では、捨てられた聖明王の仏像はどうなっ
たのか?
その後、仏教の隆盛を迎えた推古朝に
おいては、百済、新羅からの仏像献上記
事は多く、また、わが国の飛鳥・白鳳時
代の仏像の多くは朝鮮および中国からの
渡来人およびその子孫の手によって制作
されてきたものであるから、飛鳥・白鳳
仏と、朝鮮の三国時代の仏像とが、きわ
めて共通する要素をもっていることはい
うまでもない。・・・・
(久野健『古代朝鮮佛と飛鳥佛』
(株)山川出版社1979 P5)
その後も、朝鮮三国からの仏像献上の記事は、書紀などに散見する。
敏達六年には、百済王が経論、および律師、禅師、呪禁師、造仏工、造
寺工など六人を送ってきた。わが国では、これらの人々を難波の大別王
寺に住まわせ、それぞれの特技を発揮させた。また同八年頃には、新羅
から仏像が献上され、同一三年には、百済から帰朝した鹿深臣(元興寺
縁起では甲賀臣)が弥勒の石像一躯を持ちかえり、また佐伯連も仏像一
躯を請来したという。このうち、鹿深臣が持ちかえった弥勒石像は、曾
我馬子が引き取り、初め石川宅に安置したが、元興寺を造営するにおよ
んで、そこの初めの本尊となったものではないかと私は考えている。こ
の馬子の元興寺(飛鳥寺)の建立に際しては、百済から、仏舎利および
僧と共に寺工、瓦博士、画工、露盤博士などを招き、崇峻元年(588)から
その造営が始まった。同五年には仏堂と歩廊とが建てられ、推古四年
(596)にはその主要堂塔の建設がおわり、僧を住まわせたという。この元
興寺造営の際には、高句麗の大興王から、黄金三二〇両が造営のために
送られてきたことが元興寺縁起に収録する丈六光銘に記されている。・・・・
後(のち)に、國(くに)に疫気(えやみ)行(おこ)りて、民(おほみたから)夭(あからしまに)殘(しぬること)*1を致す。久(ひさ)にして愈(いよいよ)多(おほ)し。治(おさ)め療(いや)すこと能(あた)はず。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏(まう)して曰(まう)さく、「昔日臣(いむさきやつかれ)が計(はかりこと)を須(もち)ゐたまはずして、斯(こ)の病死(やみしに)を致す。今遠(とほ)からずして復(かへ)らば、必(かなら)ず當(まさ)に慶(よろこび)有(あ)るべし。早(はや)く投(な)げ棄(す)てて、懃(ねむごろ)に後のaiさいはひ)を求(もと)めたまへ」とまうす。天皇曰(のたま)はく、「奏(まう)す依(まま)に」とのたまふ。有司(つかさ)、乃ち佛像(ほとけのみかた)を以て、難波(なには)の堀江(ほりえ)*2に流(なが)し棄(す)つ。復(また)火(ひ)を伽藍(てら)に縦(つ)く。燒(や)き燼(つ)きて更(また)餘(あまり)無し。是(ここ)に、天(あめ)に風雲(かぜくも)無くして、忽(たちまち)に大殿(おほとの)*3にひの災(わざはひ)あり。
(日本古典文学大系68 坂本太郎ほか
『日本書紀』下 巻第十九
岩波書店 昭和40年 P102)
こうして日本で始めてのお寺、向原寺が成立したのだが、あまり永くつづかず、疫病発生の根源であるとみなされて、仏像は大阪の難波の堀江に捨てられ、向原寺は焼かれてしまった。
*1 飛鳥の地名。今の奈良県高市郡明日香村の一帯。
*2 後の豊浦寺(桜井寺)の前身とされる。
久野健氏は、その著書『古代朝鮮佛と飛鳥佛』のなかで次のように述べる。
『扶桑略記』には、その仏像は阿弥陀
三尊で、信濃(長野県)の善光寺の阿弥陀
仏像がそれである、という。
(古坂紘一『宗教史地図 仏教』
(株)朱鷺書房 1999)
永く海中にあったことから、
かなり腐食していると思われる
が、残念なことにこの仏像は「
秘仏」となっていて、誰も実物
を拝観した人がいない。誰も見
たことがないのだから、実はす
でに泥棒に盗まれて無くなって
いる可能性もある。
わが国の仏教および仏教芸術は、欽明朝に百済の聖明王が、朝廷に金銅釈迦仏像一躯、および幡蓋・経巻などを献じたのにはじまる。その伝来の年については、日本書紀には欽明一三年と記し、元興寺縁起などには戊午年とし、これは欽明七年(538)にあたると推定されている。今日では後説が多くとられているから、六世紀の前半には、わが国に百済を通じ、遠くインドに起った仏教が伝わったことになる。
(久野健『古代朝鮮佛と飛鳥佛』
(株)山川出版社 1979 P5)
注:
*1 夭殘は若死。
*2 難波の入江の水を大阪湾に直接
放流するために開いた水路。
*3 磯城島宮の大殿。
写真右:
如来及び両脇侍像
法隆寺献納四十八体仏のうち
(重文 東京国立博物館)
平田寛(ゆたか)
『図説 日本の仏教 第一巻 奈良仏教』
新潮社 1989
この部分を『日本書紀』で読んでおこう。
(欽明13年)
冬(ふゆ)十月(かむなづき)に、百濟の聖明王、更(また)の名は聖王(せいわう)。西部(せいほう)*1姫氏(きし)*2達率(だちそち)*3怒利斯致契等(ぬりしちけいら)*4を遣(まだ)して、釋迦佛(しゃかほとけ)の金銅像(かねのみかた)一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)・經論(きやうろん)若干(そこらの)巻(まき)を獻(たてまつ)る。
(日本古典文学大系68 坂本太郎ほか
『日本書紀』下 巻第十九
岩波書店 昭和40年 P100)
注: *1 西部は百済五部の一
*2 姫氏は姓
*3 達率は官位(二品)
*4 怒利斯致契等は名
欽明天皇は、この仏像の取り扱いにつき、ご下問されたのだが、
物部氏と蘇我氏とのあいだで話し合いがつかず、そこで天皇がおっ
しゃるには、
天皇(すめらみこと)曰(のたま)はく、「情願(ねが)
ふ人稲目宿禰(ひといなめのすくね)に付(さづ)けて、
試(こころみ)に禮(ゐやま)ひ拜(をが)ましむべし」と
のたまふ。大臣(おほおみ)、跪(ひざまづ)きて受(う)
けたまはりて忻悦(よろこ)ぶ。小墾田(をはりだ)*1
の家に安置(ま)せまつる。懃(ねむごろ)に、世(よ)
を出(い)づる業(わざ)を修(をさ)めて因(よすが)
とす。向原(むくはら)の家*2を浄(きよ)め捨(から)
ひて寺とす。
(日本古典文学大系68 坂本太郎ほか
『日本書紀』下 巻第十九
岩波書店 昭和40年 P101)
難波の堀江については大阪市立大学教授
栄原永遠男氏による次の論文が詳しい。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/data/pdf_0502
nichidoku2/13houkoku4.pdf#search='髮」豕「縺ョ蝣豎・
場所は大阪市西区北堀江3丁目7和光寺近
辺らしい。