B の 前 兆 現 象 の 例 (2)

6. トルストイの『わが懺悔』 

『宗教的経験の諸相』上 P231


 五十歳の頃にトルストイは、彼の惑いの時期が始まった、と述べ、その時期を彼は、「いかに生くべきか」あるいは、何をなすべきか、がわからない停止の時期と呼んでいる。そのような時期が、私たちの社会生活が自然に呼び起こす刺激や興味がなくなってしまった時期であったことは、明らかである。人生はそれまで魅力あるものであったが、いまや味気ない、しらじらしいもの、しらじらしい以上に、死んだものとなった。それまでいつも疑う余地のない意味をもっていた事物が、意味のないものになった。「なぜか?」「それから、何か?」という疑問が、だんだん頻繁に彼を襲うようになった。初めのうちは、そういう疑問は解決されるにちがいないし、また、時間をかけさえすれば、たやすく解答も発見できるように思われた。しかし、その疑問がたえず緊急さをましてくるにつれて、彼は、自分の状態が病人がはじめに感じる不快感に似ていることに気づいた。つまり、病人ははじめの不快感にほとんど注意を払わないが、そのうちにその不快感が持続的な苦しみに変じる。そこで、病人は、一時的な変調だと思ったものが、実は自分にとって世界中でいちばnゆゆしいことであることを、すなわち、死を意味することを悟るのである。

 「なぜ」「どうして」「なんのために」という疑問には、なんの応答も与えられなかった。


「私は」とトルストイは述べている、「わたしの生活がこれまでいつも寄りかかっていたあるものが、私の内部で崩れ落ちたのを感じた。私にはしっかり?まえておれるものが何一つ残されていないことを感じた。そして、精神的には私の生活は停止してしまったことを感じた。抗(あらが)いがたい力に駆り立てられて、私は、なんとかして、この世の生活からのがれ出ようとした。私が自殺をしようと欲していた、などとは確かに言えない。なぜなら、私を生命から引き離そうとしたその力は、単なる欲求などよりも大きい、はるかに力強い、はるかに一般的なものであったからである。その力は、これまで私が生きようとしてきたその熱望と同じような力であった。ただそれが私を反対の方向へ駆り立てたまでであった。それは、人生から逃れ出たいという、私の全存在の熱望であった。

「幸福で壮健だった私が、毎晩ひとりで眠りに行く部屋の垂木(たるき)で首をくくらぬようにと、縄を隠しておかねばならなかった。手っとりばやく銃で自殺しようという誘惑に負けないようにと、私はもはや猟にも出かけなくなった。

「自分が何を欲しているのか、私はそれがわからなかった。私は生きるのがこわかった。私は人生に別れたいという気持に駆り立てられた。そして、それにもかかわらず、私はなお人生に何かを期待していたのであった。

「しかも、そういうことが、外部の事情からはどう見ても私が申し分なく幸福であるはずの時期に起こったのであった。私には愛し愛される良い妻がいた。良い子供たちと、私のほうで骨を折らなくともひとりでにふえてゆく莫大な財産があった。私は、以前にもまして、親戚や知人たちから尊敬されていた。未知の人たちからも賞讃を受けていた。誇張なしに、私は私の名がすでに有名になっていることを信じることができた。そのうえ私は、精神にも肉体にも病気がなかった。それどころか、私と同じ年輩の人々にはめったに見られないような体力と精神力とをもっていた。百姓たちと同じように草を刈ることもできたし、ぶっつづけで八時間も頭脳を使う仕事もでき、そうしても別に悪い影響を感じなかった。

「それだのに、私は、わたしの生活上のいかなる行為にも、納得のゆくような意味を与えることができなかった。そして私は、私がそのことをそもそもの最初から理解していなかったことに驚いた。私の精神状態は、意地の悪いばかげた冗談をいって誰かにからかわれているようなものであった。人は、生に酔い痴れている間だけ、生きることができるのである。しかし、酔いがさめると、人生がまったくばかげた詐(いつわ)りであることを悟らざるをえない。人生についてもっとも真実なことは、人生にはおもしろおかしいことなど何もないということである。人生とはただもう残酷でばかばかしいだけのものである。

「東洋には、旅人が荒野で猛獣におびやかされる、というたいへん古い寓話がある。

「旅人は、猛獣から逃れようとあせって、水のない井戸に飛びこんでしまう。しかし、彼は、その井戸の底に、一匹の竜が口を開いて自分をむさぼり食おうと待ちかまえているのを見る。そこで、その不幸な男は、猛獣の餌食にならないようにあえて井戸から出ることもならず、竜に食べられないようにあえて底へ飛び降りることもならず、井戸の割れ目の一つから生え出ている野生の灌木の枝にすがりついた。手が疲れてきた、彼はやがてある運命に屈しなければならぬことを感じた。しかし、それでもなお彼はすがりついていた。すると、白い鼠と黒い鼠との二匹の鼠が、彼のぶら下がっている灌木のまわりをむらなくまわりながら、その根を噛み切っているのを見た。

「旅人はそれを見て、自分がどうしても死なねばならぬことを知った。しかし、そうやってぶら下がっている間に、彼は自分のまわりを見まわして、灌木の葉の上に、数滴の蜜のあるのを発見する。彼は舌を伸ばして、それをなめてうっとりするのである。

「この旅人と同じように、私も、逃れようのない死の竜が私を八つ裂きにしようと身構えているのを知りながら、生命の枝にすがりついているのである、そしてなぜ私がそのように苦しめられるのか理解できないのである。私はさっき私を慰めてくれた蜜をすすってみる。しかし、その蜜ももはや私を喜ばせてくれない。そして、夜となく昼となく、白い鼠と黒い鼠とが、私のすがりついている枝をかじっている。私に見えるのはたった一つ、避けようのない竜と、鼠だけである――私は彼らから眼をそらすことができないのである。

「これはお話ではなく、誰もが理解できるまったく議論の余地のない真理なのである。わたしが今日やっていることの結果はどうなるのだろうか? 明日することはどういう結果を生むのであろうか? 私の全生涯からいかなる結果が生ずるのだろうか? なぜ私は生きなければならないのか? なぜ私は何かをしなければならないのか? 私を待っている避けがたい死が取り消したり破壊したりしないような目的が、何か人生にあるのであろうか? 

「こういう疑問は、世にも単純きわまる疑問である。愚かな子供からもっとも賢い老人にいたるまで、あらゆる人間の魂のなかにそれらの疑問があるのである。それらの疑問に答えなければ、私が体験したように、人生を続けてゆくことは不可能である。

「『しかし、ひょっとすると』こう私はよく自分に言った。『自分の気づかなかったこと、悟らなかったことがあるのかもしれない。このような絶望の状態が人類にとって当たり前のことでありうるはずがない。』そして、私は、人々の獲得したあらゆる知識の分野に、その説明を求めた。勤勉に、辛抱づよく、無益な好奇心からでなく、私は問いつづけた。道楽にではなく、苦心して、昼も夜も執拗に、私は探し求めた。地獄に堕ちて助かろうとあがいている人のように、私は探し求めた。――しかし、私は何も見いだすことができなかった。その上、私より先に学問に答えを求めたすべての人々もやはり何一つ見いだしえなかったことを、確信するようになった。何ものも見いださなかったばかりでなく、彼らは私を絶望へ導いていったそのもの――人生の無意味さ愚かさ――こそ、人間の究めうる唯一の確実な知識である、ということを認めているのだ、と私は信ずるにいたったのである。」


 この点を証明するため、トルストイは、仏陀、ソロモン、ショーペンハウエルを引用している。そして、彼は、彼の属する階級および社会の人々がこのような事態に対処するのに普通よく用いている方法を、四つだけ挙げている。第一は、竜や鼠を見ないで蜜をすすっている単なる動物的盲目である。――「こういうやり方からは」とトルストイはいっている。――「私が現に知っているところにかんがみて、私は何も学ぶことはできない。」第二は、生きているあいだに、できるだけ享楽をむさぼろうとする反省的な快楽主義。――これは、第一の方法の、よりいっそう意識的な種類の麻酔にすぎない。第三は、男らしく自殺することである。第四は、鼠や竜を見ていながら、なおめめしく泣き事を並べて、生命の灌木にすがりついている態度である。

 自殺が、もちろん、論理的な知性の命じる当然な成り行きであった。


「けれども」とトルストイはいっている。「わたしの知性が働いていたあいだ、同時に私の内にある他の何ものかもまた働いていて、私に自殺を決行させなかった――それは、生命の意識と呼んでもよいようなもので、私の心を他の方面へ向かわざるをえなくして、私を絶望の状態から引きずり出す力のように働いた。……その年の間じゅう縄で首をくくろうか、それとも銃で一発やろうか、どうけりをつけたものかと、私はほとんど休みなしに自分にたずねつづけたが、その間でも、私の考えや観察がそのように動揺するのと平行して、たえず私の心は、あるものを慕うもう一つの感情に苦しみつづけていた。それは、神に飢え渇く感情と呼ぶほかに名づけようのないものである。神を熱望するこの感情は、私の思想の動きとはまったく関係のないものであって、――事実、それは思想の働きとは正反対のものであった――私の心情(ハート)から発したものであった。それは、一種の不安の感情に似ていて、自分があらゆるよそよそしい見知らぬ事物の真っただ中に、一人で置きざりにされた孤児であるように感じさせるものであった。そして、この恐怖感は、誰か私を助けてくれる者を発見できるのではないか、という希望によって和らげられていたのである。」(1)

(1) 私の引用はぞニア(Zonia)のフランス語訳から抜粋したものである。要約にあたって、一節の位置を勝手にかえた。


 幻滅がこれほどまでひどくなると、完全な原状への回復restitutio ad integrumはほとんど望みがない。知恵の樹の実を味わった以上、エデンの園の幸福はもはやけっして帰ってこないのである。・・・・・・