http://faculty.frostburg.edu/mbradley/psyography/williamjames.html
ウイリアム・ジェイムズは1842年1月11日、ニューヨーク市にて出生、
父はHenry James, Sr.
母はMary James
四男一女の長男であった。
一言でいえば、お金持ちのぼんぼんだった。
1855 - 1858年、(13-16歳)英国とフランスでの学校と家庭教師
1855 - 1858 - 英国とフランスでの学校と家庭教師
1858年 - アメリカにいったん帰ったのだが、父Henryの意向で再度訪欧。
1859 - 1860 - 海外に戻る。スイスとドイツで登校ならびに家庭教師
ジュネーブ・アカデミー(欧州の大学の一つ)に登校
1860 - 1861 - ニューポートでWilliam Morris Huntとともに絵画の勉強
James, age 19
[「半年ののち、ウイリアムは彼自身に(絵画の)才能がないことを認めた。多分、才能の欠如というよりも罪の意識からだったのだろう。そこで、父親の希望に沿って、ハーバード大学に入学して化学の勉強を始めた。」]
ウイリアム・ジェイムズが、19歳でハーバード大学のローレンス科学学校に入学し、医学の勉強を開始する前に、彼は欧州のほぼすべての博物館にくわしくなっており、また5カ国語に流暢になっていた。
1861- Enters Lawrence Scientific School, Harvard University.
1861 – ハーバード大学ローレンス科学学校に入学
ジェイムズがハーバードで勉強をはじめたときは、アメリカの市民戦争が荒れ狂い始めた時期だった。彼の弟たち、WilkyとBobは入隊したのだが、ウイリアムとヘンリー・ジュニアは入隊しなかった。健康問題を申し立てたのだ。ウイリアムは、神経衰弱とその他の視度不良とか、消化不良とか、を含む軽症の類、ならびに自殺を考えざるをえないような激しい抑圧状態など。
about 1862.
1864 - James family moves to Boston.
1864 - ジェイムズの家族はボストンに移り住む。
[「しばらくの後、家族の財産が次第に減ってきたので、ウイリアムは自分がいつかは自分で稼がなければならないことを自覚した。そしてハーバードの医学校に移ったのだ。」]
1864 - William enters Harvard Medical School.
1864 - ウイリアムはハーバード医学学校に入学
[「薬学も彼の熱中を呼び出すことがなかった。そこで、彼は一年の大部分をハーバードの著名な自然科学者のLouis Agassizとともにアマゾンへ旅行して過ごした。自然歴史学なら熱中できるだろうと考えたからだ。だが、そうはならなかった。彼は標本を集めることを嫌った」]
1865-1866 - Joins Louis Agassiz on an expedition to the Amazon.
1865 – 1866 – Louis Agassizとともにアマゾン地帯への探検旅行
ジェイムズが医学校での二年目を開始したとき、彼の自然科学者にたいする興味をテストするチャンスがもう一度与えられた。アガシ氏は標本を採集するためにブラジル探検隊を編成し、志願者を募集し、彼を探検隊に入れたのだ。この旅行はジェイムズに600ドルを払わせたが、彼は、それに値する、と決断した。かれは彼自身に言う。「ウイリアム・ジェイムズよ、この探検旅行で、君は君自身と君の資質を現在よりもしんみつに知ることになろう。そしてかえってきたときには、君の性格は開発され確率するだろう。」彼の家族は同意した。まあ、最低程度なのだが、ジェイムズが最高の自然科学者たちとともにけんきゅうに携わることに。そして彼の父親と叔母のケントはこの旅行を実現するための費用を用立てた。
Thayer探検隊はジェイムズをこれまでになかったていどに彼の家族から引き離した。コロラド号が1865年4月1日、ニューヨークを出港するやいなや、ジェイムズは彼自身が孤立した環境下にあることを発見し、彼は急速に抑圧状態に落ち込んでいった。彼が家に手紙したところによると、航海は荒れたが、彼自身は船酔いにはかからず、かかったのはホームシックだけだ、と。彼が書くに、「十二日間は死にかけの日々で、心も体も描写することも不可能なくらいに、ホープレスで、ホームレスで、違和感のある状態でありましたから、二度と同じ目にあうことはご免です」[『本当の現実』から]
1866 - James family moves to Cambridge (20 Quincy Street).
1866 - ジェイムズの家族がケンブリッジに移る(20 Quincy Street)
彼は医学校を始めたが、種々の疾患の組み合わせに悩まされた。背中の痛み、視度不良、消化不良、自殺志向など、それらのいくつかあるいは大部分は、かれの将来にたいする非決断により悪化したものであった。救済を求めて、彼はフランスとドイツへ行き、二年間のあいだ、入浴したり、Helmholtzとかその他の有名な生理学者の下で勉強したりして、結局新しい生理学に完全に精通することとなった。
1867-1868 - James in Europe, mainly Germany.
1867 – 1868 – ジェイムズ欧州に滞在、主としてドイツ
1867年4月16日、ジェイムズは欧州へ旅立った。彼は彼が最近倒れたことを家族に秘密にしておこうと誓いを立てていたから、ほとんど誰も彼が出発したことを知らなかった。彼の弟ハリーのように冒険好きの旅行者ではなくて、ウイリアムが求めたのは安全な場所であった。従って彼は欧州の大都会の近郊の小さな田舎町とホテルよりもむしろおばあちゃんのような女性が経営する家族的な民宿を好んだのである。パリに数日いたあと、彼はドレスデンへ行き、1867年の夏を過ごした。
1869 - James receives his MD from Harvard.
1869年 – ジェイムズはハーバードから医学博士号を授与される。
circa 1869,
age 27.
In ill-health.
六月、ついに博士号を入手してジェイムズは「重要な職業」と自称するものの一員となった。しかしながら、その業績も彼の感情的な生活の揮発性にはあまりインパクトを与えなかった。彼が言うには、彼はどうやったら満足させることができるか自分でもわからない、知的な飢餓状態に取り残されてしまった。だが、彼は信じたのだ。かれの本質をヒューマニティーへの貢献と調和させる方法が見つかっていないだけだと。もちろん、なによりもまず、その自己の本質を定義する必要があったが、それはおそろしい仕事であった。
1869-1872 - Ill-health and recovery.
1869 – 1872 - 不健康と回復
結局、彼は医学校に戻り、27歳で卒業した。健康状態が悪かったので、彼は開業しようとしなかった。その代わりに心理学を勉強し、かれの将来につき暗欝に沈み、彼の心ならびに世界についての科学的な見方と、彼の父親の霊的ならびに精神的な見方とのの間にある大きな差異について悩んだ。1870年、28歳で、このようなふさぎ込みに一年間も沈み込んだのち、彼は彼の父親ととてもよく似た突然の感情的な危機状態に陥った。
1872年、30歳に近くなってもまだ父親に経済的に依存し、将来にたいして何の計画もたっていなかったとき、ハーバードの学長Charles Eliot、ジェイムズの家族がケンブリッジにしばらくすんでいたときの隣人であったが、がハーバード大学で心理学を教えるように誘ってくれた。彼は受諾し、それからそこでほぼ35年過ごすことになったのである。
http://faculty.frostburg.edu/mbradley/psyography/williamjames.html
彼は1864年ハーバード医学学校に入学した。一年もたたないうちに、医学校の単調さから逃げ出す必要があると判断し、
1866年、ジェイムズはハーバード大学に戻り、医学コースの勉強を開始した。その頃、しばしば抑うつ症と自殺志向を伴う種々の疾患に襲われた。抑うつ状態で倒れたのち、ジェイムズが大学を二年間休学して、フランスとドイツで過ごし、ヘルツホルムとともに研究し、新しい心理学を学んだ。そののち、ハーバード大学に戻り、1869年博士号を取得した。
In the years to follow, James secluded himself from the world, complaining of
illness, depression, and neurasthenia. During this time, he began to
create a philosophy of life, deciding that his first act of free will would be
to believe in free will (Pajares, 2002).
30 歳 ま で の 伝 記