白隠禅師『坐禅和讃』


衆生本来仏なり     水と氷の如くにて


水を離れて氷なく    衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして  遠く求むるはかなさよ


譬えば水の中に居て   渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず


六趣輪廻の因縁は    己が愚痴の闇路なり


闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は   称嘆するに余りあり


布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等


その品多き諸善行    皆この中に帰するなり


一坐の功を成す人も   積みし無量の罪ほろぶ


悪趣何処にありぬべき  浄土即ち遠からず


辱くもこの法を     一たび耳に触るるとき


讃嘆随喜する人は    福を得ること限りなし


況や自ら廻向して    直に自性を証すれば


自性即ち無性にて    已に戯論
(けろん)を離れたり

因果一如の門ひらけ   無二無三の道直し


無相の相を相として   往くも帰るも余所ならず

無念の念を念として   歌うも舞うも法の声


三昧無礙の空ひろく   四智円明の月さえん


この時何をか求むべき  寂滅現前する故に


当処即ち蓮華国     この身即ち仏なり


  (「白隠禅師『坐禅和讃』禅話」
柴山全慶、春秋社)

白 隠 禅 師 『坐 禅 和 讃』

 最後にもう一度、白隠の人格形成ステップを時系列的にまとめておこう。


 貞享二年
       1685駿州駿東(すんとう)郡原駅(現在の沼津市原)
                           で生まれた。

 宝永五年春  (1708)高田の英巌寺で見性。高慢ちきとなる。宗覚に会
            う。

            宗覚に連れられ、飯山の正受庵へ行く。
            正受老人に嘲られ、疎まれ、
            それでもなお「神秘体験A」こそ真理だと主張し
            たところ、

    5月4日      殴られ、崖から突き落とされ、気絶させられた。
 宝永五年11月 (1708)わけのわからぬまま、とぼとぼと原に帰る。
              その後、修行を継続する。

 宝永六年 6月   (1709)「見性」後の虚脱感、倦怠感に悩まされ
            ていた。
 宝永六年後半 (1709)その後、白隠の精神状態は急速に悪化する。
            心気逆上、肺臓の痛み、両脚の冷え、耳鳴り、内
            臓諸器官の機能低下、不安神経症状、心神の疲労
                        困憊状態、幻覚、発汗、催涙状態、などが常態と
                        なってしまう。

            白隠はこの旨、宗覚に手紙で知らせた。
 宝永七年春    1710)宗覚、静岡の宝台寺で白隠と会い、
            白隠を飯山に連れて帰る。
            正受老人、白隠に禅病の理由を語る。
 宝永七年3月  (1710 正受老人、白隠に内観の法を習得するように命じ
             た。
      4月末       白隠が町人に箒でぶたれる。白隠、覚醒する。
     54日        正受老人が白隠に「無想心地戒」を授ける。
             このあと、白隠は松本の恵光禅院で受戒。
 宝永七年5月末  (1710) 飯山を離れ、原村に帰る。
 享保十一年      1726) 正受老人の教えを完全に理解。法華経の真意を理
                        解する。


 これらの精神的な過程を経て最終的に到達した境地は、彼の『坐禅和讃』
に纏められて開示されている。

画題:白隠
          『達磨図』
         万寿寺
           水上勉
          『水墨画の巨匠 第七巻、白隠・仙香x
          講談社、1995