く、とても美味しくいただきました。 どうも御馳走様でした。 食事の終わる頃にはマリオさんの桜もかなり開いていました。 |
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