唯一の実在が発生させる問題(3)

   精神力の導入と日の丸特攻精神

 前節で心理誘導は行ってはならない、と述べたが、じつは心理誘導をおこなっている人たちには、罪悪感など毛筋ほども存在しないのだ。

 彼らは、人間の精神に生ずる超常現象はただ一つであり、他人を感化してそこに導くことが真に「善い」ことである、と信じ込んでいるからだ。

 1903年(明治36年)611日、54歳、寸心日記のなかに幾多郎は書き付ける。


「余は一大真理を悟得して、之を今日の学理にて人に説けば可なり。此の外余計の望を起すべからず。多く望む者は一事をなし得ず。」
   (久松真一著作集第八巻『破草
    鞋』理想社、
1974p24


なぜこのような誤解が起こるのであろうか。麻原彰晃の場合も、日本の社会はあっけに取られた。麻原彰晃は現在獄中であるが、いまだに「私は正しい」として論を譲らないのである。

筆者は「唯一の実在」と断定したことがそもそもの原因である、と考えている。

考えてみよう。


玉城康四郎は、東大図書館での爆発のあと、「矛盾」の存在で悩みに悩みぬいた。しかし、彼の爆発が唯一の実在であるとは断言しなかった。

林武は「杉林の樹幹が、天地を貫く大円柱となって僕に迫ってきた。それは畏怖を誘ふ実在の威厳であった。」としながらも、その後、後遺症で苦しみぬいた。

アヴィラのテレサは、「私の望みのすべては死ぬことで、もう煉獄のことも、私を地獄に価するものとさせた私の大きな罪を思いだしません。」と逆転する価値の世界の存在を認めた。

白隠は、正受老人になぐられたあと、深刻なノイローゼ状態となった。

25歳のゲーテは『若きウェルテルの悩み』を書いた。

平塚らいてうは雪山への自殺行を敢行した。

芥川龍之介は、『或る阿呆の一生』を書き上げた。

エドヴァルド・ムンクは、オスロ市郊外のNordstrandで自らの体内にある「死」と対面し、これこそ「私の本質である」と了解し、”The Scream”を描いた。


皆それぞれに矛盾の本質を追及したのである。

彼らの努力がすべてのケースについて成功したかどうかは、結果を問わない。

画像:
    観音菩薩立像
    銅製鋳造鍍金 飛鳥時代 7世紀
    東京国立博物館蔵 
  (法隆寺献納宝物)

    同館絵葉書
   ((株)
DNPアーカイブ・コム)

    我々が飛鳥時代以来、日本の精神
   としてきたものに、「精神力」など
   といういかつい言葉や「統一力」な
   どという概念は存在しなかった。
    それらは明治時代の思想の混乱期
   に主としてドイツ哲学の流れのなか
   で、移入されたのである。
    理由は?
    それが物珍しくハイカラであった
   からである。

    私たちのスタンスを変更しよう。
    東京国立博物館の法隆寺宝物館で
   法隆寺献納宝物を繰り返し、拝観し
   よう。

幾多郎は「矛盾」の存在を認めたにもかかわらず、その本質を追求せず、奇妙な論理でねじ伏せた。統一力と精神力で私たちの心のすべてを「唯一の実在」(神秘体験A)に統合できる、と彼は主張したのである。こうして心の実態を無視した精神力理論が出来上がった。「唯一の実在」が絶対の真理であり、そこに到達するための精神的な「活」が主体性の本質である、という理屈である。

この屁理屈が第二次大戦のスピリチュアルバックボーンとなった。サイパンのバンザイクリフで亡くなった多数の民間人たちは、その犠牲である、と思われる。

写真:
    VT信管により撃墜される特攻機。米軍が
   こうした
近代兵器に力を入れたのに対し
   日本軍はその
格差を精神力で埋めようと
   した。

http://landinggear.hp.infoseek.co.jp/kamikaze/kamikaze.photo1.htm

なお、さらに参考となるのは、

特攻機の先導(2)http://ohanashi.okigunnji.com/backnumber/te58.htm
http://chie.okigunnji.com/t/tokkoutotunyuu/tokkoutotunyuu.htm

サイパン島/多賀基良の体験記http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/taga.html