では皆様ご機嫌よう。
私にとってサン・アントニオは実は二度目の訪問でした。一回目は35年ほども前、私が働いていた業界のアメリカ大会がサン・アントニオのコンベンション・センターで開かれ、私は隣接するマリオット・ホテルに宿泊して優雅に過ごしたのです。今回はプライベートの旅行でしたから、ワンランク下のホリデイ・インでしたが、とても快適でしたよ。ドルの価値も下がって¥76/US$でした。皆さん、ホテルでは泊まるだけのようで、食事はリバーウォークで摂られているようです。ホテルの近くにはアメリカ流の殺風景なコンビニもありますし、コーヒーショップもありますし、生活には問題はありませんでした。
写真:地元のビールなのでしょうがスペイン語です。
写真:San Antonio リバーウォーク
ご存じのようにアメリカの大学には定年制が無く、能力のある人は何歳になっても現役で頑張れるのです。定年という制度は「年齢を根拠とする差別」なのだそうです。
私よりも12歳も年上。
彼の奥様の言によれば、彼の専門は日本ではなくて、フランスのドゴールあたりが得意分野らしいのですが、彼は私に、これまで日本人が一人たりとも私に教えてくれなかった事実をあっさりと教えてくれたのです。アメリカ人が日本をどのように捉えているか、どのように理解しているか、という事実を正直に告げてくれたのです。私はまるで夢から覚める思いをしました。それで直ちにこの人を私の先生にすることにしたのです。
何故日本から1万5千キロも離れているちっぽけな町に、16時間もかけて行く必要があったのか。日本人なぞ私の滞在中には、サン・アントニオを含めて一人もみかけませんでしたね。
先にも述べましたが、私はひとりの大学教授に会いに行ったのです。Prof. Dr. Alfred B. Sullivanがその人でした。
写真:サン・アントニオ近くのハイウエイ
けれども、実は私の真の目的地はサン・アントニオではなく、サン・アントニオの東北約100kmにあるサン・マルコスという小さな大学町でした。ここにテキサス州立大学のキャンパスがあり、大勢の大学関係者が生活しているのです。
サン・アントニオでレンタカーをして片道1時間の道程でした。アメリカは土地が広いから片道4レーンの巨大なハイウエイが通じていまして、運転するのは簡単至極でした。
写真:アラモの砦入口。昔のスペイン時代の修道院
サン・アントニオ
2011/10/18〜22
写真:水の都サン・アントニオ。リバーウォークにはレストランが並び、観光
ボートが水路を巡る。
画像:San Antonio
写真:水路沿いに歩道リバーウォークが作ってあって、沢山のレストランが営業している。
メキシコの楽団、マリアッチがやってきて、ギターとトランペットの響きに合わせ、大声で歌う。
写真:San Antonioのレストラン、Las Canarias。とても美味しかった。最近はアメリカ人もわきまえてきて食事の量を少なくして、とても美味しくデリケートにしてしまった。
この先生はカミソリのような頭脳を持ち、カリスマ性のある特別に有能な教授であると思いました。この考えはサン・マルコスでの二回目の面会のあとも変わっていません。二回目のときになにを教えてもらったかって? それは別項で説明することにしましょう。
これがサン・アントニオで行なったことのすべてです。
注:アラモの戦いについてウィキペディア記事を引用しておきましょう。
写真:アラモ砦内部
今回最初に訪問したのはテキサス州サン・アントニオ(San Antonio)という街。人口が約120万人、テキサス州ではダラス、ヒューストンについで三番目に大きい街。熊本市と姉妹都市になっている。
1960年、ジョン・ウエインが演じたデヴィー・クロケットの映画『アラモ』の舞台といえば、早わかりしていただけるだろうか。デヴィー・クロケットは1836年当時、テキサス独立戦争中、アラモの砦の守備を行ない、メキシコ共和国軍大統領サンタ・アナによる3月6日の総攻撃の際に落命した。テキサス共和国が成立する4月21日の直前でした。