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フェルマータの箇所の演奏
 
バッハの時代のフェルマータは、もちろん今日と同じように
つけられた音符や休符を必要なだけ保持する場合もありましたが、
状況によってはその箇所で即興的な演奏を要求されることがありました。
 
その中でもカデンツァと呼ばれる即興的楽句の挿入などは、
J.J.クヴァンツの著書によれば歌手が濫用しすぎて批判され、
場違いなカデンツァ行為を防ぐ措置がとられたほどだそうです。
つまりこれが当たり前のように行われていたということがわかります。
 
フェルマータがつけられた箇所の演奏について、当時の文献を紐解きつつ、
「フーガの技法」における適用の可能性を検討してみたいと思います。
 
 
1.曲の最後のフェルマータ
 
C.Ph.E.バッハは「正しいクラヴィーア奏法」(1753)第2章第9節で、
曲の終結部の音符や休符につけられたフェルマータの箇所において
上声部に任意の装飾を施すことを、譜例を示しながら説明しています。
これによると、装飾は通常ゆっくりとした情緒的な曲において行われます。
即興で装飾する自信のない方は、最後のトリルだけで済ますのもありです。
 
 
これは一例ですが、二重線で区切られた左の終止形を右のように装飾します。
 
さて「フーガの技法」はどうかといえば、ゆっくりした情緒的な曲が
あまりないので、最後のフェルマータの箇所を装飾するのは困難です。
つまり曲の流れをせき止めるような行為は好ましくないのです。
このような曲では他の鍵盤作品に見られるように、最後の和音かその直前で
トリルなどの定型的装飾を加えるのが精一杯といったところでしょう。
 
またContrapunctus7や8のように、J.S.バッハ自身が
曲の末尾に即興的なパッセージを入れている曲もありますが、
そのあとでさらにゴテゴテと装飾を加えるのは蛇足かと思われます。
 

Contrapunctus8の末尾です。187小節のソプラノの16分音符のパッセージのあとに
トリルが付されています。これ以上余計なことはするなという意味かと・・・。
 
「フーガの技法」の中で明らかにゆっくり演奏するべき曲といえば、
序曲風のContrapunctus6、サラバンド風の4声の鏡像フーガ、
そしてパストラール風のリズムによる10度のカノンの3曲となります。
(演奏速度については 演奏のテンポ において検討しています)
 
このうちContrapunctus6は、コーダの手前にカデンツァが入るものと
考えられますので、曲の末尾における更なる装飾は控えるべきです。
詳しくは次の 2.曲の中断箇所のフェルマータ で検討します。
また4声の鏡像フーガでは、すでに最後の音の直前で16分音符による
装飾が加えられていますので、これ以上の装飾は野暮というものでしょう。
 
10度のカノンは、まさにゆっくりとした情緒的な曲となりますが、
事実その末尾には"Cadenza"の指示が付けられており、
装飾を通り越して即興的な楽句の挿入が許容されています。
その演奏については最後の 3.カデンツァの演奏 で検討します。
 
 
2.曲の中断箇所のフェルマータ
 
C.Ph.E.バッハは著書の別冊に示した6つのソナタにおいて、
装飾カデンツァの実施箇所をフェルマータで示しており、
その演奏上の注意点などを本文の第3章§30で説明しています。
カデンツァの実施例は示されていませんが、鍵盤作品において
カデンツァが当然のように実施されていたことが伺われます。
 
カデンツァ実施箇所のフェルマータはJ.S.バッハの協奏曲にも見られ、
中には幸いにもカデンツァの実施が書き残されているものもあります。
 その多くは曲の終結部手前の属和音での中断に付されており、
書き残されたものはおおむね属和音の範囲内で実施されています。
 
J.S.バッハの鍵盤独奏曲においても類似する箇所が見られます。
フーガで例を挙げれば、平均律クラヴィーア曲集第1巻のイ短調BWV865や、
同第2巻の変イ長調BWV886などで、いずれも曲の終結部の手前に
属和音での中断があり、そこにフェルマータがつけられています。
 

フーガイ短調BWV865の79-80小節です。80小節の1拍目にフェルマータがあります。
 
平均律のフーガでカデンツァなんて、と異論もあるかもしれませんが、
BWV865でフェルマータが付けられているのは1回目の中断だけですし、
第2巻のト短調BWV885のように思わせぶりな中断が2回あっても
フェルマータが付けられていない曲もありますので、
あえて付けているということは、演奏上の要求あってのことでしょう。
 
「フーガの技法」も同様で、Contrapunctus6や3声の鏡像フーガでは、
曲の終盤にある属和音での中断箇所にフェルマータがつけられています。
またContrapunctus1や7にはフェルマータのない中断があり、
後者ではすでに即興的なパッセージすら加えられています。
よって先の2曲はカデンツァの要求と見て差し支えないでしょう。
 

Contrapunctus6の72-73小節です。73小節の1拍目にフェルマータが付けられています。
 
また先に 1.曲の最後のフェルマータ で触れたとおり、
10度のカノンにおいては具体的に"Cadenza"の指示があります。
ところで、Contrapunctus6や3声の鏡像フーガのフェルマータの箇所と
10度のカノンの"Cadenza"の箇所には、決定的な違いがあります。
先の2つは属和音、後の1つは属音上の四(六)の和音なのです。
 

Canon alla Decimaの79-82小節です。81・82小節の1拍目にフェルマータが付けられています。
 
これについてJ.J.クヴァンツの「フルート奏法」(1752)第15章§1では、
カデンツァは主調の5度上で為されるとされています。
一方D.G.テュルクの「クラヴィーア教本」(1789)第5章§15〜16では、
もっぱら四六の和音上でのカデンツァの実施が例示されています。
「フーガの技法」が書かれた時期は、カデンツァの様式が
この前者から後者に移り変わる過渡期に当るのです。
 
「フーガの技法」出版にあたって新たに加えられた10度のカノンが、
次の世代で主流となる新様式を取り入れていることは、
「フーガの技法」が作曲、編纂された10年足らずの間にも
時代が移り変わっていったことを感じさせて実に興味深いです。
 
 
3.カデンツァの演奏
 
J.J.クヴァンツの著書には、カデンツァは曲の最後で
聞き手に驚きを与え、印象を残すべきものだと述べられています。
「フーガの技法」にカデンツァの指示があるとすれば、
それはこの曲が作曲技法を示すためだけに作られたのではなく、
人に弾いて聞かせることを想定した作品だということを意味します。
 
それでは「フーガの技法」のカデンツァをどのように奏するか。
J.S.バッハの協奏曲にはカデンツァが書き残されたものがありますが、
それを参考にこそすれ、そのまま用いるわけにはいきません。
 
そこでJ.J.クヴァンツの「フルート奏法」第15章の説明から、
「フーガの技法」でのカデンツァ実践に関連する内容を、
私なりの解釈を加えつつまとめてみたいと思います。
 
--◇--
 
まずカデンツァはその目的から言って、聞き手に「長!」とか「うざ!」
などと不快に思われるような演奏であってはいけません。
短く簡潔に曲のイメージを表現し、かつ型にはまらないようにします。

通常カデンツァは単声ないし二声で演奏し、バスは伴いません。
単声では長引くとネタ切れになりやすいので、一息で歌える程度の長さにし、
かつフェルマータが付された和音からあまり離れないようにします。
二声以上で演奏する場合は、聞き手に飽きられない程度長めにしても良く、
フェルマータが付された和音の属・下属和音の範囲まで行っても構いません。
 
曲中の印象的なフレーズを使って作り上げるのもOKです。
また跳躍や三連符などを加えることで躍動感を表現できます。
二声以上で奏するときには、模倣やカノンを行うのも良いでしょう。
ただしフレーズの反復は程ほどにし、同じ音高で繰り返すのはNGです。
 
カデンツァを行うのは1曲1回までにしておきましょう。
同様にカデンツァのあとでフェルマータに装飾を加えるのも控えましょう。
でないとクヴァンツ先生が×××××てしまいます。
J.J.クヴァンツは、ことあるごとに Ekel Ekel 言ってまして・・・。
 
最後に、演奏の前にカデンツァを作っておいても良いですが、
それを演奏する際にはその場で作ったかのように弾きましょう。
 
--◇--
 
J.J.クヴァンツの著書には多くの例が挙げられていますので、
詳しくは原典や邦訳を参照していただければと思います。
またC.Ph.E.バッハのカデンツァ集が作品全集の補巻として
The Packared Humanities Institute から出ています。
J.S.バッハとはやや趣味を異にしますが、ヒントにはなるでしょう。
 
J.S.バッハ自身のものとしては、他の作品に書き残されたカデンツァや、
協奏曲や組曲の、特に緩徐楽章の末尾における装飾も参考になります。
 
 
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