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私の農業観
○まいん農園が目指す持続可能な循環型農業とは(2010.2.3)

・自然の仕組みが手本(内生菌 エンドファイト)2010.12.29
・第三世界でも成立する栽培技術と作業技術
・堆肥の全量を自給する
・家庭から出る食物残渣や排泄物は農地に戻す(バイオガス)
・家族だけで栽培できる広さが適正規模
・収益性は追求するが、優先順位の一番にしない
・地域、土地の風土を生かした栽培と加工(2011.1.3)
・農地は農地として次の世代に譲り渡す(2011.1.3)
○有機農業から学んだこと

 私は、農家で生まれましたので、小さい頃からよく田畑の手伝いをさせられました。学校から帰ると、真っ先にテーブルの上に置いてあるおやつに向かうのですが、毎日のように母の手紙が添えられていました。そこには、「これを食べたら、どこどこの畑に来いよ。待ってるよ。母ちゃんより」と書いてあります。またか…とガッカリしながらも、母が作ったおやつのお焼きなどをほお張りながら、弟と自転車に乗って畑に行きました。農家にとって、子どもは大事な労働力だったのです。両親が苦労をして働いている姿をずっと見て育ちましたので、農業の大変さは判っていました。そんなわけで、学校を卒業してからは、迷わず農業以外の道を目指し都会に出ました。それが今は、有機農業に取り組んでいるわけですから不思議なものです。
 職業を農業に変えた理由は、環境問題などについて考えるようになったからです。どんな暮らし方をすれば持続可能な社会が実現されるのだろうか?などと悩んだ時期があり、その結果、二酸化炭素の排出が少ない業種で、食料を生産、自給できる農業こそが、自分にとって理想的な生き方であるという結論に達しました。
 9年前に実家のある原村にUターンして農業を始めました。循環型の生活を目指していましたので、知人に紹介されて、長野県有機農業研究会の種苗交換会に参加するようになりました。そこで出会った活気あふれる若者たちの人間的な魅力に引かれ、各種イベントに楽しく通っているうちに、有機農業の意義を深く考えさせられるようになりました。現在は、5反(50a)の畑で雑穀や野菜を不耕起(耕さない農法)により有機栽培しています。
 一般的に有機栽培とは、化学肥料と農薬を使わずに行う農法ですが、有機といっても様々な解釈があります。例えば、遺伝子組み換え作物は、大量に輸入されて飼料や加工品として使われています。動物堆肥は有機資材ですが、遺伝子組み換え作物を食べた家畜の堆肥は大丈夫なのか?有機JAS認定制度が出来てから、海外で認証された食品が、オーガニックブームに乗って大量に輸入されていますが、化石燃料を大量に使い、二酸化炭素を撒き散らしながら、ジェット機で運んできた商品が有機と呼ぶにふさわしい食べ物なのか?途上国の農村秩序を破壊してまでも、安価に生産できるからと輸入される有機作物は何なのか?また、オフィス街の地下室で、土も使わずに水耕栽培された野菜が有機と呼べるのか?など、きりがありません。
 有機作物を、単に食の安全性という基準だけで見るのは、間違いです。有機作物には商品としての価値以外にも、環境保全や作り手の有機的な思い、農村の有機的な暮らしといったお金では測れない価値が、それぞれの生産現場にあるはずです。そして、持続可能な循環型社会を目指す上では、有機農業は欠かせないものです。それを教えてくれたのが有機農業研究会の仲間でした。
○食料自給率と農業政策

 現在の食料自給率(カロリーベース)は40%です。1960年の時点で79%だったものが、75年には54%に減少し、85年までは53%と横ばいが続いていましたが、85年以降再び急落が始まり、95年には43%、そして98年に40%となり現在に至っています。農水省のデーター(農業生産指数)によると、国内の食料生産量は80年代の後半まで拡大していました。それなのにこの時期自給率が著しく減少しているのは、生産量の伸びを上回る勢いで消費量が伸びたことを意味しています。食料消費量が増えた要因は、食生活の変貌にあります。とくに畜産物や油脂類の消費が大きく拡大し、それらの多くは、飼料や原料を海外に依存していたことが原因しています。また、米の消費量が減ったことも自給率の低下に拍車をかけました。
 農業政策はどうだったのでしょうか。1945年(終戦)、民主化を進めるために、財閥の解体と農地改革(地主、小作制度を改める)が行われています。戦後の農業政策は、食料の自給を目指し、農地拡大政策から始まりました。しかし、農地拡大政策での成果は思うように上がらず10年もしないうちに食料自給の道を放棄してしまいます。54年、日本がアメリカの余剰作物を買うかわりに、アメリカが日本への防衛投資を行ない、日本製品を購入するという内容で協定を締結しています。61年、農業基本法が制定され、農業を産業化する政策が取られました。以後、農業経営の規模拡大が図られ、農業土木事業型の公共事業が始まります。69年、減反政策が開始されました。これは、農政が進めてきた規模拡大路線とは矛盾する政策でした。規模拡大政策はその後も続けられていきます。90年代に入ると対日貿易収支の不均衡を理由にアメリカから農産物の市場拡大を求め圧力がかかります。牛肉とオレンジの自由化が妥結されました。2000年代に入っても規模拡大路線は続いていきます。最近では、規模拡大の手段として、担い手を絞り込む方法が取られようとしています。国が示している担い手の認定基準は、年間530万円以上の所得を得られている農家です。これを平均的な収益性で換算すると、規模的には、都府県では4ha以上、北海道では、10ha以上となります。(10年先の目標を都府県10ha、北海道20haとしている)
 戦後の農業政策は、一貫して規模拡大を掲げています。しかし、労働生産性を上げることで所得が伸び農家の自立が促されるとした国のシナリオは達成されていません。農業の産業化は、農業者を消費者化させ、機械や資材業界、そして農協をはじめとする流通業界を大きくしました。その影で農業が衰退している事実を見逃すわけにはいきません。
○ 農業の再生に向けて

 国の政策は、依然として規模拡大を推し進めようとしています。農業は、家族的な経営による小規模農家が基本だと思います。国土が狭く急峻な地形が多い日本においては、大規模化には限界があります。広大な農地を有する海外の国と価格的な競争をしてもかなうわけがありません。山岳が多い信州ではなおのことです。最近では、規模を拡大した農家の離農率が高くなってきています。企業的な労働環境とは違い、気兼ねすることなく自由に働ける環境も農業の魅力であることを忘れてはなりません。
 グローバル経済の推進が日本の農業に壊滅的な打撃を与えることは明確です。農家は、お金にならない仕事として実に多くの役割を果たしています。水路の管理や山林の手入れ、田んぼの土手草刈りなどの作業によって農村の景観をつくり出しています。田んぼは、水を溜め、浄化し、治水の役割も果たしています。また、アカトンボやドジョウを初め、数えきれないほど豊かな生態系を育んでいます。外国からの安い農作物におされ、農家が減少すると今まで当たり前に思っていた農村風景や生きものたちが少しずつ消えていきます。
 農業の再生は、農家の力だけではどうにもなりません。できるだけ国産のもの、地元産のものを食べる運動が必要です。食の安全は近くのものを食べることでしか担保されません。
宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」の中に「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ…・」とあります。今では、米を一日四合食べている人はほとんどいないと思います。それは、その分のカロリーを肉や魚、乳製品、油脂、砂糖、パンなどで摂取しているからです。欧米型の食生活になってから、子どもたちにさえも生活習慣病が増えています。米国のマクガバン報告の中では、1960年代の日本型食生活が理想の食事だと評価しています。もっと日本の食文化を見直そうではありませんか。
 今後の農業や農村を考えたとき、新規就農者の受け入れ体制及び支援策が大切になります。また、環境直接支払い制度の導入も重要な課題ではないでしょうか。21世紀は、シンクグローバリー、アクトローカリーでいきたいものです。
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