西暦159327日、前田利家書状

 この時点で京都の箔打ち職人は金沢・七尾に移住してきていた。


――豊臣秀吉による朝鮮征伐の戦に加わった前田利家は、肥前名護屋
 の陣中から、七尾の留守役三輪吉にあてて、「金子三枚か五枚、は
 くをうたせ可申候。五月中にことごとく出来候様に可申付候。加州
 にても銀はくの事申付候。」


  利家の封藩以前から箔打ちは加州、能州にあったらしい。利家が製
造を命じた七尾の箔打ちとは、京都山崎の浪人で、北国に下って箔商
売を行っていた松井惣兵衛の倅、箔屋佐助であるとみられる。


  利家は七尾から金沢への進出のさい、箔屋佐助の身内中から、とも
に金沢に移住し、その前住国を屋号とし、祖先の名を襲名して、能登
屋佐助と名乗ったと推定される。


 能登屋佐助は、一応領内の需要を満たす程度に打立てた、と考えら
れる。



西暦1603年(慶長8年)江戸幕府開かれる。

――江戸時代における箔類の製造販売の特徴は、幕府の厳重な統制下
におかれたことである。幕府の統制は、全国の主要鉱山を直轄経営し、
地金を完全におさえていたので、比較的容易に実行された。


 統制の目的は、箔の使途が主として織物、屏風、仏壇、仏具、飾り
金物、漆器、陶器、水引などの工芸品ないしは奢侈品であるため、金、
銀の消耗を防ぎ、奢侈を矯正し、さらに運上の取立てなどが眼目であ
った。

西暦1667年(寛文7年)、幕府による貨幣鋳造禁止令

――貨幣鋳造権を幕府が独占するだけでなく、貨幣
 の材料である金銀銅の地金を、幕府の集中的管理
 統制下におくことを意味した。


西暦1,674年、『静庵随筆』黒川道祐、

――銀箔の錆止め方法、大根の絞り汁を引く。


西暦1,691年、『本朝画史』狩野永納、

――箔押しの技術に関する記述。
 「ふのり」に膠をくわえる。


西暦1696年(元禄9年)、箔座の設置

――幕府の製箔管理機関として箔座が設置された。
  江戸に本座、大阪に出張所がおかれた。

  箔屋に免許を与える機関であり、自ら打立ては
 行わなかった。


  「箔打申候者共、箔出来候はば、不残箔座へ致
 持参、御運上差出の上、箔座極印(ごくいん)を
 取、売買可仕事」とあるように、箔屋が打立てた
 箔類の販売のさいはもちろん、上澄屋から上澄を
 買取る場合も、上澄屋が下金屋から下金を買取る
 場合にも、一々箔座の封印あるものを買取ること
 を要し、かつ一定の運上(箔運上と称された税金)
 を納入すべき義務があった。


   江戸文化の爛熟期にあたって旺盛な金銀箔の需
 要を示すもの。


  金沢の製箔も表面上製造を中絶したが、製造箔
 技術の命脈が絶えるほどの絶対的なものではなく、
 なんらかの名目をもって内々少量の製造が続けら
 れた、と考えられる。

西暦1705年(宝永2年)、

――金・銀箔上澄、梨子地飾金具の下金をも箔座の一手販売とした。

  また、すべての売買は直接に箔座で行うように統制が強化された。



西暦1709年(宝永6年)、

――将軍綱吉の死去とともに、箔座は廃止された。

  金箔は金座(御金改所(おかねあらためしょ))に、銀箔は銀座に移
 し、かつ金箔は江戸・京都の、銀箔は京都の定職人に、真鍮箔・銅箔
 は、京、大阪、伏見の在来職人に限ってその製造を許し、他国の職人
 の打立ては、隠打としていっさい厳禁した。例外は、尾張徳川家の名
 古屋、奥州伊達家の仙台、会津松平家の会津若松の三藩のみで、藩入
 用分のみに限定されていた。

西暦1,712年、『和漢三才図会』

――箔の品名、
  「極上を大焼貫、次を中焼貫、次を仏師(およそ10分の1
 の銀が加えられている)、次が江戸色、次が青箔(
3分の1
 が混ぜてあり、色が青い)」これは金の純度の順で、ほぼ現在
 の箔の基準と似ている。



  箔の寸法は、時代とともに大きくなり、
   2寸半(2.5X 3.03cm= 7.575cm
   28分(8.484cm
          33分(9.999cm

  大正時代には、
   1尺角(1尺とは10/33m30.3cm

 まで出来たが、現在は
   36分(10.9cm
          42分(12.7cm

 が主流で、一部
   7寸箔(21.2cm

 もある。

画像:

伝統的工芸材料
『金沢箔』
石川県箔商工業協同組合
出版年度不明
より借用。

ちなみに
東照宮の造営。正保三年(1646)

資 料 ( 2 )

画像:

いづれも
伝統的工芸材料
『金沢箔』
石川県箔商工業協同組合
出版年度不明
より借用。

西暦1,212年頃、『宇治拾遺物語』、

――京都の箔打が大和国金峰山の金
18両を持ち
 帰って、箔
7,8千枚を打ったという記事がある。

   一両で400枚の勘定。1両は10匁強であるか
 ら、その当時の箔は
1匁で40枚、10.09gで
 あり、現在の
0.02gと比べると5倍あまりの厚
 さだった。


――「いまはむかし七条にはくうちあり、みた
 けまうでしけり」。昔から「箔打」の称号が
 使われていた。




西暦1,279年、『沙石集』

――「仏師を呼びて金箔をおさするに」

画像:
山越阿弥陀図(全図)<京都国立博物館蔵>
絹本著色
120.6×80.3cm
鎌倉時代(13世紀)
国宝

(極楽浄土へ連れていってくださる
 阿弥陀如来は常に身金色である。

  浄土信仰は現在も続いている。)

http://www.kyohaku.go.jp/meihin/kaiga/butuga/mh4201j.htm

(この項以降の記述については

 『金沢箔の沿革と現況』河野信次郎、河野金属箔粉株式会社、
S41
   
『加賀金沢の金箔』下出積起與、北国出版社、S47

引用した。)

画像:
金閣寺
http://www.cisnet.or.jp/home/ezo/SI.Fot/C26.KYOTO/C26-1-3a1.htm
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西暦1,397年、金閣寺

――足利義満が創建。柱、壁、勾欄などに金箔を貼った。

西暦1,417年、東大寺大仏

――足利義持が東大寺大仏を金箔で化粧した。
  使用した金箔は相国寺で打たせた。