一方、テレサは明らかに「B after A」という理性的なアプローチ
を行っているため、聖職者が、それは魂の純化のステップなのだ、と
説明してもこれをなかなか素直に受け入れることができない。

 聖霊がキリストであり、神であるならば、私はすでにそこに到達し
た。その私が、なぜ神に反する行動を取りたいと熱望するのであろう
か。しかもその道程は苦しみの極致である。私は一体どちらを、何を
せよというのか、と彼女は問うているのである。

 私見では、この時点でテレサは、「神はいない」「神は私を救わな
い」という結論に到達したのだ、と思われる。そしてかえって、この
虚無、暗闇、深淵、無の中に消えること、自殺への誘い、これらを否
定できない「私」として認識したと思われる。

 思い出していただきたい。25歳にして大請願を樹てたときの彼女の
命題は、「果たして神は存在するのか」「果たして神は私を救うのか」
の二つであった。だが、彼女は40歳にしてこれらの命題をふたつなが
らに否定してしまった。

 このように相反するベクトルを持つ価値、無上の喜悦と底なしの深
淵、生きる悦びと自殺へのいざない、これらをふたつながらに認識し
た場合、それらを矛盾なく統合することは可能だろうか。

 それは一見不可能のように見える。なぜなら、この相反する二者が
ともに確実なものと認識されるときに、人は行き場を失い、最も深い
魂の苦悩を味わうからだ。

「神はいない」「神は私を救わない」

 カトリックは、信ずべきは「聖霊」だと主張する。

 悪霊が出現するなかを、それを乗り越えて聖霊に到達すること、こ
れこそカトリックであると三位一体説は主張する。事実、イグナチオ
・デ・ロヨラは正確にこのコースを歩んで、彼の信じるキリストと合
体し、イエズス会を設立した。彼の記述した『霊操』は後続するもの
が同じコースを歩めるようにと願い、まず悪魔の出現を念じよ、と命
令する。

 「現実を無視して抽象的・空想的に考えるさま」(広辞苑)を「観念的」と定義すれば、観念的には、助けの来ない宙釣り状態はまさにキリストだ。だが、現実には、十字架に釘で打ちつけられていない、自らの自由意志で行動できる彼女は、このような心理状況で、どのような行動を取るべきなのであろうか。このような具体的な対応の仕方に関する指示がキリスト教には欠けている。

 だが、テレサのように初めに「念祷の一致」、あるいは「恍惚」の
状態に達してしまった者が、事後に混迷に襲われた場合、どのような
考え方を取るべきなのであろうか。この点につき、カトリックは理性
的な解決法を提示していないように思われる。


 筆者の用語を用いることが許されるならば、

 カトリックは「A
after B」、つまり狂信的な信仰を信者にたい
て要請しているのである。

 神秘体験Bを垣間見てから、神秘体験Aに到達せよ、と命じている
のである。

 この「深淵の底に引き落とす欲望の重圧」を感じながら、「聖なる霊が確固不動のものを求める愛によってわたしたちを引き上げる」のを見よ(『告白』13-7)。「二つの意志が認められることを理由にして、本性を異にする二つの精神があり、一方は善であって、他方は悪である」と考えてはならない(『告白』8-10)、と三位一体説の信奉者であるアウグスティヌスは説く。

画像:Arnold Böcklin
          "The Magdalene's Sorrow
               Over the Body of Christ"
          
1867
          
Christian Geelhaar
           "Kunstmuseum Basel"

          The Friends of
               the Kunstmuseum Basel, 
          
1996


   キリストを失って、
         「神はいない」
         「神は私を救わない」
         と、魂の苦痛にあえぐ
         マグダラのマリア。

     たしかにその地は見えず、形がなかったのである。それは
    その面(おもて)には光のない、どういうものであるか知ら
    ない巨大な深淵であった。

       (聖アウグスティヌス『告白』12-3 服部英次郎訳、
                          岩波文庫)