画像:ブラウン・シュナイダー画「服装の歴史」から。
19世紀前半ドイツ、上流階級の服装(1815-1820)
このライフルを発明したのは、鉄砲鍛冶ヨハン・ニコラス・フォン・ドライゼT (1787–1867)であった。彼は1824年から何回もの試作を繰り返し、1836年に完全なニードル銃を作製した。これは完全な弾薬筒を使うものであった。初期のドライゼ撃針銃は(旋条を持たない)滑腔であった。のちにプロイセン軍隊によって採用されたドライゼ銃は、楕円形の鉛弾を「サボ」と呼ばれるパピエマシェ(紙粘土)に詰めた自己完結型燃焼薬莢を使用したライフルであった。
5. ドライゼ銃
画像:ドライゼ・ニードル銃、1865年型。
4. クルップ るつぼ鋼の製造
画像:1830年、クルップは以前の未切削ロールに代えて切削済ロールの供給を開始した。顧客による不完全な切削によるひび割れが多かったからである。切削済ロールは製品保証付きで販売された。
画像:グーテホフヌングスヒュッテ・コンツェルンの発祥地:オーバーハウゼン・オスターフェルト所在ザンクト・アントニー・ヒュッテ。後のJHHコンツェルンの淵源は、1758年にオーバーハウゼン・オスターフェルトに設立されたザンクト・アントニー・ヒュッテである。その設立は同時に鉄加工センターとしてのルール地域の誕生の旗標となった。
1901年、明治34年に操業を開始した八幡製鉄所はグーテホフヌングスヒュッテによって設計された。
2. 蒸気船
画像:『クルップの歴史』ウイリアム・マンチェスター著、鈴木主税訳、フジ出版社 1982
画像:この会社を必死になって改修したフランツ・ハニエル(1779–1868)
ヤーコビならびに彼の後継者であるヴィルヘルム・ルエクの指導の下に、JHHは1820年から機械製造に参加し、その後の数十年間、蒸気機関、蒸気船、機関車、鉄道の組立てでドイツとルール地域の工業化にたいし重要な貢献を行った。
注 釈 1:
画像:銃尾からサボと呼ばれる紙カートリッジ付の銃弾を込める。立ち上がって銃口から弾丸を詰め込まねばならないオーストリア軍の銃にくらべ、立ち上がる必要がなく、伏せたまま、五倍のスピードで射撃することが出来た。
プロイセン軍が勝利した理由は、
1. 徴兵制で出身地別の編成を行ったこと。
2. 多数の鉄道路線を使用して迅速な人員の輸送と
潤沢な兵站を可能にしたこと。
3. 参謀本部制を採用し、戦場の現場指揮を重視し
たこと。
4. ドライゼ銃の威力 などであった。
1. アルフレート・クルップ
1848年からは、この新型武器がプロイセン軍の軍務に徐々に導入された。1866年の普墺戦争の間はドライゼ銃が広く使用され、サドワの戦いでは決定的な役割を果たした。
ドライゼは1864年、貴族に列せられた。
番外
画像:エッセンのフリート・クルップの鋳鋼工場に1818/1819年に新しく建てられた溶解工場。小さい建物はもともとは海外客用小屋として使用されたが、その後、クルップ家族の家となった。
画像:サボ。紙のカートリッジのなかに黒色火薬と弾丸が包まれている。引き金をひくと、撃針が黒色火薬の中を通り抜け、雷管(C)を叩く。火薬は前方から後方に向って燃え弾丸を発射させる。
画像:ブラウン・シュナイダー画「服装の歴史」から。
1822 ミュンヘン、中流階級の家族
画像:
ベルビュー城の近くのシュプリー川に浮かぶ蒸気船「プロイセンのシャルロッテ王女号」。1818年にはすでにシュプリー川を運行していた。
3. ハニエル 鉄工所
なお、1861年1月24日調印された日普修好通商条約のために来日したオイレンブルク伯爵が幕府の将軍に持参した公式贈答品のなかにふくまれていたクルップ社製のWalzmachine(圧延機)は左図。
引用:
フランツ・ハニエル。このドイツ人事業家はルール地方での工業パイオニアとして著名である。ヤーコビ・ハニエル・フイセン(JHH)工場の歴史のなかで、1830年、ドイツの蒸気船第一号「マインツ市号」を建造した。10年後には、この場所で蒸気機関車第一号「ルール号」を完成した。