11. 十字架の聖ヨハネ

『宗教的経験の諸相』下 P225

・・・・十字架の聖ヨハネは、「愛の統一」と呼ばれるこの状態を叙述して、この状態は「暗い観想」によって達せられる、と言っている。この観想において、神性は魂のなかにはいってくるが、それは或る秘密な方法によっておこなわれるので、魂は――

「自己を満たしている知恵の崇高さと霊的感情の微妙さとを表現すべき言葉も方法も比較も見いだすことができない。・・・・他の事柄では私たちは心像や感覚的表象を用いるのであるが、私たちが神についてのこの神秘的知識を受け取る場合には、いかなる種類の心像も、いかなる感覚的表象も、用いられない。したがってこの知識においては、感覚も想像力も使われていないのであるから、私たちは形も?めず、印象も得られず、また、神秘的で甘美な知恵が私たちの魂の深い奥底に実にはっきりと感じられてくるのに、それがどんなものであるかを伝えることもできないし、それに似たものを挙げることもできない。ある人が何か或る物を生まれてはじめて見たと想像してみるとよい。彼はその物を理解できるし、それを使うことも享楽することもできる。しかし、それに名を与えることができないし、たとえそれが感覚的なものに過ぎなくても、そのものについていかなる観念を伝えることもできない。ましてや、それが感覚を超越するものである場合においては、彼の無力さはどれほど大きいことであろう! これが神的な言語の特徴である。それが魂の奥深くに吹き込まれていればいるほど、心の底深くにあって、霊的で、超感覚的であればあるほど、それだけますますそれは内的および外的な感覚を超越し、感覚を沈黙させてしまう。・・・・そのとき、魂は、被造物の近づきえない、どこか広く深い寂境に、果てしのない荒野に、静寂であれば静寂であるほど楽しい荒野に、置かれているかのように感ずる。ここで、この知恵の深淵のなかで、魂は愛の認識の泉から飲むものによって成長し・・・・そして、たとえ私たちの使う言葉がどんなに崇高で学識豊かなものであろうとも、これを使って私たちが神に関する事柄を論じようとするとき、その言葉がいかに下劣で、無意味で、不適当であるかを、認めるのである。」(2)

(2) Saint John of the Cross : The Dark Night of the Soul, book A. ch.IF., in Vie et ?uvres, 3me edition, Paris, 1893, B. 428-432. Saint John : Ascent of Carmel の第二巻第十一章は、感覚的想像の使用が神秘的生活にとって無害であることを示すのに当てられている。


筆者注:この引用文は日本では座禅の禅定の状態に同じ。ABが生ずる前段階と考えるべきである。

10. 哲学教師ラニョ―教授 

『宗教的経験の諸相』下 P50


陰気な気質の一例として、最近パリで長い患いの後に物故した有名な哲学教師ラニョ―教授の手紙の一節を引用したい。――


「あなたは私の人生の成功を祈願して下さったが、私の人生はなるようにしかならぬでしょう。私は私の人生から何物も求めないし、何物も期待しておりません。長年のあいだ、私の唯一の力であり私の唯一の基盤である絶望を通じてのみ、私はこの世に存在し、思惟し、行動してきたのですし、またそれにのみ私の価値もあるのです。私がいま近づきつつある最後の試練のさなかにおいてさえ、救済を望むことなしにすますという勇気を、その絶望が私に残しておいてくれるよう願いたいものです。私はすべての力の出てくるその源泉からそれ以上のことを何も求めませんし、その願いさえかなえられるなら、あなたの祈願も達成されたことになるでしょう。」(1)

(1) Bulletin de l’Union pour l'Action Morale, September, 1894.

B の 前 兆 現 象 の 例 (4)