モンティチェロ(2)
2011/10/24
ヴァージニアへの移動
英国側はニューヨークをはじめとする北部戦線で膠着状態にあったことから、南部から攻めあげるのが得策と判断してコーンワリス卿は、1781年3月、ヴァージニアに移動した。当時のヴァージニアの軍は貧弱そのもので、コーンウォリス卿に対抗できる状態にはなかった(英国軍にとっては、「リンゴにナイフを突き立てる」ような、至極無抵抗な状態だった)ので、後退を続け、議会をウィリアムスバーグに置いていたヴァージニアは、首都をリッチモンド、さらにシャーロッツビルに移した。
コーンウォリス卿(Load Cornwallis)によるモンティチェロ襲撃作戦
モンティチェロへの急襲
コーンウォリス卿はノース・アンナ川に幕営していたが、抵抗のまったくないヴァージニア軍の深追いをするよりは、約150km西方のシャーロッツビルに夜襲をかけて、高名なヴァージニア知事のトーマス・ジェファーソンと著名な独立戦争指揮者だったヴァージニア議会議員達を捕虜にするほうが効果的であると判断し、急襲隊を組織した。
隊長は、タールトンBanastre Tarleton中佐。
ヨークタウンでの決着
ストーントンに逃れたジェファーソン知事は防御態勢の不備を理由に、散々にこきおろされたが、それから4ヶ月後、コーンウォリス卿率いる英国軍はヨークタウンで降伏し、独立戦争に幕が引かれることになる。
画像:モンティチェロのパンフレットより
一方、タールトンはシャーロッツビルの街へ入る前に、部隊を二分して、マクレオドを小隊長としてモンティチェロに向わせた。この小隊がモンティチェロ邸を取り囲んだのは、ジェファーソンが下山してから5分後のことだった。
結局、小隊は18時間後に、秩序正しく、なにも乱さず、山を降りた。シャーロッツビルの街では逃げ遅れた議員7名が捕われた。住民達にはなんらの危害も加えられなかった。
(以上の襲撃の詳細については『Jefferson』Saul K. Padover, Konecky Konecky, 1980から抄訳)
ジェファーソンは病床にあった妻と子供達を馬車で下山させ、貴重品を地下室に運ばせ、書類を整理して、山下のシャーロッツビルを望遠鏡で眺めた。敵の竜騎兵がシャーロッツビルの街を走るのを確認して、ジェファーソンは山をおりた。
写真:緋色の軍服、ウイリアムズバーグの絵葉書から
ジェファーソンはこの士官を招じ入れ、極上のマデイラ・ワインを一杯のませ、ただちに山を下りて、シャーロッツビルの旅籠「白鳥」に宿泊している議員達に知らせるように命じた。
ジェファーソンは家族、ならびに宿泊していた両院議長と幾人かの議員達を起し、食事をさせた。議長達はシャーロッツビルへ赴き、議会の休会と50km西のストーントンへの移動を宣言した。
山間路を5時間半走り続け、モンティチェロに到着したのは朝の4時半だった。
ひづめの音に目を覚ましたジェファーソンが東玄関(現在の正面入口)にでてみると、緋色の軍装コートを着て羽根飾りを斜めに着けた士官が到着し、ニュースを告げた。
タールトンは100kmの道程をこっそりと24時間で走破する計画を立て、6月3日、夜陰に紛れて走り抜けた。
ところがたまたま27歳のジャック・ジュエというヴァージニア第16連隊の一隊長が、タールトンの道筋にあるルイーザという部落の旅籠「カッコー鳥」に宿泊していて、英国軍の意図を見抜き、60kmの(土地のものしか知らぬ)近道を愛馬「プリンス・チャーリー」に騎乗して走り抜け、シャーロッツビルに集合していた議員達とモンティチェロの自宅にいたジェファーソンに英国軍の急襲を知らせた。
写真:モンティチェロの庭園
画像:カムデン、サウス・カロライナ
サウス・カロライナでの戦い
戦いはボストンからニューヨークにいたるいわゆる北部地域で戦われたが、イギリスは大陸軍が南方で著しく弱体なのに着目し、サウス・カロライナに軍隊を派遣して、1780年8月に、カムデン(Camden)で大陸軍に圧勝した。このときの指揮官がコーンウォリス卿Charles Cornwallis。
英国軍が銃剣つきの鉄砲をかまえて突撃したら、訓練もなにもしていない農民軍だったアメリカ側は、戦いもせずに逃げ出した。ヴァージニア軍にいたっては、戦闘がはじまって5分もしないうちにばらばら逃げ出して、あっという間に「蒸発」してしまった、と書いてある。
アメリカの独立戦争の開始
1773年ボストン茶会事件が生じたため、イギリス政府はマサチューセッツの自治政府を廃止し、英国軍隊の指揮下に置くこととしたため、緊張が高まり、1775年4月ボストンの内陸30kmに在るコンコードで戦闘がはじまり、アメリカの独立戦争が開始された。
では皆様、ご機嫌よう。
画像:
シャーロッツビルの観光地図
黒いフェルトペンの線は私のホテルからの道筋で、タールトンとは関係ありません。
タールトンは東側(右方)からシャーロッツビルに入り、小隊を右下のMonticelloに向わせた。
地図:Hertz 赤い矢印がルイーザ。近くにCuckooという村落もある。
写真:南側面の農園。当時はここに多数の作業小屋があった。
画像:
画集”Thomas Jefferson’s Monticello, Thomas Jefferson Foundation, 2003”から
写真:建物の西側 庭園に面するポーチ