4. デヴィド・ブレイナードの記述 『宗教的経験の諸相』上 P322


「私の記憶では、このような精神状態が金曜日の朝から明くる安息日(1739
712日)の夕方まで続いた。その夕方、私はまたもや同じ寂しい場所を歩い
ていた。ここで、ものさびしい憂鬱の状態において、私は祈ろうと試みた。し
かし、祈る気になれず、またそのほかのどんな勤めをする気にもなれなかった。
私のこれまでの関心事も、修行も宗教的な感情も――もう失われてしまってい
た。私は神の御霊がまったく私を見すててしまったのだと考えた。しかしまだ
悲嘆にくれはしなかった。けれども、天にも地にも私を幸福にし得るものはな
んにもないかのように、やるせない気がした。このようにして――実に愚かし
いばかげたことであったと私は思うが、――祈ろうと努めながら、およそ半時
間に及んだ、――それから、木の繁った森のなかを歩いていたとき、いいしれ
ぬ栄光が私の魂に対して開かれるように思われた。
それは外の明るさなどでは
ない、なにか発光体の空想などでもなく、私が今までに一度ももったこともな
ければ、少しでもそれに似たものをさえもったこともないような、神について
のある新しい内的な理解ないし見方であった。三位一体のどの位格についても、
父についても子についても聖霊についても、私は特別の理解をもってはいなか
った。しかし、それは神の栄光であると思われた。そのような神を見、そのよ
うな栄光の神的存在を見て、私の魂は言いがたい喜びに満たされた。そして、
それが永遠に万物の上にいます神なのであろうと思って、私の心は楽しみ満足
した。私の魂は神の尊さに酔い恍惚としてしまって、私はまったく神のなかに
呑み込まれてしまった。少なくとも私自身の救いのことなどなにも考えず、私
自身という生物がそこにいることさえほとんど反省しなかったほどであった。
こうした内心の喜びと平安と驚きとの状態が、中断するのを少しも感じること
なく、ほとんど暗くなるまで続いた。それから私は私の見たものが何であるか
を考え、調べ始めた。そしてその晩中、心がこころよく落ち着いているのを私
は感じた。私は自分が新しい世界にいるように感じた。そして私の周りのすべ
てのものが今までとは違った様相をおびて映った。このとき、無限の知恵と価
値と尊さとをもつ救いの道が私に開かれたのであった、そのために私は、これ
以外の救いの道などをどうして考えることができたのかと怪しんだ。そして、
どうして私自身のさまざまな工夫をやめてしまわなかったのか、どうしてこの
すばらしい祝福された優れた道を今まで歩まなかったのか、とふしぎに思った。
もしも私が、私自身こころみたさまざまな勤めや、そのほか私がこれまでに工
夫してきた方法によって救われることができたのであったら、私の全霊がいま
この救いの道を拒んだことであろう。全世界の人々が、ただキリストの義のみ
によるこの救いの道をどうして見ないのか、どうして歩もうとしないのか、私
はふしぎに思った。」
(1)

(1) Edward and Dwight : Life of Brainerd, New Haven, 1822, pp. 45-47,
abridged.


筆者注:

森の中で散歩の途中、Aが到来した。それは新しい次元への開眼であり、
光を伴っており、その直後に喜びに満たされた。

彼が見たのは、「栄光の神的存在」だった。

9. ヤコブ・ベーメの記述 『宗教的経験の諸相』下 P230

 他の人々は創造された世界についての照明を与えられた。例えば、ヤコブ・ベ
ーメがそうである。二十五歳のとき、彼は「神々しい光に取り囲まれ、天国の知
識で満たされた。彼がゲルリッツで野原に出て草原に坐り、野原の草や芝を眺め
ていたとき、内心の光に照らされて、それらの本質や効用や特性などを知った。
草や芝の線や形や特徴が彼にそれを教えたのであった。」後期の経験について彼
はこう記している。「一時間の四分の一の間に、私は、私が何年もの間どこかの
大学で学んで得られるであろうよりもさらに多くのものを見そして知った。なぜ
なら私は、万物の存在、基底と深淵、聖三位一体の永遠なる生成、神の知恵によ
る世界および全被造物の系統と起源を見そして知ったからである。私は私自身の
うちに外と内と霊の三つの世界をすべて見そして知った。目に見える外的な世界
は内的世界と霊的世界との両方から生み出されたもの、あるいは外に生み落とさ
れたものである。そしてまた、私は悪のなかと善のなかとに働いている本質全体
と、それら相互の起源および存在を見そして知った。そしてまた同じようにして、
永遠の原がどうして豊かな実を産み出したのかを見そして知った。ために私は、
それを非常に驚嘆したばかりでなく、いたく喜びもしたのであった。しかし、そ
れと同じことを私の外なる人においては理解することができなかったし、それを
ペンで記すこともできなかった。なぜなら私は宇宙についてある完全な見方をも
ってはいたが、その宇宙は混沌としていて、万物が混沌にいだかれその渦に巻き
こまれていて、それを説明することは、私には不可能であったからである。」


Edward Taylor : Jacob Behmen’s Theosophic Philosophy, etc., London,
1691, pp. 425, 427, abridged.


筆者注: The Works of Jacob Behmen

時間的にはAの顕現は15分ほどのもの。

「存在」の根底を悟った。(「非存在」といっていないことに注目せよ)
「神」の概念と「万物」(生命体という意味)の存在の根源、生命の根源を知るにいたった。

言葉では説明できない経験である。

・・・・・と説明している。

7. 聖女テレサの記述 『宗教的経験の諸相』下 P228/232

P228

「こうして神は、或る魂を引き上げて御自分と合一させようとされるときには、
魂のすべての能力の自然的な活動を停止させられる。神と合一している間、魂
は見も聞きもせず、理解することもしない。しかしこの合一の時間はつねに短
、そして実際よりもさらに短いようにさえ思われる。魂がわれに帰ったとき、
自分が神のなかにあり、神が自分のなかにいましたことを疑うことがまったく
不可能なようなふうに、神は魂の奥深くに身を置き給うのである。この真理は
魂に強く印象されたままいつまでも残るので、この状態が繰り返されることな
く長い年月が経過した後でさえも、魂は受けた恩恵を忘れることもできなけれ
ば、受けた恩恵が事実であることを疑うこともできない。それにもかかわらず、
神との合一の間は魂は視力も悟性ももっていなかったのに、その魂がどうして
神のなかにあったということを見たり理解したりできるということが可能なの
か、と尋ねる人があれば、私はそれに答えて、魂はそのときはそれを見ないの
であるが、あとになって、魂がわれに帰ったときに、幻視などによってではな
くて、魂自身のなかにいつまでも残留している確信、神のみが魂に与えうる確
信によって、それを明確に見るのである、と言おう。神が万物のなかにいます
その神のあり方は、現前によるか、力によるか、それとも本質によるかでなけ
ればならぬという真理を知らなかった人が、私がここに語っているような恩恵
を受けて後には、この真理を信じて微動だにしなくなった
のを、私は知った。
それは実にゆるぐことのない信仰であって、啓蒙される以前の彼女と同じよう
にこの点に関して無知であった或る半可通の人に意見を尋ねてみたところ、そ
の人が神はただ「恩恵」としてしか私たちのうちにはいまさないと答えたとき、
彼女はその答えを信用しなかったほどであった。それほど彼女は真理の答えが
どうあるべきかを確信していたのであった。そして彼女がさらに賢明な博士た
ちに尋ねるにいたったとき、博士たちは彼女の信仰を強めた、そしてそれが彼
女をたいへん慰めた。・・・・

「しかし、見えないものに関してどうしてそのような確信をもつことができる
のか、と反問されるであろう。この質問に対して私は答える資格がない。それ
は神の全能の秘密であって、私が立ち入るべき筋合いのものではない。私が知
っているすべては、私が真理を語っているということだけである。そして、こ
の確信をもっていない魂が真に神と合一したことがあろうとは、私は決して信
じないであろう。
(1)

(1) The Interior Castle, Fifth Abode, ch. ., in Œuvres, translated
by Bouix,
. 421-424.

筆者注:

その(A)瞬間がくると、すべての能力(感性と思考)はその働きを停止し、
私たちはイメージとして現れるものを心に(受動的に)受け止めるだけと
なる。

その(Aの)時間はあまり長くない。
生命を創造した創造主が顕現された、と感じる。

その瞬間はすぐに過ぎてしまうが、そのときの印象は心に刻印されていつ
までも残る。

それは生命にたいする確信である。
魂が神に合一するのだ。

・・・・・と彼女は説明する。

P232

聖女テレサの場合も似ている。彼女はこう書いている。「或る日、祈ってい
たとき、万物が神のなかで見られ神のなかに含まれていることを一瞬間のうち
に知覚する
ことが、私に許された。私は万物をそれぞれ固有の形で知覚したの
ではなかったが、それにもかかわらず、万物について私のもった眺めは、この
上なく明瞭なもので、私の魂にいきいきと印象されていつまでも残っている。
それは主が私に賜うたすべての恩恵のうちでもっとも著しいものの一つである。・
・・・・その眺めは実に微妙繊細で、悟性では把握できないほどであった。」
(1)

(1) Vie, pp. 581, 582.

彼女はさらに続けて、神がまるでおそろしく大きくてこの上なく透明なダイ
ヤモンドのようで、そのなかに私たちのすべての行動の罪深さがかつて見られ
なかったほど明瞭に見えているようであったことを物語っている。また或る日、
アタナシウス信条を誦(よ)んでいる間に起ったことを、彼女はこう述べてい
る。――

「わたしたちの主は、一位の神がどうして三位でありうるかを、私に理解
できるようにして下さった。主はそれを私に実にはっきりと示して下さっ
たので、私はいつまでも心を慰められると同時に極度に驚かされた。・・
・・そしていま、聖三位一体のことを考えるとき、あるいはそのことを

が話しているのを聞くとき、私はこの崇高な三位がどうして唯一の神を形
成しているかを理解し、いい知れぬ幸福を感ずるのである。」

 さらにまた別の機会に、聖女テレサは、神の御母がどんなふうにして天国に
受け容れられたかを見そして理解することが許された。
(1)

  (1) Loc. Cit., p.574.

筆者注:

聖女テレサについてはを参照せよ。

A体験に到達した瞬間、「聖三位一体」という概念が理解されるようになる。
それは「神」の顕現であり、

それは「霊」(「聖霊」)であり、
キリストも私もその一部分だからである。

・・・・・とテレサは説明する。

6. WR・イング博士の記述 『宗教的経験の諸相』下 P28

(2) WR・イング博士は(『キリスト教的神秘主義』Christian Mysticism, London, 1899, p. 326.に関する講義のなかで)次のようにいう。「すぐれた聖徳をそなえた人々がわれわれに語る言葉の内容が互いに非常に似ていることに、諸君は気づかれるであろう。彼らはわれわれに向かって異口同音に次のように語るのである。われわれが不動の確信に到達したのは、推論によってではなく、直接の経験によってである。であって、人間の霊はそれと交わりを結ぶことができる。善、真、美についてわれわれが想像しうる一切のものは神のなかに見出される。われわれは自然のいたるところに神の足跡を見出し、また、われわれの内部にわれわれの生命の根元としての神の現前を感ずることができ、したがって、われわれが自己自身に立ち帰る程度に応じてわれわれは神のもとに近づく、と。彼らが私たちに語るところによれば、私たちを神と幸福から引き離しているものは、第一に、あらゆる種類の利己心であり、第二に、あらゆる形態の情欲であって、これらのものは闇と死にいたる道であり、神の顔を私たちから隠してしまう。これに反して、正しき者の道はあたかも輝く光のごとくであり、それはますます輝きを加えつつ完全な日に向かうのである。」

注:キリスト教神秘主義
    mysticism

筆者注:

それは自分で経験できるものである、
あなたが向き合うのは「神」であり、それは「霊」と称せられるもので、
その本質は「真・善・美」であり、
その内容は「生命」であった、

と、彼は説明する。
これはAである。

A の そ の 他 の 例

8. 聖イグナティウスの記述 『宗教的経験の諸相』下 P230

「聖イグナティウスは、或る日、ライネス神父に告白して、マンレサでのたっ
た一時間の黙想が、天国のことに関して、すべての博士たちのすべての教説を
一緒にしたものが彼に教えることができたよりもさらに多くの真理を彼に教え
た、と言っている。・・・・或る日、ドミニコ教会の合唱壇の階段のところで
祈っていたとき、彼は天地創造における神の知恵の計画をはっきり見た。また
別の機会(おり)に、祈祷行列に加わって歩いていたとき、彼の霊は神に夢中
になった。そして地上の住民の弱い理解力にふさわしい形と姿で聖三位一体の
深遠な神秘を観想することが彼に許された。この聖三位一体の幻視は彼の心を
甘美さでみなぎらせたので、後日それを想い出すだけで、彼はあふれるほどの
涙を流さずにはいられなかった。」
(1)

(1) Bartoli-Michel : Vie de Saint Ignace de Loyola, . 34-36.


筆者注:

イグナチオ・デ・ロヨラについては霊操』を読むこと。
彼はA after Bのタイプである。

5. スターバックの収集例 『宗教的経験の諸相』上 P381


「ある日曜日の夜、私は、自分の働いている農場に帰りついたら、自分の全能力と
一切のものを神に捧げ、ただ神によってのみ、そして神のためだけに、使ってもら
うことにしよう、と決心した。・・・・雨が降っていて、道路はぬかるんでいた。
しかし、私のこの願いは非常に強くなって行ったので、私は路傍にひざまずいて、
一切を神に告げ、その上で立ち上がって道を急ぐことにしようと思った。私の祈り
に対して特別の応答が与えられようなどと、私は少しも考えていなかった。私は信
仰によって回心はしていたが、まだまったく確実に救われていたわけではなかった
からであった。確かに、私が祈っていたとき、私は両手を神の方に差し出して、も
し神が私をご自分の道具として使って下さり、私に罪のあがないとなるような経験
を与えて下さりさえするなら、私は私のこの両手を神のために働かせ、私の足は神
のために歩かせ、私の舌は神のために語らせることにいたしましょう、云々と、神
に告げたことを、私は覚えている。――そのとき突然、夜の闇がぱっと明るくなっ
たようであった。――私は神が私の祈りに答え給うた、と感じ、悟り、知った。
い幸福感
が私を襲った。私は自分が神の愛し給うものたちの仲間の一人として受け
容れられたことを感じた。」


筆者注:

宗教上の「回心」と神秘体験Aとがはっきり区別されている。
突然、それが現れることが観察される。本人にとっては、いわゆる「思いがけ
ない」事態なのだ。

「パッと明るい」光があらわれることに注目しよう。
その直後に「深い幸福感」が彼を襲う。